コンテンツにスキップ

エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第12代ダービー伯爵
エドワード・スミス=スタンリー
Edward Smith-Stanley, 12th Earl of Derby
12代ダービー伯爵(トマス・ゲインズバラ画、1785年)
生年月日 1752年9月12日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国ランカシャー州、プレストン
没年月日 1834年10月21日 (満82歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスランカシャー州、ノウズリー
出身校 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党 ホイッグ党
称号 枢密顧問官 (PC)
配偶者 (1) レディ・エリザベス・ハミルトン
(2) エリザベス・ファーレン
親族 ストレンジ卿 (父)
ジョン・バーゴイン (義叔父)
第14代ダービー伯爵 (孫)

内閣 第1次ポートランド公爵内閣
在任期間 1783年4月29日 - 1783年12月17日
国王 ジョージ3世

内閣 グレンヴィル男爵内閣
在任期間 1806年2月12日 - 1807年3月31日
国王 ジョージ3世
テンプレートを表示

第12代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー: Edward Smith-Stanley, 12th Earl of Derby PC1752年9月12日 - 1834年10月21日)は、イギリス貴族政治家馬主競走馬生産者。

ホイッグ党に所属し、第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクと初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルの政権でランカスター公領大臣を務めた。

競馬のオークスステークスダービーステークスの発案者としても知られる。

経歴

[編集]

1752年、イングランド北部のランカシャープレストンで、第11代ダービー伯爵エドワード・スタンリーの嫡子ストレンジ卿ジェームズ・スミス=スタンリー[註釈 1]の長男として生まれる[1][2][3]1764年イートン・カレッジに入学。卒業後の1771年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進み、1773年M.A.の学位を取得した[4]

1774年よりランカシャー州選挙区選出の庶民院議員[5]1776年に祖父が死去したため第12代ダービー伯爵となり貴族院へ移り、また祖父が務めていたランカシャー統監英語版および主席治安判事英語版を引き継いだ[6]

1783年に成立した第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクを名目上の首班とするチャールズ・ジェイムズ・フォックスとノース卿フレデリック・ノースの連立政権(フォックス=ノース連立内閣、第1次ポートランド公爵内閣とも)ではランカスター公領大臣として入閣、同時に枢密顧問官にも列せられた[7]1806年グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィル政権英語版で再びランカスター公領大臣となった[8][註釈 2]

1834年ランカシャー州のノウズリー英語版[註釈 3]で死去し、同州のオームズカーク英語版に葬られた[1]。伯爵位は長男のスタンリー卿エドワードが相続した。

オークス、ダービーの創設

[編集]

1778年、ダービー伯爵の別荘「オークス荘」で催された晩餐会の席上で、3歳の牝馬を集めた距離1マイル(約1600メートル)の競馬の競走が発案された[註釈 4]。翌1779年に行われたこの競走は、アイディアが出された別荘の名を取って「オークス」と名付けられ、この時の優勝馬はダービー伯爵が出走させたBrigetであった。

そのオークス後の祝賀会の席で、今度は3歳の牡馬による同様の競走を創設しようという流れになり、その競走の命名を巡ってダービー伯爵と友人のサー・チャールズ・バンベリー準男爵との間で譲り合いが続き、ついにはコイントスが行われた。結果ダービー伯爵が勝利し、この競走には彼の爵名から取った「ダービー」という名が付けられた。このオークスとダービーという二競走は現在に至るまで続いており、イギリスの3歳戦で最重要の競走となっているのみならず、これに範を取りオークス、ダービーと名付けられた同様の競走が世界中に広がる事となった。第1回ダービーではバンベリーの所有馬ダイオメドが優勝を果たした。ダービー伯爵自身は、1787年の第8回をサーピーターティーズルで優勝している。2005年2006年ジャパンカップウィジャボードと共に来日した第19代ダービー伯爵エドワード・スタンリーは直系7代目の子孫にあたる。

家族

[編集]
レディ・エリザベス・ハミルトンイタリア語版ジョージ・ロムニー画)

1774年6月23日にサリー州[註釈 5]リッチモンドのアーガイル・ハウスにて第6代ハミルトン公爵ジェイムズ・ダグラス=ハミルトンの娘レディ・エリザベス・ハミルトン英語版と結婚した[1][2][3]。彼女との間に一男二女を儲けたが、別居状態が長く続いた後1797年に死別[1][3][9]

  • エドワード(1775年4月21日 – 1851年6月30日) - 第13代ダービー伯爵[9]
  • シャーロット(1776年10月17日 – 1805年11月25日) - 1796年8月22日、エドマンド・ホーンビー(Edmund Hornby、ジェフリー・ホーンビーの息子)と結婚[9]
  • エリザベス・ヘンリエッタ(1778年4月29日 – 1857年11月4日) - 1795年1月15日、スティーブン・トマス・コール(Stephen Thomas Cole、1765年4月26日 – 1835年9月6日)と結婚[9]
エリザベス・ファーレン英語版サー・トマス・ローレンス画)

1797年5月1日、喜劇女優のエリザベス・ファーレン英語版と再婚し、彼女との間にも一男二女を儲けた[1][2][3]

脚注

[編集]

註釈

[編集]
  1. ^ この儀礼称号で知られるが、本来はこの儀礼称号を帯びる権利はなかった。
  2. ^ ただしこのときは閣僚ではなかった。
  3. ^ 当時。1974年にマージーサイド州へ移管された。
  4. ^ 1784年に距離が1マイル半(約2400メートル)に変更された
  5. ^ 当時。1965年にグレーター・ロンドンへ移管された。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e Cokayne, George Edward, ed. (1916). "DERBY". The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom Extant, Extinct, or Dormant (英語). Vol. 4 (2 ed.). London: The St. Catherine Press, ltd. pp. 218–219. 2013年6月30日閲覧
  2. ^ a b c Doyle, James William Edmund [in 英語], ed. (1886). "DERBY.". The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 (英語). Vol. 1. London: Longmans. p. 563. 2013年6月30日閲覧
  3. ^ a b c d Burke, Bernard, Sir [in 英語], ed. (1869). "DERBY.". A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire (英語) (31 ed.). London: Harrison. p. 328. 2013年6月30日閲覧
  4. ^ "Stanley, Edward (smith), Hon. (STNY771E)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  5. ^ Brooke, John (1964). "STANLEY, Edward, Lord Stanley (1752-1834).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2013年6月30日閲覧
  6. ^ "No. 11648". The London Gazette (英語). 12 March 1776. p. 1.
  7. ^ "No. 12470". The London Gazette (英語). 26 August 1783. p. 1.
  8. ^ "No. 15889". The London Gazette (英語). 11 February 1806. p. 189.
  9. ^ a b c d e f g Lodge, Edmund (1858). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (27th ed.). London: Hurst and Blackett. pp. 174–175.
  10. ^ Lodge, Edmund (1890). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (59th ed.). London: Hurst and Blackett. p. 638.

外部リンク

[編集]
グレートブリテン議会英語版
先代
セフトン伯爵
サー・トマス・エジャートン準男爵
庶民院議員(ランカシャー選挙区英語版選出)
1774年 – 1776年
同職:サー・トマス・エジャートン準男爵
次代
トマス・スタンリー英語版
サー・トマス・エジャートン準男爵
名誉職
先代
第11代ダービー伯爵
ランカシャー統監英語版
1776年 – 1834年
次代
第13代ダービー伯爵
公職
先代
初代アシュバートン男爵
ランカスター公領大臣
1783年
次代
初代クラレンドン伯爵
先代
第2代ハロービー男爵
ランカスター公領大臣
1806年 – 1807年
次代
スペンサー・パーシヴァル
イングランドの爵位
先代
エドワード・スタンリー
ダービー伯爵
1776年 – 1834年
次代
エドワード・スミス=スタンリー