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タリサ・ゲティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タリサ・ゲティ

Talitha Getty
1966年、ローマ
生誕 Talitha Dina Pol
(1940-10-18) 1940年10月18日
オランダ領東インドの旗 オランダ領東インド ジャワ島モジョケルト
死没 (1971-07-11) 1971年7月11日(30歳没)
イタリアの旗 イタリア ラツィオ州ローマ
別名 Talitha Pol
職業 モデル女優
配偶者 ジョン・ポール・ゲティ・ジュニア
子供 1人
ウィレム・ジルト・ポルオランダ語版(父親)
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タリサ・ゲティ(Talitha Getty、1940年10月18日 - 1971年7月11日[1])は、オランダ領東インドで生まれ、1960年代後半のファッションリーダーと目されたオランダ系女優。成人後は大半をイギリスで過ごし、晩年はモロッコの都市マラケシュと密接に関わっていた。夫は石油王の後継者で、後に慈善事業家となったジョン・ポール・ゲティ・ジュニアである。

前半生

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当時オランダ領東インド(現在のインドネシア)の一部であったジャワ島で出生名タリサ・ディナ・ポルとして生まれる。父親は芸術家のウィレム・ジルト・ポルオランダ語版(1905–88年)、母親はアーノルディーン・アドリアーナ・"アディネ"・ミーズ(1908–48年)であった[2]。父親は後にボヘミアン英語版・カルチャーとファッションの中心人物である画家オーガスタス・ジョン(1878–1961年)の娘ポペット・ジョン(1912–97年)と結婚した。これにより、タリサはオーガスタス・ジョンと彼のミューズであり2人目の妻にして20世紀初頭のファッションリーダーであったドロシー ・"ドレリア"・マクニール英語版(1881〜1969年)の孫娘となった。イアン・フレミングの実母で未亡人のイヴリン・セントクロア・フレミング(旧姓ローズ)がオーガスタス・ジョンの愛人として産んだチェロ奏者のアマリリス・フレミング英語版はタリサの叔母にあたる。

ポルは第二次世界大戦中、母親と共に東インドを占領した日本軍の捕虜収容所で過ごした。父親は別の収容所に収監された。両親は戦後別々の道を歩み、ポルは母親とイギリスに移った。1948年、母親がデン・ハーグで亡くなったので[3]、再婚していた父親の元に身を寄せた。

ロンドンの王立演劇学校(RADA)で学ぶ。数年後にRADAに入学した作家兼ジャーナリストのジョナサン・ミーズ英語版は、1964年にロンドンに初めて訪れた時にホーランドパーク英語版のシールハウス(ポペット・ジョンの妹ビビアンの家)に彼女が継母と一緒にいたのを記憶していた。ミーズは彼女を見て「今まで見た中で最も美しい女性...ぽかんと見惚れてしまい、驚きを隠せない」と思った[4]。1988年、元労働党国会議員ウッドロー・ワイヤット卿英語版は、元保守党閣僚アンソニー・ラムトン卿英語版の「女性との成功」に論及して述懐した。

...ここにとても可愛らしい、ユーゴスラビアで新進女優としての仕事をしたタリサ・ポルがいて。そして彼はホテルに留まり、約2時間ごとに彼女に大きな花束を送り、プレゼントを大量に贈った[5]

ポルの魔法に囚われた1人に、1965年のパーティーで初めて会ったダンサーのルドルフ・ヌレエフもいた。ヌレエフの伝記作家ジュリー・カヴァナーによると、ヌレエフは「女性にこれほどエロティックにかき立てられたことは一度もなく」、ポルと結婚したいと友人に語ったほど、2人は互いに虜になっていた[6]。このイベントでは、ヌレエフはクラウス・フォン・ビューローのディナーパーティーに出席できなかったため、ビューローは空席となったポルの隣りに雇用主である石油王J・ポール・ゲティの息子ジョン・ポール・ゲティ・ジュニアを招待した。ポルとゲティ・ジュニアは1966年に結婚に至る交際を開始した。

ゲティ・ジュニアとの結婚

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1966年12月10日、ローマのシティ・ホールで結婚式を挙げた直後のポル(右)とジョン・ポール・ゲティ・ジュニア

1966年12月10日、ポルはジョン・ポール・ゲティ・ジュニアの2人目の妻となった。婚礼衣装としてミンクで縁どられた白いミニスカートを着用した[7]。夫妻はスウィンギング・ロンドン英語版のファッショナブル・シーンの一員となり、とりわけ、ローリング・ストーンズミック・ジャガーや彼のガールフレンドのマリアンヌ・フェイスフルと友人となった。フェイスフルは、ゲティ夫妻とモロッコで5週間を過ごす招待状について「生まれついての広場恐怖症」の不安を詳しく述べた。そしてジャガーと別れた後、彼女はタリサ・ゲティの恋人である若いフランスの貴族ジャン・ド・ブレトゥイユ伯爵(1949–1971年)に乗り換えた。ブレトゥイユはドアーズジム・モリソンキース・リチャーズ、マリアンヌ・フェイスフルなどのミュージシャンに薬物を供給した。フェイスフルはブレトゥイユが「スター相手のディーラーを自認していた」と書き[8][9][10]、1971年のタリサ自身の死の2週間前にモリソンを死に追いやった薬物を与えたと主張している[11]。リチャーズはジョン・ポールとタリサ・ゲティが「最良にして極上のアヘンを所持していた」と思い起こした[12]

高級婦人服デザイナーのイヴ・サン=ローランはゲティ夫妻をF・スコット・フィッツジェラルドの1922年の小説のタイトル『美しく呪われし者英語版』に例え、ファッションデザイナーオジー・クラーク英語版と結婚したテキスタイルデザイナーセリア・バートウェル英語版は、タリサ・ゲティを1960年代後半にジャンルの壁を超えた数多くの「美しい人々」の1人に数えた[13]。1960年代の他の魅力的な人々の内、チェルシーでHung on Youブティックを設立したファッションデザイナーのマイケル・レイニー英語版と、彼の妻でありケネディ時代にアメリカに駐在したイギリス大使のデイヴィッド・オームズビー=ゴア英語版の娘ジェーン・オームズビー=ゴアは、ゴゾ島からウェールズ国境地帯英語版への移動の間、マラケシュのゲティ夫妻と「戯れた」[14]

ジョン・ポール・ゲティは、「スポーツカーを乗り回し、大酒を飲み、麻薬を試し、尻軽な新人女優に手を出す、性的に自由奔放なプレイボーイ」と評された[15]。この間、家業であるゲティ・オイルからも遠ざかり、父親を大いに残念がらせた。しかし後年、彼は慈善家になり1986年、アメリカ市民としてイギリスの名誉騎士爵を受勲した。1927年に建造され、1994年に改装された彼の豪華ヨットは「MY タリサ・G」号という。

1968年7月、ゲティ夫妻に息子タラ・ガブリエル・グラモフォン・ギャラクシーが生まれた[16]。彼はアフリカで環境保護主義者として名を馳せ、サードネームとフォースネームを捨て、1999年にタラ・ガブリエル・ゲティとしてアイルランドの市民権を取得した[17]。彼と妻のジェシカ(彼がヴェルビエで出会ったシャレー英語版のメイド)には、タリサという娘を含む3人の子供がいる[18]

1969年までゲティ夫妻がイタリアとモロッコで過した孤立したライフスタイルはタリサを蝕み始め、ヘロインとアルコール依存症の治療のためイギリスに戻りたいと考えた。彼女とポールは互いに不誠実であり(ポールは1994年に結婚することになるヴィクトリア・ホールズワースと不倫をしていた)、ポールと冷静に話し合う事は困難だった。彼は別居に同意し、妻と息子が住む家をロンドンのチェイン・ウォーク英語版に購入した[19]。1970年の初め、タリサはロンドンで真面目で活動的な社会生活を送っていた。

マラケシュの写真

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タリサ・ゲティは、1969年1月にモロッコのマラケシュの屋上でパトリック・リッチフィールド英語版が撮影した象徴的な写真により最も記憶されている[20]。ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーのコレクションの1つである画像は、フードをかぶった夫を背景に多色のカフタン、白いハーレムパンツ、白とクリームのブーツを着て座り込んだポーズの彼女を撮影している。

当時のヒッピーファッションを代表するスタイリッシュな見た目であり、最近では「ヒッピーシック」、「ボホシック英語版」、「タリサ・ゲティシック」などと呼ばれる息の長いモデルになった[21]

死去

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1971年の春、タリサ・ゲティは別居後の夫に離婚を求めたが、ポール・ジュニアは彼女を愛していると言い、和解のためにローマに来るよう懇願した。彼女の弁護士はポールと和解しようとした努力を示すことが出来れば離婚手続が容易になると助言したので、1971年7月9日にローマに飛んだ[22]。7月11日、アラコエリ広場英語版にあるゲティ家の邸宅で、ヘロインの過剰摂取により死亡している彼女が発見された[1]。しかし、彼女の死亡診断書には心停止が死因として記載されており、血中にアルコールとバルビツール酸が高濃度で検出されていた[23]。イタリアのマスコミの間では、ポールのヘロインの継続的な使用がタリサの再発を引き起こしたという憶測が広まった。彼女の死の8か月後に行われた剖検では、タリサの器官にヘロインの痕跡が見つかったが、ヘロインは何か月も体内にとどまるため決定的とは言えず、飲酒以前のものであった可能性がある。1973年1月、イタリア当局はタリサの死因について調査が行われると発表した。彼らはポール・ジュニアへの尋問を要求した。ゲティは自身の薬物の継続的な使用が逮捕と起訴につながることを恐れていたため、2月にイタリアからイギリスに逃れ二度と戻らなかった[24]

タリサ・ゲティは、ジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンイーディ・セジウィック、前述のジム・モリソンなど、1960年代の文化的象徴と目される人々と同じ12か月以内に亡くなった。マラケシュで共に過ごした友人、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズはヘンドリックスの1年以上前に亡くなっていた。タリサ・ゲティは「27クラブ」のメンバーとされるジョーンズ、モリソン、ヘンドリックス、ジョプリンよりわずかに年上であった。

映画

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ポルは女優として『Village of Daughters』(1962年)、エドガー・ウォーレスのミステリーが原作の『We Shall See』(1964年)、『The System』(1964年)、マクシミリアン・シェルイングリッド・チューリンサマンサ・エッガーと共演した『死刑台への招待英語版』(1965年)、ジェーン・フォンダ主演の性的暴力的SF映画『バーバレラ』(1968年)などに出演している。

出演作の一部

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脚注

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  1. ^ a b Anita Pallenberg (2008年10月26日). “Talitha Getty: Excerpts from the book "The House of Getty" by Russell Miller”. minimadmodmuses.multiply.com. 2011年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月27日閲覧。
  2. ^ Adine Mees at the RKD
  3. ^ Picardie, Justine (2008年7月13日). “Talitha Getty: Beautiful and Damned”. The Daily Telegraph (London). オリジナルの2008年8月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080823175009/https://www.telegraph.co.uk/fashion/main.jhtml?xml=/fashion/2008/07/13/st_talithagetty.xml 2020年9月27日閲覧。 
  4. ^ Times Magazine, 11 November 2006
  5. ^ Diary, 15 August 1988: The Journals of Woodrow Wyatt, ed Sarah Curtis (1998), p 614
  6. ^ Julie Kavanagh (2007) Rudolf Nureyev: The Life; Sunday Times, 16 September 2007. Kavanagh surmised that "what [Nureyev] was actually seeing was an exquisite, androgynous reflection of himself".
  7. ^ Rocco, Fiammetta (2003年4月18日). “Sir Paul Getty: Quiet billionaire and philanthropist”. London: The Independent. https://www.independent.co.uk/news/obituaries/sir-paul-getty-36449.html 2020年9月27日閲覧。 
  8. ^ Robert Greenfield, Exile on Main St.: A Season in Hell with the Rolling Stones, DaCapo Press, 2006, pages 55–56
  9. ^ Stephen Davis, Jim Morrison: Life, Death, Legend, Gotham, 2005, pages 388–389
  10. ^ Faithfull: an Autobiography, 1994, page 195
  11. ^ 'True Confessions' (portrait of Marianne Faithfull by Ebet Roberts) in Mojo, September 2014, page 51.
  12. ^ Keith Richards (2010) Life, page 247
  13. ^ The Times, 16 November 2006
  14. ^ Obituary of Michael Rainey, The Times, 7 February 2017
  15. ^ Compton Miller (1997) Who's Really Who!, p 115
  16. ^ Miller, Russell (1986). The House of Getty. H. Holt. pp. 262. ISBN 0-03-003769-7 
  17. ^ David Murphy (1999年9月30日). “Seven Gettys sign up for Irish passports”. Independent.ie. 2020年9月27日閲覧。
  18. ^ The Tatler, May 2011, p 111
  19. ^ John Pearson (1995). Painfully Rich. Harper Collins 
  20. ^ Patrick Lichfield (1939-2005): Paul and Talitha Getty, Marrakech, Morocco, January 1969”. 2010-004-17時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月27日閲覧。
  21. ^ The Guardian, 24 July 2005
  22. ^ John Pearson (1995). Painfully Rich. Harper Collins 
  23. ^ (source: 1930–, Pearson, John, (1995). Painfully rich : the outrageous fortune and misfortunes of the heirs of J. Paul Getty (1st ed.). New York: St. Martin's Press. ISBN 0312135793).
  24. ^ John Pearson (1995). Painfully Rich. Harper Collins 

外部リンク

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