ティサ・カールマーン

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ティサ・カールマーン
Tisza Kálmán
ティサ・カールマーン / 1894年の肖像画
生年月日 (1830-12-16) 1830年12月16日
出生地 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ベーケーシュ県ベーケーシュチャバ
没年月日 (1902-03-23) 1902年3月23日(71歳没)
死没地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ブダペスト
子女 ティサ・イシュトヴァーン

在任期間 1875年10月20日 - 1890年3月13日
国王 フェレンツ・ヨージェフ1世
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ティサ・カールマーンハンガリー語: Tisza Kálmán1830年12月16日 - 1902年3月23日)は、19世紀ハンガリー貴族政治家オーストリア=ハンガリー二重君主国ハンガリー王国首相を務め、15年間にわたる保守系長期政権を実現した。ドイツ名カロマン(もしくはカールマーン)・ティサKoloman (Kálmán) Tisza von Borosjenő et Szeged

経歴[編集]

1830年、ハンガリー東部・ベーケーシュ県 Gesztプロテスタント系の大地主貴族ティサ家に生まれる。1848年ハンガリー革命において、4月7日にバッチャーニ・ラヨシュ英語版を首相とする初の責任内閣が成立すると、若くして宗教・公教育相に就任した。しかし翌49年8月にハンガリー独立戦争が敗北に終わると、国外に亡命した。

その後帰国して、1861年には国会議員となる。1867年アウスグライヒ締結に際しては、推進派で現実路線を志向する自由主義者デアーク・フェレンツ英語版と対立し、野党「中央左派」英語版の中心となった[1]。なお、カトリック信仰のハプスブルク家に対する反感が強かった。ところがその後アウスグライヒ支持に転向し、1875年「デアーク党」英語版と合同して自由党 (ハンガリー)英語版を結成した[2]。(同党はその後長くハンガリー王国議会で多数派を守ることとなる。)同年10月20日にハンガリー王国首相に任命されると1890年3月まで務めて、デアーク没後のハンガリー政治を領導した。

彼は大地主貴族を支持基盤とし、二重君主国期で最長となる15年にわたって保守派政権を維持した。その基本政策は、アウスグライヒ体制の維持によってハンガリーの利益を最大限引き出すことであった。例えばオーストリアとの共通関税制度においては、高関税の設定によって農業国ハンガリーの経済を保護し、外国産農作物の流入から自国農業(ひいては地主貴族の利益)を守ろうとした。また同時に、軍隊内におけるハンガリー語ドイツ語の対等性を実現しようとしたが大きな成果はなかった。その一方で、国内では非ハンガリー語地域に対してハンガリー語教育義務化を通じて同化政策を進め、スロヴァキア語による啓蒙文化運動を弾圧した。さらに社会主義者や労働者の運動に対しても弾圧が加えられた。

1890年3月に首相を辞任した後、1902年ブダペストで死去。子のイシュトヴァーンもハンガリーの首相を二度にわたり務め、父が引退した後のハンガリー政治を指導した。

脚注[編集]

  1. ^ 小沢弘明「第6章:二重制の時代」南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』226ページ。
  2. ^ 南塚信吾「ティサ」『東欧を知る事典』316ページ。


関連項目[編集]

参考文献[編集]

事典項目
単行本


先代
ヴェンクハイム・ベーラ
ハンガリー王国首相
1875年 - 1890年
次代
サパーリ・ジュラ