司馬子如

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司馬 子如(しば しじょ、489年 - 553年)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人政治家は遵業[1]本貫河内郡温県[2][3][4]

経歴[編集]

西晋)の宗室の南陽王司馬模の子孫とされる。代々雲中郡に住んだ。父の司馬興龍は北魏の魯陽郡太守となった。子如は若くして豪傑と交友することを好み、高歓と友誼を結んだ[2][3][4]。はじめ懐朔鎮省事・雲中司馬をつとめた[5][6][7]孝昌年間、六鎮の乱のために北方の州が陥落すると、子如は一家を引き連れて肆州に避難し、爾朱栄の礼遇を受け、仮の中堅将軍に任じられた。武泰元年(528年)、爾朱栄が洛陽に向かうと、子如はその下で司馬となり、持節・仮平南将軍となり、前軍を監督した。高都にいたって、爾朱栄は建興郡が険阻で往来の要所であるとみて、後顧の憂いをなくすため、子如に建興郡太守・郡都督を代行させた。永安元年(同年)、子如は平遥県子に封じられ、大行台郎中となった。子如は能弁であることから、たびたび爾朱栄の使者として宮中を訪れ、孝荘帝と面会した。葛栄の乱のため、相州が孤立すると、爾朱栄は子如を派遣して間道からに入らせ、防備の援軍とさせた。葛栄の乱が平定されると、子如の爵位は侯に進んだ。永安2年(529年)、元顥が洛陽に入ると、鄴に駐屯したまま行相州事をつとめた。元顥が平定されると、洛陽に召還されて金紫光禄大夫となった[8][9][4]

永安3年(530年)、爾朱栄が殺害されると、子如は宮中から出て、爾朱栄の邸に向かい、爾朱栄の妻子や爾朱世隆らを連れて洛陽から脱出した。爾朱世隆は晋陽に帰ろうとしたが、子如がこれを引き止めて河橋を占拠させ、世隆を洛陽に迫らせた。長広王元曄が即位すると、子如は尚書右僕射を兼ねた。普泰元年(531年)、前廃帝により侍中・驃騎大将軍・儀同三司の位と陽平郡公の爵位を呈示されたが、固辞して受けなかった。高歓が信都で起兵すると、爾朱世隆らは子如が高歓と旧交あるのを疑って、南岐州刺史として出向させた[10][11][12]永熙2年(533年)、子如は儀同三司の位を受けた[13]

永熙3年(534年)、高歓が洛陽に入ると、ほどなく子如は洛陽に入り、大行台尚書となって、軍事と国事に参与した。天平元年(同年)、東魏が建国されると、子如は尚書左僕射に任じられ、高岳孫騰高隆之らとともに朝政に参加した。高歓が晋陽に駐屯すると、子如は折に触れて面会に赴き、食事の相伴に与って、朝から晩まで語り合い、高歓と婁昭君から手土産を貰って帰るのが常であった[14][12][4]

興和元年(539年)、子如は山東黜陟大使となり、まもなく東北道大行台に転じて、諸州を巡検した[15][16]。子如は高歓の旧恩をたのみに、感情に任せた処断をおこない、公然と賄賂を受け取って恥じなかった。定州に入ると深沢県令を斬り、冀州に入ると東光県令を斬るなど、過失や遺漏があると極刑を下したため、官民は震え上がった[14][17]武定2年(544年)、尚書令に転じた[18][19]。ときに高澄が輔政の任にあり、子如のことを嫌っていたため、御史中尉崔暹に収賄の罪を弾劾させた。子如は罪科を免れたが、官爵を剥奪された。ほどなく行冀州事として再起した。子如は態度を改めて、不正官吏の摘発に力を振るった。行并州事に転じ、もとの官爵に戻され、野王県男の別封を受けた[20][21][22]。武定7年(549年)、高澄が死去すると、子如は崔暹や崔季舒を処断するよう高洋に勧めた[20][21][23]

天保元年(550年)5月、北斉が建国されると、子如は翼賛の功により、須昌県公の別封を受けた[20][21][23][24]。6月、司空に任じられた[25][26][27]。天保2年(551年)3月、馬に乗ったまま関を越えた罪を奏上されて、免官された。6月、太尉に任じられた[28][29][30]。天保3年12月25日(553年1月24日)[31]、鄴都の中壇里の邸で死去した[32]。享年は64。使持節・都督冀定瀛滄懐五州諸軍事・太師・太尉・懐州刺史の位を追贈された。を文明といった[33][21][23]

子の司馬消難が後を嗣いだ[34][21][23]

脚注[編集]

  1. ^ 『北斉書』および『北史』の記述による。墓誌はを遵業、字を子如とする。
  2. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 239.
  3. ^ a b 北斉書 1972, p. 238.
  4. ^ a b c d 北史 1974, p. 1947.
  5. ^ 氣賀澤 2021, p. 12.
  6. ^ 北斉書 1972, p. 2.
  7. ^ 北史 1974, p. 210.
  8. ^ 氣賀澤 2021, p. 239-240.
  9. ^ 北斉書 1972, pp. 238–239.
  10. ^ 『北斉書』の記述による。墓誌は「使持節・都督岐州諸軍事・驃騎大将軍・岐州刺史」とする。
  11. ^ 氣賀澤 2021, pp. 240–241.
  12. ^ a b 北斉書 1972, p. 239.
  13. ^ 魏書 1974, p. 288.
  14. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 241.
  15. ^ 魏書 1974, p. 303.
  16. ^ 北史 1974, p. 188.
  17. ^ 北斉書 1972, pp. 239–240.
  18. ^ 魏書 1974, p. 307.
  19. ^ 北史 1974, p. 191.
  20. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 242.
  21. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 240.
  22. ^ 北史 1974, pp. 1947–1948.
  23. ^ a b c d 北史 1974, p. 1948.
  24. ^ 『北斉書』および『北史』の記述による。墓誌は「復昌県開国公」とする。
  25. ^ 氣賀澤 2021, p. 79.
  26. ^ 北斉書 1972, p. 52.
  27. ^ 北史 1974, p. 247.
  28. ^ 氣賀澤 2021, p. 83.
  29. ^ 北斉書 1972, p. 55.
  30. ^ 北史 1974, p. 248.
  31. ^ 死没年月日は墓誌の記述による。中国の旧暦と西暦の年がずれるため、ここに特記した。
  32. ^ 趙 2008, p. 391.
  33. ^ 氣賀澤 2021, pp. 242–243.
  34. ^ 氣賀澤 2021, p. 243.

伝記資料[編集]

  • 北斉書』巻18 列伝第10
  • 北史』巻54 列伝第42
  • 司馬遵業墓誌

参考文献[編集]

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0