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タケジロウ・ヒガ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タケジロウ・ヒガ
Takejiro Higa
生誕 (1923-07-22) 1923年7月22日
アメリカ合衆国ハワイ州ワイパフ英語版
死没 (2017-10-07) 2017年10月7日(94歳没)
アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル
所属組織 アメリカ陸軍情報部
軍歴 1944年 - 1964年
除隊後 アメリカ合衆国内国歳入庁
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タケジロウ・ヒガ(Takejiro Higa、日本名:比嘉 武二郎、1923年7月22日 - 2017年10月7日)は、アメリカ陸軍情報部(以下、MISと略)の言語学兵。ハワイ移民2世で、アメリカ合衆国ハワイ州ワイパフ英語版出身[1]

経歴

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両親は沖縄県からハワイへ移民した日本人夫婦[2]。生まれはハワイだが、2歳から少年期までを両親の出身地である沖縄本島の旧中城村(後の北中城村)島袋で過ごした[3]日中戦争開戦後に義勇兵の募集が開始されると、これに強く反発。1936年にハワイへ戻り、オアフ島ホノルルの姉夫婦のもとに身を寄せた[3][4][5][注 1]

しかし真珠湾攻撃後、アメリカ軍でもハワイの日系2世兵募集が開始され、日系人への風当たりが強かったこともあり、苦悩の末に兵に志願[6][7]。MISの語学兵として日本軍の資料の翻訳、捕虜の尋問にあたった[8]太平洋戦争末期の沖縄戦1945年)では、沖縄育ちの上に日本語にも強いことから、情報部隊の一員として同行を命じられ[9]、沖縄の情報をアメリカ軍に提供する任務を負った[10]。こうしてヒガは生まれ育った国を、それも沖縄を敵に回さざるを得なくなった[11]

沖縄上陸後は島内の壕を回り、壕に避難している県民たちに沖縄方言で投降を飛びかけ、県民たちの命を救った[12]。尋問を命じられた捕虜たちの中には、小学校時代の恩師や同級生たちの姿もあった[13]。同年のアメリカ合衆国による沖縄統治まで沖縄に滞在したが、その間、沖縄方言をはじめとする言葉のみを自分の武器と信じ、県民たちに対して決して銃を放つことはなく、投降を呼びかけ続けた[14]

ヒガたちのこうした活躍は決してすべての沖縄県民を救ったわけではなく、彼らの言葉を信じずに命を落とした県民も多く[14]、戦火の犠牲となった県民は10万人以上にも昇ると見られている[15]。とはいえ、MISの日系兵の存在がなければ犠牲者の数はそれ以上と見られていることも確かである[16]。しかしながらMISの存在は情報工作などの性格上から極秘扱いされ、1970年代まで明るみに出ることはなかった[16][17]

終戦後は帰米し、1964年に除隊[10]ハワイ大学を経て[6]、大学を経て内国歳入庁に勤務した後、1990年以降はホノルルで引退生活に入った[10][18]1995年沖縄慰霊祭のために来沖。かつて彼の呼びかけで投降した女性と再会し「ようやく命を助けてくれたと思えるようになった[19]」「おかげさまで私は生まれました[20]」との言葉を受け取った。2006年には日系2世兵たちに対し、沖縄県民を救出したとの感謝状贈呈式がハワイ沖縄センターで行われ、沖縄知事の稲嶺惠一から感謝状を手渡された[21]2010年平成22年)にはNNN系列ドキュメンタリー深夜番組NNNドキュメント』でヒガを取り上げた「いじてぃめんそーれ 故郷へ進軍した日系米兵」が、全日本テレビ番組製作社連盟の第28回ATP賞テレビグランプリで新人賞を受賞した[16]

その後も何度も来沖しており[22]2011年には宜野湾市の民間教育施設アメラジアンスクール・イン・オキナワで戦争体験を語る課外授業を開催した[23]2013年には沖縄県平和祈念資料館での沖縄戦シンポジウム参加のために来沖し、母校の北中城村立北中城小学校(旧喜舎場国民学校)[24]南風原町沖縄県立開邦高等学校など[25]、島内各地で平和への思いを語っていた。

ハワイ時間2017年10月7日ホノルル市内の病院で急性肺炎のため、満94歳で死去した[26]

脚注

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注釈

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  1. ^ 日本軍に徴兵されことを恐れた父により、ハワイに連れ戻されたとの説もある[6]

出典

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  1. ^ 堀江 1991, p. 12
  2. ^ 三枝 1997, p. 148
  3. ^ a b 堀江 1991, pp. 73–84
  4. ^ 三枝 1997, pp. 160–161
  5. ^ 堀江 1991, pp. 86–99
  6. ^ a b c 戦後70年・日系アメリカ人インタビュー / 比嘉武二郎さん”. アメリカ発! 現地情報誌ライトハウス (2015年8月1日). 2020年11月14日閲覧。
  7. ^ 三枝 1997, pp. 166–167
  8. ^ 三枝 1997, p. 168
  9. ^ 堀江 1991, pp. 119–128
  10. ^ a b c 菊地 1995, pp. 197–206
  11. ^ 三枝 1997, p. 176
  12. ^ 堀江 1991, pp. 130–140
  13. ^ 堀江 1991, pp. 154–164
  14. ^ a b 堀江 1991, pp. 169–172
  15. ^ 三枝 1997, p. 247
  16. ^ a b c ATP新人賞獲得!”. NNNドキュメント. 日本テレビ放送網 (2011年). 2014年5月11日閲覧。
  17. ^ アメリカ人でありながら、日本を救った日系兵士たち”. よみタイム (2012年4月6日). 2014年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月11日閲覧。
  18. ^ 野口由紀「悲憤の島から 第1部 日米のはざまで」『毎日新聞毎日新聞社、2010年8月1日、東京朝刊、25面。
  19. ^ 谷口透他「2000年・沖縄5月 敵味方に分かれた悲劇」『読売新聞読売新聞社、2000年5月26日、東京夕刊、22面。
  20. ^ 村田悟「真珠湾、私の70年」『朝日新聞朝日新聞社、2011年12月8日、東京朝刊、39面。より引用。
  21. ^ 山栄恵「2世通訳兵に感謝状 41人に知事手渡す」『琉球新報』琉球新報社、2006年6月6日、夕刊、1面。
  22. ^ 福里賢矢「世界のウチナーンチュ大会 2011・10・12-16」『沖縄タイムス』沖縄タイムス社、2011年10月18日、朝刊、27面。
  23. ^ 井本義親「日系2世 沖縄戦で米軍通訳、88歳来日」『毎日新聞』2011年10月14日、東京夕刊、12面。
  24. ^ 又吉俊充「真珠湾攻撃から72年 ハワイ在住の県系2世比嘉さん」『沖縄タイムス』2013年12月8日、朝刊、30面。
  25. ^ 「「デテコイ」…生き延びて 誓い合う不戦」『沖縄タイムス』2013年11月30日、朝刊、29面。
  26. ^ 比嘉武二郎さん死去 沖縄戦で投降呼び掛け”. 琉球新報 (2017年10月9日). 2017年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月9日閲覧。

参考文献

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  • 菊地由紀『ハワイ日系二世の太平洋戦争』三一書房、1995年11月。ISBN 978-4-380-95286-9 
  • 三枝義浩語り継がれる戦争の記憶』 2巻、横山秀夫脚本、講談社〈KCデラックス〉、1997年4月。ISBN 978-4-06-319788-4 
  • 堀江誠二『ある沖縄 ハワイ移民の「真珠湾(パール・ハーバー)」』PHP研究所、1991年12月。ISBN 978-4-569-53490-9