ジョージ・ウォーカー・クロウフォード
ジョージ・クロウフォード | |
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George Crawford | |
第21代アメリカ合衆国陸軍長官 | |
任期 1849年3月8日 – 1850年7月23日 | |
大統領 | ザカリー・テイラー ミラード・フィルモア |
前任者 | ウィリアム・L・マーシー |
後任者 | チャールズ・コンラッド |
第38代ジョージア州知事 | |
任期 1843年11月8日 – 1847年11月3日 | |
前任者 | チャールズ・マクドナルド |
後任者 | ジョージ・W・タウンズ |
アメリカ合衆国下院議員 ジョージア州[[ジョージア州at-large district選出 | |
任期 1843年1月7日 – 1843年3月3日 | |
前任者 | リチャード・W・ハーバーシャム |
後任者 | ヒュー・A・ハラルソン |
ジョージア州検事総長 | |
任期 1827年 – 1831年 | |
知事 | ジョン・フォーサイス ジョージ・ギルマー |
前任者 | トーマス・F・ウェルズ |
後任者 | チャールズ・J・ジェンキンス |
個人情報 | |
生誕 | George Walker Crawford 1798年12月22日 アメリカ合衆国 ジョージア州コロンビア郡 |
死没 | 1872年7月27日(73歳没) アメリカ合衆国 ジョージア州オーガスタ |
政党 | ホイッグ党 |
配偶者 | メアリー・マッキントッシュ |
子供 | 4 |
教育 | プリンストン大学 (BA) ジョージア大学 (MA) |
ジョージ・ウォーカー・クロウフォード(George Walker Crawford, 1798年12月22日 - 1872年7月27日)は、アメリカ合衆国の政治家。1843年から1847年までジョージア州知事を、1849年から1850年までアメリカ合衆国陸軍長官を務めた。
生い立ちと家族
[編集]1798年12月22日、クロウフォードはジョージア州コロンビア郡において誕生した。クロウフォードは1820年にニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)を卒業し、文学士号を取得した。クロウフォードは法律を学び、1822年に弁護士として認可を受けた。クロウフォードはジョージア州オーガスタでヘンリー・ハーフォード・カミングとともに弁護士業を開業した。クロウフォードは1826年にジョージア大学から文学修士号を贈られた。
ジョージア州検事総長
[編集]1827年、ジョージア州知事ジョン・フォーサイスは、不在となっていたジョージア州検事総長のポストにクロウフォードに任命した。同年、クロウフォードは自身の父親に関する出版物に抗議をし、執筆主であるトマス・E・バーンサイドに決闘を申し込んだ。決闘は翌1828年1月5日にアラバマ州フォート・ミッチェルのチャタフーチ川西岸で行われた。クロウフォードはバーンサイドに3発の銃弾を命中させ、勝利した。バーンサイドはその場で死亡した[1]。この事件はクロウフォードの経歴に傷を残さず、クロウフォードは1831年まで検事総長を務めた。
ジョージア州下院議員とアメリカ合衆国下院議員
[編集]1837年、クロウフォードはリッチモンド郡から州下院議員に選出された。クロウフォードは財政上の保守主義者として有名になった。1842年、連邦下院議員リチャード・ハーバーシャムの死去に伴う欠員補充のため、クロウフォードはホイッグ党から後任の連邦下院議員に選任された。クロウフォードは1843年1月から任期満了となる3月までの2ヶ月弱、連邦下院議員を務めた。
ジョージア州知事
[編集]1843年、クロウフォードは州知事選挙でマーク・アンソニー・クーパーを破って州知事に当選した。クロウフォードは州知事として、ジョージア中央銀行の廃止に着目し、経済的健全性を求めて建物を刑務所に改装した。またクロウフォードはウェスタン・アンド・アトランティク鉄道の延伸を支援した。クロウフォードは1845年に州知事再選を果たした。
クロウフォードは州知事としての2期目に、州議会の選挙区割り見直しや州最高裁判所の設置などを行った。クロウフォードは地域の問題に集中して取り組んだ。クロウフォードは3期目の州知事には立候補しなかった。クロウフォードはホイッグ党の歴史において唯一のジョージア州知事となった。
アメリカ合衆国陸軍長官
[編集]1849年にザカリー・テイラーが大統領となると、クロウフォードは陸軍長官に任命された。クロウフォードは陸軍長官として、連邦政府が先住民族ジョージ・ガルフィンの子孫に対して移住を求めた問題に関与し、クロウフォードは問題解決のため多額の分担金を受け取った。1850年にテイラー大統領が急死すると、間もなくクロウフォードも陸軍長官を辞任した。
晩年
[編集]クロウフォードは陸軍長官を退いた後、およそ10年間に渡って隠居生活を送った。1861年、クロウフォードはジョージア州連邦離脱会議にリッチモンド郡代表として選出された。クロウフォードは会議において議長に選出され、連邦離脱の投票過程を監督した。
1872年7月27日、クロウフォードはジョージア州オーガスタ近郊の村「ベル・エア」の地所で死去した。クロウフォードの遺体はオーガスタ市内のサマーヴィル墓地に埋葬された。
家族
[編集]クロウフォードの父親はアメリカ独立戦争の退役兵ピーター・クロウフォード、母親はピーターの従妹メアリー・アン・クロウフォード (Mary Ann Crawford, 1769-1852) であった。クロウフォードの祖先は、17世紀中頃にバージニア植民地に入植したジョン・クロウフォードへと遡ることができる。
1826年5月4日、クロウフォードはメアリー・アン・マッキントッシュ (Mary Ann Macintosh, 1801-1878) と結婚した。2人の間には4人の子供が生まれた。
- ウィリアム・ピーター・クロウフォード (William Peter Crawford, 1832-1891)
- サラ・マッキントッシュ・クロウフォード (Sarah Macintosh Crawford, 1834-1915)
- アンナ・エリザベス・クロウフォード (Anna Elizabeth Crawford, 1836-1853)
- チャールズ・A・クロウフォード (Charles A. Crawford, 1839-1848)
注釈
[編集]外部リンク
[編集]- United States Congress. "ジョージ・ウォーカー・クロウフォード (id: C000890)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- The New Georgia Encyclopedia
- U.S. Army Center of Military History
公職 | ||
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先代 チャールズ・ジェイムズ・マクドナルド |
ジョージア州知事 1843年11月8日 - 1847年11月3日 |
次代 ジョージ・ワシントン・ボナパート・タウンズ |
先代 ウィリアム・マーシー |
アメリカ合衆国陸軍長官 1849年3月8日 - 1850年7月22日 |
次代 チャールズ・マギル・コンラッド |