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内藤政貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤政貞
時代 江戸時代中期
生誕 貞享2年(1685年
死没 享保7年4月23日1722年6月6日
改名 長十郎(幼名)、遠山政貞、内藤政貞
戒名 智光院殿泰仁勇山大居士
墓所 神奈川県鎌倉市の光明寺
官位 従五位下主殿頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
陸奥湯長谷藩
氏族 土方氏内藤氏
父母 土方雄賀
遠山政徳
兄弟 土方某、政貞
松平義昌養女
松平義昌養女・榮姫
政醇前田玄長養女
斎藤三武正室
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内藤 政貞(ないとう まささだ)は、江戸時代中期の大名陸奥国湯長谷藩の3代藩主。官位従五位下主殿頭

略歴

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貞享2年(1685年)、土方雄賀(かつよし、土方雄隆の弟)の次男として誕生した。はじめ200石の旗本として幕府に仕えていたが、元禄16年(1703年)に2代藩主・遠山政徳が死去したため、その養子として跡を継いだ。このとき、姓を遠山から本来の姓である内藤(初代藩主遠山政亮の父・内藤忠興の姓)に戻している。祖父の土方雄次は母(内藤政長の娘)と妻(内藤忠興の娘)共に内藤家出身であり、政貞が忠興の曾孫であったことから内藤家の分家である遠山家に養子入りした。

宝永6年(1709年)3月に叙任し、日光祭礼奉行などを務めた。享保7年(1722年)4月23日に死去。享年38。

跡を長男・政醇が継いだ。

系譜

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父母

正室、継室

子女

養女

脚注

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