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ブルネイ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブルネイ帝国
ブルネイ・スルターン国
Negara Brunei

1368年–1888年


国旗

ブルネイ帝国の位置
16世紀におけるブルネイ帝国領
首都 コタ・バトゥ
カンポン・アイール
バンダルブルネイ[1]
言語 ブルネイ・マレー語
古マレー語英語版
古タガログ語英語版
アラビア語
ボルネオ語英語版
宗教 スンナ派
政府 君主制
スルターン
 •  1368年-1402年 ムハンマド・シャー英語版
 •  1425年-1432年 シャリーフ・アリー英語版
 •  1485年-1524年 ボルキア英語版
 •  1582年-1598年 ムハンマド・ハッサン英語版
 •  1828年-1852年 オマール・アリー・サイフッディーン2世英語版
 •  1885年-1906年[2] ハーシム・ジャリルル・アラム・アクァマッディーン英語版
歴史・時代 黄金時代
 •  スルターン制開始 1368年
 •  イギリス保護国 1888年
通貨 物々交換
タカラガイ

ブルネイ・ピティス英語版(後期)
前身
後継
ブルネイの歴史
スールー王国
サラワク・スルターン国
スペイン領東インド
オランダ領東インド
サラワク王国
ラブアン直轄植民地
英領北ボルネオ
ブルネイ
現在 ブルネイの旗 ブルネイ
インドネシアの旗 インドネシア
マレーシアの旗 マレーシア
フィリピンの旗 フィリピン

ブルネイ帝国(ブルネイていこく、マレー語: Negara Brunei)、またはブルネイ・スルターン国(ブルネイ・スルターンこく)は、かつてボルネオ島北部のブルネイ一帯を支配したマレー人によるスルターン国家であった。隣国のマラッカ王国ポルトガルに陥落英語版したこともあり、15世紀イスラームに改宗した[3][4]。最盛期にはボルネオ島沿岸部やフィリピンの一部までもを支配下に置いたが、17世紀以降次第に衰退していった[5]1888年イギリス保護国となり滅亡した。

概要

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ブルネイ帝国に関する歴史は、当時の史料でもほぼ言及されていないために史実の裏付けが乏しく、帝国史を理解することは非常に難しいのが現状である。現地や土着の史料にも帝国に関する証拠を示すものは存在しない。従って、ブルネイ初期の歴史については、同時期の中国王朝が残した史料に長年依存してきた[6]。中国の歴史書には「渤泥(ぼつでい)」という言葉が出てくるが、これがボルネオ島全体を指すと考えられている[7]。また、「婆利(ばり)」をブルネイと考える研究者も存在する[8]が、こちらについてはバリ島を指すとの指摘もあり[9]定かではない。

政治体制

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ブルネイ帝国は本質的に独裁体制であった。帝国は皇帝直轄領(Kerajaan)、公領(Kuripan)、世襲私領(Tulin)の3種の伝統的な土地制度によって成り立っていた[10]

歴史

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初期

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渤泥と中国との初期の外交については、10世紀後半に北宋で編纂された『太平寰宇記』に記録されている[7]1225年南宋の官僚である趙汝适により、渤泥が自国の貿易を守るために100隻の軍艦を保有し、多くの富を築いていることが報告された[11]14世紀には、ブルネイはジャワの勢力の支配下となった。1365年ムプ・プラパンカ英語版によって編纂された『ナーガラクルターガマ英語版』では、バルネがマジャパヒト王国属国とされる記述が見られ[12]、年間40樟脳朝貢していたことが分かっている。1369年スールー王国が婆利を襲撃し、財宝や金を略奪した。マジャパヒト王国の艦隊はスールー王国の軍勢を追い払ったが、この襲撃により婆利は弱体化した[13]。中国の歴史書における1371年の記述に拠れば、婆利は衰退の一途を辿り、マジャパヒト王国の完全な支配下に置かれていた[14]

拡大

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1818年で製作された『大清弌統天下全図』。ブルネイを始めとして、海南台湾ジャワジョホール大南カンボジア英語版の諸地域が清朝の支配下にある。
ブルネイ帝国の領土の変遷(1400年1890年)。

1389年にマジャパヒト王国の国王ハヤム・ウルク英語版が崩御すると、王国は衰退期に入り、海外の財産を管理することが出来なくなった。これはブルネイにとって勢力拡大の絶好の機会であった。1403年永楽帝が即位したが、彼は直ちに各地に使者を派遣して宮廷に敬意を表するよう要請した。これを受け、ブルネイは直ちに朝貢体制を取った。

15世紀までにブルネイの王はイスラームへ改宗し、帝国もイスラーム国家へと変貌した。これには、海上交易によりブルネイにやってきたインド人ムスリムやアラブ商人の影響が反映されている[15][16]。交易はボルネオ北部を中心に行われたため、後にボルネオ北部は東西の交易における要所となっていった[17]。なお、海洋力に頼っていた帝国の支配は沿岸や港湾、河口などの地域にしか及んでおらず、最後まで島の中心部に至ることはなかった。現地の歴史家はブルネイ帝国を「制海権帝国」と見なしている。ブルネイの王はオラン・ラウト英語版バジャウ族英語版などの水上生活者と友好関係にあったとみられ、帝国の艦隊も彼らが構成していた。しかし、前述の通り帝国の支配域は島内部まで及ばなかったため、ボルネオの内陸民族であるダヤク族を支配下に置くことは出来なかった[18]

隣国のマラッカ王国を崩壊させたポルトガルの商人は、1530年頃からブルネイ帝国と定期的に交易を行うようになった。商人によると、当時のブルネイの首都は石垣に覆われていたという[3][19]

第5代スルターンのボルキア英語版治世下で、ボルネオ北西部の沿岸地域(現在のブルネイ、サラワクサバ)やセルドン(現在のマニラ)、ミンダナオ島の一部を含むスールー諸島を支配した[20][21][22][23][24][25][26][27]16世紀にはさらに帝国の支配域は拡大し、カリマンタン西部のカプアス川デルタ地帯に到達している。カリマンタン西部のサンバス・スルターン国英語版フィリピン南部のスールー王国は特に、ブルネイ帝室との王朝関係を発展させていた。その他、ポンティアナック・スルターン国英語版クタイ王国バンジャール・スルターン国英語版なども、ブルネイのスルターンを彼らの代表者英語版として捉えていた。とはいえ、ボルネオ島やスールー諸島に点在していたマレー人のスルターン国とブルネイ帝国との関係は現在でも研究の対象である。他国の政治体制がその他のスルターン国に影響を与えている例はほかにも見られ、バンジャール・スルターン国はブルネイ帝国以外にもジャワ島のドゥマク王国から影響を受けていた。

滅亡

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17世紀末までに、ブルネイ帝国は継承を巡る内戦英語版ヨーロッパの植民地拡大、海賊行為などに巻き込まれ、次第に衰退していった[5]。フィリピンにはスペインが侵入し、ボルネオ南部にはオランダが、ラブアン、サラワク、ボルネオ北部にはイギリスが忍び寄り、西洋列強によって帝国の領地は次々と失われていった。1888年、スルターンのハーシム・ジャリルル・アラム・アクァマッディーン英語版はイギリスにこれ以上の侵攻を止めるよう訴えた[28]。同年、イギリスは「保護条約」に調印し、ブルネイはイギリスの保護国となった[5]。これにより、約500年間に亘りブルネイを支配した帝国は崩壊し、以降1984年の独立までイギリスの支配下に置かれることになる[29][30]

脚注

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  1. ^ Hussainmiya 2010, pp. 67.
  2. ^ Yunos 2008.
  3. ^ a b Holt, Lambton & Lewis 1977, pp. 129.
  4. ^ Barbara Watson & Leonard Y. 2015, pp. 159.
  5. ^ a b c CIA Factbook 2017.
  6. ^ Jamil Al-Sufri 2000.
  7. ^ a b Kurz 2014, pp. 1.
  8. ^ 鎌田 2014, pp. 100.
  9. ^ 班 2012, pp. 48.
  10. ^ M.S.H. McArthur, Report on Brunei in 1904, p. 102
  11. ^ History for Brunei 2009, p. 43.
  12. ^ Suyatno 2008.
  13. ^ History for Brunei 2009, p. 44.
  14. ^ History for Brunei 2009, p. 45.
  15. ^ Awang Juned 1992.
  16. ^ Saunders 2013, pp. 23.
  17. ^ Oxford Business Group 2011, pp. 179.
  18. ^ missing
  19. ^ Lach 1994, pp. 580.
  20. ^ Saunders 2013, pp. 60.
  21. ^ Herbert & Milner 1989, pp. 99.
  22. ^ Lea & Milward 2001, pp. 16.
  23. ^ Hicks 2007, pp. 34.
  24. ^ Church 2012, pp. 16.
  25. ^ Eur 2002, pp. 203.
  26. ^ Abdul Majid 2007, pp. 2.
  27. ^ Welman 2013, pp. 8.
  28. ^ World Atlas 2017.
  29. ^ Abdul Majid 2007, pp. 4.
  30. ^ Sidhu 2009, pp. 92.

参考文献

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外部リンク

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