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ウィキペディアにようこそ![編集]

こんにちは。はじめましてSuisuiと申します。ウィキペディアへようこそ!

ウィキペディアで活動する際にはWikipedia:ガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。よろしければ 自己紹介してみてください。執筆の際には中立的な観点および 著作権にご留意ください。何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することが出来ます。あなたがよきウィキペディアンになることを期待します。

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また、投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことでマークアップ、リンク、誤字脱字などを予めチェックし、修正してから投稿すると同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点についてはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明がありますので、ぜひご利用ください。--Suisui 11:06 2004年6月21日 (UTC)

「裏出典」ばかり表示せずに、少しは自分で調べたらどう?----

裏出典って何ですか?--でここ 2007年5月27日 (日) 04:48 (UTC)[返信]

もしかして「要出典」、さいきん張りつけた武田義信の義信事件関係の論考のことを指しているのでしょうか?もちろん自分でも調べて見るつもりではおりますが、地元民でありながら武田研究にさほど通じていないのと、地元の図書館ではばっちり郷土資料が揃っているので参照すべき資料を探し出すのが大変そうなので、誰か実証的武田研究に通じた方がおられればという意味で張りました。典拠も無く「近年の研究」だとか「~説」などが提示されているのは好ましくないと思いますので。

歴史関係は、どうも一般に流布している異説ですとかを単に知識として知っている執筆者がそのまま書いてしまう傾向にあり、その異説の代表的論者が誰であるか典拠を示すことがおろそかになっていると感じます。いま甲州俳諧について執筆しようと調べておりますが、例えば、松尾芭蕉ではやっぱり有名な隠密説について触れられています。利用者としてはこういう説を誰が言い出したのか知りたいのですが、wikipediaではこういうことの典拠がわかりません。--でここ 2007年5月27日 (日) 05:01 (UTC)[返信]

不勉強[編集]

あなたの不勉強を棚に上げて要出典を張りまくるのはやめましょう。少しは自分で調べて下さい。--203.191.235.26 2007年5月30日 (水) 23:02 (UTC)[返信]

ですから、どの記事のことをおっしゃっているのでしょうか?あと、対話の意志はあるのですか?
確かに一方的にソースを出せと言われてる不快感はわかります。議論であればソース提示義務は双方にあると思いますが、これは議論ではなく百科辞典の編纂作業です。「不勉強」な人であっても、典拠が不明瞭である部分を指摘するのは記事の精度の向上に繋がりますし、該当部分を削除する行為でなければむしろ奨励すべきことだと思いますが。私も、最近では甘利氏甲府空襲とか、ノートの指摘を見て調べておりますよ。あなたに対話の意志が無いようでしたら、返信はこれで打ち止めに致します。--でここ 2007年5月31日 (木) 00:44 (UTC)[返信]

ですから、「貴方が知らないだけの話なのに、要出典を張りまくれる行動そのもの」に呆れているのです。少しは自分で調べてから要出典を張った方がいいのでは?知らないクセにでしゃばるのは人間としてどうなのでしょうね。--203.191.235.4 2007年5月31日 (木) 14:17 (UTC)[返信]

私に対して呆れているとか、人間としてどうかとか、そういった誹謗であるとかは、例えば2ちゃんねるのwikipediaスレッドとか、ほかに適切な場所があると思いますよ。会話ページで誹謗に反応してもしょうがないし、ここでは記事の精度向上になる具体的な対話をしたいのですが。
どの記事に関する批判であるのか明らかにされておられませんが、私が知らないだけとおっしゃるのであれば、該当記事に典拠をしっかり記述して要出典タグを外す処置を取って下さい。それで問題は解決します。
私の意見は変わりません。知らないくせにでしゃばる人間がいることで典拠不明部分が明らかになり、記事の精度向上に繋がるのであれば、それは奨励されるべきかと考えます。最近では不勉強な分野では稲作のノートに疑問に思ったことを書きましたが、別に呆れられようとも、恥を書こうとも、これからも記事の精度向上に繋がるのであればおかしいと思った部分はノートで指摘するし、場合によっては要出典タグを貼りつけますよ。--でここ 2007年5月31日 (木) 14:47 (UTC)[返信]

上で発言しているIPさんは、以前利用者:Nubolariさんに粘着していた荒らしユーザーと同一人物と思われますので、しかるべき場所で荒らしとして報告してあとは放置するのが無難だと思います。221.113.28.175 2007年5月31日 (木) 14:58 (UTC)[返信]

疑惑[編集]

勝手に人の発言を消したらダメでしょう。それならば上の人のも消さないとおかしい。それとも、上の人はでここさんの自演ですか?--203.191.235.26 2007年6月1日 (金) 06:23 (UTC)[返信]

申し訳ありませんでした[編集]

私が全面的に悪かったことを認め、深くお詫び申し上げます。上にある発言は全面的に撤回させて頂きます。皆様に不愉快な思いをさせてしまい誠に申し訳ありませんでした。出典のないところは全て除去して頂いても構いません。--203.191.235.26 2007年6月2日 (土) 07:23 (UTC)[返信]

そんな急に態度を豹変されても困惑してしまいますが。取り合えず、IP氏では貴方の言われる「疑惑」のように誰が誰だかわかりませんし、ログインユーザーとなられて対話を試みられてはいかがでしょうか。書き込みの削除は忠告をくださったIP氏への反論はもはや私の会話ページで交わされる議論ではなかろうと思い、削除しました。
義信事件については、つい地元民としてぞんざい(と思える)な編集に反応してしまったかなと、少し反省しているのですけどね。ノートに疑義を提示しておきましたし、取り合えず宿題にしておいて今は手を付けるつもりはありません。個人的な諍いは記事の品質向上に何ら寄与しませんし、感情的にならずに記事に関する問題のみを話し合うように心がけましょうよ。私はどんな誹謗をなされる方でも、記事の編集協力であれば応じるつもりでおりますよ。--でここ 2007年6月2日 (土) 07:57 (UTC)[返信]

他人発言の削除に関して[編集]

  • 武田義信の件は、自分もやりすぎたなと反省しましたので問題ないです。が、これだけは忠告させて下さい。
  • 他人発言の削除は重大なルール違反となります。Wikipedia:ノートページの「他人の発言を編集しないこと」参照。他人発言を削除してよい場合は極めて例外的なのです。--203.191.235.26 2007年6月7日 (木) 03:05 (UTC)[返信]
その点は申しわけございません。ただ、個人の会話ページで展開されるべき話題と、そうでない話題はありますよね。上で忠告をくださったIP氏に対する反論は、もはや義信事件の要出典貼りつけに関する話題から逸れてますので、反論なりはIP氏の会話ページに書き込んで、わたしの会話ページには誘導なりをしておくほうが適切かと思われます。--でここ 2007年6月7日 (木) 14:22 (UTC)[返信]

221.113.28.175発言問題[編集]

その理論であれば、何の根拠もなしに人を犯人扱いしている221.113.28.175の発言も消さないとおかしいと思いますよ。片方だけ消す辺りがでここさんの自演疑惑に繋がったですが。--203.191.235.26 2007年6月13日 (水) 04:43 (UTC)[返信]

お詫び[編集]

このたびは私の説明不足のためこのようなことになってしまい、でここさんに対してはご迷惑をおかけしました。友人に対しては注意しましたが、私からもこの場を借りてお詫びします。ご存知の通り諸事情により一時期休養しましたが、編集などが途中だったため友人にお願いして代筆を頼みました。その際同一PCで使い方を教えたり平日昼間は閲覧はできるのですが編集できない環境のため彼宛てにメールなどで代筆してもらうようにしていました。しかし今回の件で不都合な点が発生したことは否めません。彼も引くに引けない性格のため譲らない点が多々ありましがこれについてはご理解のほどお願いしたいと思います。お詫びをもって失礼します。--Kaidog 2007年7月17日 (火) 11:12 (UTC)[返信]

山梨県庁舎について[編集]

他が「○○県庁舎」を主項目化しているのに山梨だけ「○○県庁」にすると他と整合性がとれなくなるということですよ。 上記の岐阜県庁舎山口県庁舎岐阜県庁山口県庁にして○○県庁舎はリダイレクト化するという作業をやらなければなりません。 そうなると関連項目含め多大な修正が必要になってきますし、他のウィキベディアンの協力も必要です。あなたそれ考えたことありますか? これでも「山梨県庁舎はおかしいから山梨県庁にしろ」と言い張るようでしたら人に指図せずに自分でやってください、勿論他の県庁舎の記事を含めて。--またーり 2007年9月27日 (木) 00:10 (UTC)[返信]

まず、失礼ながら妥当性よりも整合性を優先される考え方にやや疑義を感じます。慣例はともかく、県庁>県庁舎であろうと考える私の考えについて、またーりさんはどう思われるでしょうか?不適当な慣例が横行しているとあれば、膨大な修正作業も必要ですよね。
わたしは、単なるデータのみで構成されている県庁記事に正直さほどの関心がありませんし、県庁あたりのでの疑義提示、合意を得ての修正作業には現状のところは参加するつもりはありません。利用者ページでおかしいと思うならなぜ自分で直さないのかとご指摘ですが、我々も限定された時間を割いているわけですし、当然優先順位は出てきますよね。文句だけ言って無責任かと思われるでしょうが、たとい編集に参加せずとも、上記のように誰かがやり始めてそのまま妥当性が検証されずに慣例化していることもあると思いますし、疑問に思ったことは利用者として、遠慮せずにノートで指摘することは歓迎されるべきだと思います。--でここ 2007年9月27日 (木) 04:57 (UTC)[返信]

やはり自分の正当性だけを述べる体質は改善されないと判断しましたので今後あなたのノートの記述は徹底無視させていただきます。(私は編集する時間がないけどノートに記述する時間はあるという考えらしいので、私も編集する時間を惜しんでノートに記述することはできないという方針をとらせていただきます。)今後いかなる編集内容の相違があろうとも私から折れることはありませんのでそのつもりで。

また今回の件以外についても

  • 甲府の件も散々歴史は重要の一点張りで散々ごねた挙句、急に公式方針だったと何の説明もなく変更。→過剰な編集合戦の扇動。
  • 山梨県立博物館甲府駅周辺再開発事業などにおいても無責任発言に転嫁し削除依頼などにおいて混乱を招く。
  • IP氏のノートに対する抗議を承認もなく削除。→ノートページにおける違反行為にも関わらず謝罪・訂正そっちのけで言い訳に終始。
  • その他参考文献からの引用丸写し(節分けしない)などウィキペディアは何でないかを理解しているとは言いがたい行動。

等、あなたのウィキペディア上での活動には目を見張るものがあります。よってその功績をたたえバーンスターを進呈させていただきます。

大胆不敵バーンスター
今後もがんばって自分の思うがままに編集を行なってください。


返答は一切不要です。それではごきげんよう。--またーり 2007年9月27日 (木) 06:48 (UTC)[返信]

なんだか、絶句してしまいます。妥当性に関する反論をいただけないまま一方的に正当性を主張していると断定されて、たいへん不愉快であるのですが。ご指摘の点も逐一反論はあるのですけど。またーりさんには何を言っても正確にご理解いただけない徒労感を覚えてしまうのですが、指摘された疑義に関して検討・記事への反映を行うのは、指摘した利用者ではなく、まずは分野執筆者であると考えますし、自分の携わっている記事への疑義には何にも優先して応じるのが、わたしの考える「責任」です。
しかるに、またーりさんの編集態度はノートにおける指摘には一切反論せず、一方的に相手の編集態度を責めるのみです。わたしもご指摘の点につきましては省みますので、またーりさんもぜひご自身の態度について、冷静に考えてみていただければと、同分野執筆者として思います。--でここ 2007年9月27日 (木) 08:05 (UTC)[返信]

そっくりそのままお返しします。レスする時間ももったいないのでこれ以上関わらないでください。絶句したいのはこっちのほうです。これ以上執拗に関わるようでしたら荒らし依頼させていただきます。--またーり 2007年9月27日 (木) 09:00 (UTC)[返信]

そうですね、そういう場に裁定を持ち込んだほうが、客観的な意見が聞けるかと思います。わたしは、相変わらず記事内容の疑義点について明確な応対をせずに悪意のある態度で一方的に議論を拒絶する、またーりさんのほうが不適切な態度であると確信しております。荒らし依頼をなさって、構いませんよ。--でここ 2007年9月27日 (木) 10:48 (UTC)[返信]

客観的に見て言わせてもらうけどどっちもどっちだね。五十歩百歩、目クソ鼻クソを笑うって二人のためにあると思うよ(笑)

ていうかさ、自分の非を認めず気に入らない相手同士の粗探してこき下ろすってどうよ?編集人以前に人間として欠陥あるね。二人とも地元の人間だと思うけど山梨の人間ってこういうこと多いよね、盆地特有の地域性かなあ。

俺から言わせればお互い関わらないほうが言いと思うね、お互い相手を見下す自己主張しかできないんだからこれ以上やり合っても解決するとは思えない。それすらできないようならウィキペディアやめて自分でブログ立ち上げてやったほうがいいとおもうよ、ここは便所の落書きじゃないんだから。--61.45.56.154 2007年9月27日 (木) 10:57 (UTC)[返信]

(追記)とりあえずね、君ら2人はWikipedia:個人攻撃はしないというガイドラインをよーく読んでね、他人事とはいえとっても恥ずかしいから。--61.45.56.154 2007年9月27日 (木) 11:13 (UTC)[返信]

仲裁ありがとうございます。姥塚古墳を仕上げようかと思ってましたが、今日は記事かけませんね。
またーりさんにはどうしてもご理解いただけないかもと諦めかけているのですが、あんまり悪意のあることされると正直腹も立つつも、私のほうでは何とか相互理解の糸口が掴めないかと思っているのですよね。どのみち同分野執筆者であれば関わらないことは難しいわけですしね。わたしの存在自体が嫌われているのかもしれませんが、何とかわたしの存在と、論の妥当性を切り離して考えて貰えないかなぁと思っている次第でして、別に売り言葉に買い言葉ではなく、それにはわたしを荒らし依頼していただくのもひとつの方法かなと思います。
私の方はひと足先に非を認めてみますかね。甲府の一件は、これは知らなかった私が悪そうですね。公式方針であるとはじめに示していただければ、それで納得したんですけど。ただ、相変わらず曖昧さ回避ページでは情報が構造化されているべきだとは考えますので、公式方針に疑義を提示してみる必要はあるかと思います。県立博物館記事等における無責任発言とは、意味がわかりません。IP氏の一件は、ちゃんと解答しておりますよ。これ、荒らしに近い行為であると思いますので、あまり不適切であるとは思いません。引用丸写しとは、本当にそのように見える記事があるのか気になります。著作権には気を付けているつもりですが、怪しい記事があれば査読してみる必要がありますので。--でここ 2007年9月27日 (木) 11:15 (UTC)[返信]

あー気にしないでw俺も悪気あって書いたわけじゃないからw

丸写し云々は節分けすればそう見えなくなるよ。以前から山梨の記事チェックしているもちろん二人の編集している記事も知っているから言うけどたとえばでここさんの信玄公祭りとか見ると節分けせずただずらーっと書いているだけだからねえ、これじゃあ丸写し言われても仕方ないと思うね。またーりさんのように「概要、歴史、内容、アクセス、補足、外部リンク…」と分けてやれば丸写しといわれないで済むよ。

ま、逆にまたーりさんのは出典があるのか怪しい内容が多々あるけどね、問題点と言って叩き入ってるしw

アドバイスできるのはこんなところかなあ、んじゃがんばってね。--61.45.56.154 2007年9月27日 (木) 11:36 (UTC)[返信]

他都道府県庁舎の記事を含めてすべて県庁に移動しました。言い出したのはあなたですから他地域のウィキペディアンから苦情・抗議が来た場合は私に対応させるようなことがなきようにお願いします。--またーり 2007年9月28日 (金) 05:05 (UTC)[返信]

またーりさん、どうか、どうか、何かしらの応対や編集をされる前に、時間はかけて構いませんから冷静になって、相手にどのような敵意や悪意を抱いていようと、人格と論を切り離し文意を性格に読みとる努力をなされてくれませんか?論の妥当性と論者の人格は関係ありあません。荒らし稼業をしている人でも妥当なことを言っている場合もあるし、優良執筆者でも、妥当でないことを言っている場合はあります。
わたしは、単純化すれば、「こう思うけ、どう?」と問題提起しているのです。「いや、それは違う」という反論や、「そうだね。けどこれは他の記事とも関わるし、もっと大きいところで問題提起してみようか」とか、論の妥当性に関する返信が欲しいのですよ。
wikipediaはみんなで作る百科事典ですよね。ですから、ノートで問題提起して、合意形成に至った後にではどうするかといった方策を検討するプロセスを経るべきであって、「早い話が全部直せばいいだろ。あとは知らん、いいだしっぺの責任だ」みたいな対応をされると、本当に絶句するしかないです。--でここ 2007年9月28日 (金) 12:24 (UTC)[返信]

あちらさん引退宣言しちゃいましたね、多分「またーり」では引退しないんじゃない?別のアカウント作って編集すると思うけど。ま、それらしき人を見かけても無視するのが無難ね。「あなたまたーりさんですか?」なんてノートに書いたらすごい剣幕で怒るだろうし。--219.121.70.92 2007年9月29日 (土) 18:50 (UTC)[返信]

別に、人と人とは決定的に決裂するような争点ではないと思いますけどね。人間って、確かに理解し合えないことはあるんですけど、言葉を尽くしても駄目だった場合と、それをしていない場合がありますよね。わたしは、費やした文章量からして十分に尽くしたと思いますけど、またーりさんは言葉があまりに端的であり過ぎるように思えます。正直、好感情は持てませんが、同分野の執筆者を失うのは、惜しいことですよ。--でここ 2007年9月30日 (日) 14:48 (UTC)[返信]

はじめまして。横から突然失礼します。ノート:山梨県庁ノート:山梨県庁舎において、またーりさんとの間で記事名を「山梨県庁」とするか「山梨県庁舎」とするかの議論が繰り広げられており、議論の過程で山梨県庁(舎)に限らない話に拡散している状況を確認しました。多少時機を逸した感があるかもしれませんが、この際ですので改めてウィキプロジェクト日本の行政機関のノートに議論の場を設けました。よろしかったら議論にご参加ください。--Bsx 2007年10月7日 (日) 23:03 (UTC)[返信]

天神堂遺跡の付与カテゴリについて[編集]

天神堂遺跡の編集で山梨県の建築物・観光名所のカテゴリを削除されましたが、他の遺跡の記事の付与カテゴリはご確認されましたでしょうか? 山梨県の遺跡の場合、国の史跡に指定されている場合は山梨県の史跡のカテゴリを付与し、それ以外の場合はその上位カテゴリの山梨県の建築物・観光名所山梨県の歴史のいずれか又は両方を付与することになります。※遺跡や古墳も「建築物・観光名所」の扱いになります。「建築物」には現存しないものも含まれます。ご参考まで。--BoB774 2007年12月31日 (月) 17:24 (UTC)[返信]

確認はしていませんが、史跡整備されていない遺跡などを観光名所に分類してしまうことが果たして妥当であるは検討されているのでしょうか?慣例化しているのであればあえて反対はしませんけど、けして観光名所に位置づけられていない考古遺跡を分類してしまうことは誤解を生じかねないなとは、ちょっと感じます。前々から都道府県別のCategory:日本の考古遺跡の下位カテゴリとして都道府県別の考古遺跡のカテゴリがあれば便利だなと思っているのですが。--でここ 2008年1月1日 (火) 01:06 (UTC)[返信]
建築物と観光地の関連のカテゴリを少し調べてみました。日本の考古遺跡の親カテゴリを見ると、日本の建築物はありますが、日本の観光地はありません。遺跡は「観光名所(観光地)」ではなく「建築物」の分類のようです。
「都道府県別の考古遺跡のカテゴリ」については、全面的に賛成です。私もカテゴリ分け作業の際に不便だと感じていました。都道府県別の「古墳」のカテゴリがあるのに、その上位分類である「考古遺跡」のカテゴリがないのが不思議です。Portal‐ノート:歴史あたりで提案されてはいかがでしょうか?--BoB774 2008年1月1日 (火) 12:52 (UTC)[返信]

以前、Category‐ノート:日本の考古遺跡において提起してはいるのですけど、反応が無いのですよね。合意を得ないまま実行してもまずかろうと、問題意識をもたれた方が現れるまで様子見しておりました。よろしければ、ご意見をお寄せ下さい。--でここ 2008年1月1日 (火) 13:04 (UTC)[返信]

Category‐ノート:日本の考古遺跡に賛成意見を書き込みました。「合意を得ないまま実行してもまずかろう」というのは、同感です。広く意見を求めるために、Category‐ノート:日本の考古遺跡への議論参加の呼び掛けをお願いいたします(Wikipedia:コメント依頼#議論活性化のためのコメントを利用するか、Portal‐ノート:歴史あたりで呼び掛けてみるとか)。--BoB774 2008年1月1日 (火) 14:46 (UTC)[返信]

両方に依頼をしておきました。--でここ 2008年1月5日 (土) 05:55 (UTC)[返信]

確認しました。ありがとうございます。--BoB774 2008年1月5日 (土) 06:35 (UTC)[返信]

反応ありませんね、まだ早いでしょうか。どうも、こうやって懸案事項を忘れちゃう例が多いんですけど。しばらく待って反応が、特に反対意見がないようでしたら、カテゴライズを専門に活動されていて一家言あるような編集者の方に呼びかけてみて、それで合意が得られるようでしたら実行してしまって良いのではないかと思います。BoBさんがそういう方をご存じでしたら、呼びかけをお願いして宜しいでしょか。--でここ 2008年1月10日 (木) 14:28 (UTC)[返信]

「カテゴライズを専門に・・・」という方は、ちょっと思い浮かびません。とりあえず1ヶ月くらいは待ってみませんか? 反応がなければ、遺跡の記事を執筆している編集者数名に声を掛けてみるとか、考えてみます。--BoB774 2008年1月10日 (木) 15:39 (UTC)[返信]

コモンズ呼出画像ページのローカルページ化は即時削除対象です[編集]

ウィキメディア・コモンズから呼び出されている画像のウィキペディア日本語版におけるローカルページの立ち上げに関してはWikipedia:即時削除の方針#画像/マルチメディアの7の規定により即時削除の対象となっております。なお、カテゴリの追加・挿入については直接コモンズ画像のページで記載願います。それでは、よろしくお願いします。--Wakkubox 2008年1月4日 (金) 23:17 (UTC)[返信]

すいません、存じませんでした。良くみると注意書きがありましたね。お手数かけて申し訳ありません。--でここ 2008年1月5日 (土) 05:48 (UTC)[返信]

南アルプス市の削除依頼の件[編集]

たびたびすみません。南アルプス市の削除依頼を拝見したのですが、いくつか不備がありました(私も含む数人で下記のとおり修正済みです)。恐れ入りますが、削除依頼する場合は、Wikipedia:削除依頼を参照し、正しい手順で依頼するようお願いします。なお、転載疑いの場合はWikipedia:著作権侵害かもしれない記事も利用できます。

--BoB774 2008年1月5日 (土) 06:44 (UTC)[返信]

またまた、どうもすいませんでした。「著作権侵害かもしれない記事」でしたね。たまにしか指摘することもないので、手順を忘れておりました。--でここ 2008年1月10日 (木) 14:29 (UTC)[返信]

御坂山地の画像の件[編集]

こんにちは、Σ64です。御坂山地に載せた画像ですが、確かに説明不足でした。甲府盆地は広いですからね^^

撮影地点は石和温泉付近の国道411号線沿いです。御坂山地のページには「石和温泉付近から」と説明を加え、画像自体には詳しい位置情報を加えておきました。--Σ64 2008年9月24日 (水) 07:52 (UTC)[返信]

ありがとうございました。山梨県関係の画像は非常に少ない状態ですので、画像の提供はとても有り難く思っております。--でここ 2008年9月26日 (金) 05:26 (UTC)[返信]

「平山優」の件の回答について[編集]

ノートにご意見いただいた、るなあるてみすというものです。私のノートページに返答を書きましたので、念のためこちらのページにも連絡させていただきます。なお、この書き込みは、お読みになられたら削除していただいてかまいません。--るなあるてみす 2008年12月21日 (日) 08:06 (UTC)[返信]

山梨岡神社について[編集]

初めまして、胡亂堂と申します。今般でここ様ご起稿の山梨岡神社に加筆を施させていただきましたが、窪八幡神社を「甲斐特有の神名」としている箇所があり、よくわからなかったもので、当該部分をコメントアウトにしております。よろしければお手すきのおりにでも、ご説明を追加していただければ幸いに存じます。--胡亂堂 2009年6月27日 (土) 16:18 (UTC)[返信]

胡亂堂様。まずは「山梨岡神社」について詳細な加筆ありがとうございます。たいへん感動しております。ご質問の件ですが、この部分は『山梨県史』通史編1の記述が元になっています。「山梨岡神社」について立項する際に同社の存在を甲斐国古代史のなかで位置づけようと考え県史文献を参照しましたが、『県史』通1において古代甲斐の神社史について言及された節において「山梨岡神社が甲斐特有の神名を持つ式内社である」という情報をみつけましたので、これを採用して著述しました。「甲斐特有の神名」の意味については、ちょっと私の神道知識が不足していて、この場で説明することができません。もう一度『県史』を確認した上で改めて説明させていただきたいと思いますので、もうちょっと待ってください。--でここ 2009年6月28日 (日) 04:27 (UTC)[返信]
早速のご丁寧なご回答、痛み入ります。上でも述べましたが、お手すきの折で結構ですので、よろしくお願い申し上げます。なお、念のために申しますと、コメントアウト部分は「由緒」節の第3段落末尾 (2009年6月27日(土)の版現在)ですので、ご加筆の折にでもご確認願います。--胡亂堂 2009年7月1日 (水) 08:53 (UTC)[返信]

『県史』を確認してみました。該当部は第六章第三節三「神階授与と在地社会」、執筆者は原正人氏です。

さて、該当部の小節「甲斐国の式内社」において『延喜式』神名帳に記載されている甲斐の式内社が紹介され、古代甲斐の政治的中枢である山梨郡には20座のうち9座が集中していることが説明されています。さらに、「神名から判断できること」として、浅間神社や弓削神社、物部神社など大和はじめ他国から入って来た神社に対し、山梨岡や甲斐奈、黒戸奈、大井俣窪八幡社などを「甲斐固有の地名的神名をもつ神社」としています。

以上のよなうな説明になっていますが、いかがでしょうか。--でここ 2009年7月4日 (土) 20:40 (UTC)[返信]

ご調査ありがとうございます。少しく多忙で返答が遅くなりましたことお詫び申し上げます。さて、ご報告いただいた内容ですが、正直申しまして、「窪八幡」または「大井俣」が「甲斐特有の神名」なのかどうか、いまだに納得できません(せっかくのご芳志に背き、本当に申し訳ありません)。神社名ではなく、ご祭神のお名前が特有なのでしょうか? 厚かましいお願いで恐縮ですが、就きましては『山梨県史』において「大井俣窪八幡社」がどのように叙述されているか(神名の特有性に触れているかどうか)をご教示頂ければ幸甚に存じます。--胡亂堂 2009年7月9日 (木) 09:43 (UTC)[返信]

胡亂堂様。「甲斐固有の地名的な神名」とあります。大井俣窪八幡社は「大井俣」が確か笛吹川中州を意味し、「窪」は社地が移転した後の地名ですから、社名に甲斐固有の地名が冠せられれている、という意味であると考えます。挙げられているものをすべて列挙すると甲斐奈、黒戸奈、窪八幡、山梨岡ですから、いずれも地名由来の神名になっていますよね。--でここ 2009年7月9日 (木) 18:54 (UTC)[返信]

「地名的な」ですね、すみませんうっかり見落としておりました。早速改稿致しましたので、よろしければご高覧下さい。--胡亂堂 2009年7月10日 (金) 09:19 (UTC)[返信]


富士山の記述の削除について[編集]

私はノートという場を借りず比較的すぐに編集という形をとってしまうタイプであり、それが如実に表れてしまいました。 一方、でここ様は強制的に元にもどすこともされていません。一方的な乱暴な行動をとってしまい非常に申し訳ないと思っております。

ところで意図ですが、読んでいて大分昔から違和感があった部分がこの文学のところであったということから始まります。

それほど著明でない人物の事が非常に詳しく記載されていることに目がとまり、不思議に思いました。その共通点が北麓関係であったことから、ついには偏っているなと感じてしまったわけです。 どなたが編集したとか履歴などは特に存じていませんでしたが、参考文献に「山梨県立文学館『富士百景 その文学と美』」とあり、これを参考にしたのではないかと思いました。

内容は当然事実であり、それらの問題はないためずっと手を加えませんでした。

ですが改めて見るとやはり違和感が大きくなってしまったのです。
編集前169 行 広重は甲斐国をはじめ・・・
この部分ですが、自分の中では東海道五十三次>不二三十六景でしたから「甲斐国をはじめ・・・」という文に違和感を覚えました。

これが起爆剤になったという感じでしょうか。

「富士山の文学」という壮大な題であるのに、名も知れ渡らぬ人のことを詳しく記述していて、これは必要ではないと感じ削除に踏み切ってしまった次第です。同じような文学者ならいくらでもいすぎて、では逆に「この人も」「この人も」として載せたらきりがありません。ですからそもそも記事としていらない部類に入るという考えが念頭にあったのかもしれません。

山梨県が管理する施設による資料ですからその資料が偏っているのは当然であると思います。 でもそれを参考文献にしてしまうのはいかがかなと思うわけです。 ある意味、主張のようなものだと思います。文学的視点というより、やはり県としての色合いが濃いと思うのです。 例えばこれが静岡県だったとしても、たぶん「静岡県にはこういう人が来て、こういうことをして何年間住んでいて・・・」という静岡県としての主張になると思います。 もちろん同じく良いとは思いません。

これら該当する部分を削除してしまったという感じです。文学的要素は非常に少なく、むしろ「富士山というものが人を引き寄せた」という意味合いが強いように感じました。

ですから削除の大きな理由は、簡単にいうと、記述するほどでもないだろうという考えが大きいです。 必要ないという意見は変わりませんが、そもそもこういう形の削除はルール通りではないのでもう少し会話をしてから戻させていただこうと思います。--Sablier de Verrie 2010年2月25日 (木) 10:16 (UTC)[返信]

広重についてですが、わたしの作成した甲州日記をご参照ください。広重は天保13年に甲斐を訪れ各地のスケッチを残しているのですが、広重はこれらのスケッチを作品に利用していることが指摘されています。近世には甲州街道が整備され甲斐には多くの文人が訪れていますが、そうした背景の中で広重は甲斐側の実景をスケッチし、新たな富士見スポットとして作品を発表しており、これはとても重要なことであると思いますし、「甲斐国をはじめ」と特筆しておくべきであると考えています。東海道側はスケッチをおこなっている可能性もありますが、日記は残されていませんから。
文学史についてですが、ご指摘の通り、私はこの節を執筆するにあたり山梨県立文学館企画展「富士百景」展示図録を参照しています(詳細な注をつけないままになっていますが)。Sablier de Verrie様のおっしゃられる通り、同展はあくまで山梨県側、つまり富士北麓をフィールドとした文学史の集成という趣ですが、「偏り」はその点のみであって、文学史専門の学芸員さんの編集されたものでありますから、十分に参考文献として使用できるものであると考えます。また「主張」にあたる部分が存在するとも思えません。
失礼な言い方になるかもしれませんが、紹介されている文学者の知名度が低く不要であるとのご判断をされた基準は、Sablier de Verrie様によるものでしょうか?Sablier de Verrie様は太宰のみを残しておられますが、わたしの挙げている一連の文学者は、太宰に比べれば一般的知名度は低いでしょうけど、文学史に関心のある人間であればどれも知っている著名な人物であると思います。「名も知れぬ文学者」にあたるのは、中村星湖くらいであると思います。星湖は明治期の自然主義文学者として知っている人はしっている程度でしょうけど、山梨県の地域文芸・郷土研究者として重要な人物で、著述しておく必要は感じるのですが。
それと、美術史部分においても富岡鉄斎や和田英作の名を削っていますが、鉄斎や和田英作がマイナーであるとは思えません。
Sablier de Verrie様が文学史にご精通されている方であるとすればご指摘は真摯に拝聴したいのですが、wikipediaの執筆姿勢は典拠資料に基づいたものであるべきで、我々wikipedianの裁量で要不要を判断するべきではないと思います。Sablier de Verrie様は、文学史部分の編集に際して、何かしらの文献を参照してご判断なされたのでしょうか。
北麓POVになってしまうのは、私のアクセスしている資料の性格からして致し方な無いことですし、問題が無いとは言いませんけど、富士山に限らずwikipediaの執筆において各人が依拠する文献に偏りが出てしまうのは、避けられないことであると思います。富士山関係の執筆者であれば、富士山に関する一般文献のほか、山梨・静岡両県側の郷土資料も収集して執筆にあたれる方は少数であろうと思います。必要なのは北麓POVになっていることを注意喚起することであって、記述を削除することで調整を図ろうとするのはいかがなものでしょうか。私も富士山関係の加筆に協力したくもありますが、こういうことがあるかと思うと執筆意欲が萎んでしまうのですが・・
Sablier de Verrie様はご不要とおっしゃられますが、近世・近現代に富士山麓地域の交通・保養地としての整備が進み多くの文人・画家が来訪し、そうした歴史的背景の上で富士が文学や美術のモチーフとして描かれることが多くなってきたことは、私はとても重要で著述しておく必要があろうと思いますし、そうしたことを指摘している文献も存在しているのですが、Sablier de Verrie様も本当に不要であるかどうか、再考していただければと思います。
議論という性格上、ご不快な表現があったかもしれませんが、その点はご容赦ください。--でここ 2010年2月27日 (土) 07:10 (UTC)[返信]


私は書かれていること自体は事実だと思っています。偏りもどこかで感じつつも資料に基づいたものでありますし、この部分はでここ様の主張その通りだと思っています。 文献に偏りがでるのも私は問題ないと思います。

私の削除の大きな理由として、前に述べたように、「記述するほどでもないと感じた」ということがほとんどですので、あくまで広重云々はそれに至る背景です。

私があまりよく思っていないのは、でここ様の説明あったように中村星湖氏の「山梨県の地域文芸・郷土研究者として重要な人物」というようなあくまで県としての視点です。 じゃあ静岡県は?神奈川県は?となるのでは、という事なのです。 いくらでもある事例に対し、1つのサイドだけを取り出してしまうのはいかがと思うわけです。 これは文献の傾向ということとは別の問題です。

文学って何なんでしょうか? だれかが来たとか、そういう事なのでしょうか? そういう視点にしか感じないというのが率直な意見です。--Sablier de Verrie 2010年2月27日 (土) 13:24 (UTC)[返信]

Sablier de Verrie様、わたしは富士山に関する文学史の著述が、あれで完成に至っているとは思いません。もっと富士山に関する文学史について著述された文献を収集して、まんべんなく記述を広げる必要があると思っています。わたしのタッチしている文献の性質上、北麓POVになることは、段階的な経過として致し方の無いことであると考えています。
ですから、本来であればもっと文学史に精通された方による査読や加筆を期待するところでありますし、わたしの著述部分はそのたたき台になってほしいと思います。ですから、Sablier de Verrie様の記述を削除することによって調整を図ることは、いかがなものであるとかと思います。
わたしが前のコメントで指摘した、Sablier de Verrie様が記述を不要と判断して編集される団塊で、富士山に関する文学史について諸文献を参照された上でのことなのか、それともSablier de Verrie様の個人的裁量によるものなのかご回答を頂きたいのですが、「著述するほのものでない」、または「富士山に関する文学とは何か」の点についても、独自研究排除のために必要とされている、wikipediaの執筆姿勢の指針である典拠文献の基づくべきであるという点を満たした上で、考えていただければと思います。この件について指摘することはご不快に思われるかもしれまえんが、wikipediaの執筆において重要なことですので、冷静にお聞きいただければと思います。
地域文芸の視点が問題であると考えられる理由もわかりません。私は何も北麓側のみの地域文芸を扱うべきと考えているわけではありません。ですから「北麓地域では」と確認できている情報を明確にする配慮をしていると思いますし、南麓や他地域でも同様のことが言えるとしたら、それを確認した上で記述を調整する必要があると思っています。郷土研究・郷土文芸が流行するのは明治後期くらいからですが、山梨県の富士北麓地域においては、富士を地域の象徴と位置づける運動と連携しているわけで、これは必要な情報であるかと考えます。
繰り返しますが、私は北麓側というひとつの視点だけを取り出しているわけではなく、他地域の事情を把握していないので著述が限定的になってしまうだけあると考えます。調整は他地域の文芸史に関する文献を収集し加筆することで行うべきであって、記述の削除による調整は不適切であると考えます。
>文学って何なんでしょうか? だれかが来たとか、そういう事なのでしょうか? そういう視点にしか感じないというのが率直な意見です。

文学が何であるかをwikipedianが考察して定義してしまうのは独自研究に抵触します。あくまで富士山に関する文芸史を著述した文献を収集し、それらの文献において重視されている内容を著述すべきであると考えます。--でここ 2010年2月27日 (土) 13:51 (UTC)[返信]

ところで、本テーマは富士山の記事執筆に携わる方のご意見もいただきたいところですから、私のノートではなく、これ以降の議論は富士山の記事ノートへ誘導させていただいて構いませんでしょうか?--でここ 2010年2月27日 (土) 13:51 (UTC)[返信]


ご返答ありがとうございます。

私は、自身の突発的な行動には問題があり、削除という行為に関して非があるという旨を伝えています。それを踏まえて少し会話をさせていただいた後戻させていただきたいと言っているのに、なぜ繰り返しそれを引き合いにだそうとするのでしょうか?(予定通り戻させていただきました)

「著述するほどのものでない」という表現は、危惧していることからの発言です。 それがどういうことなのかというのは、ノート(2010年2月27日 (土) 13:24)の「私があまりよく思っていないのは、・・・別の問題です。」に記述されている通りです。

まだ完成に至らないとありますが、ひっきりなしに挙げて、「全国の影響された文学者」というものでも作られるのでしょうか? 既にそういうように北麓のことも書かれていますから、これを拡大したらそのようになるかと思います。

そして、なぜここで独自研究という言葉が出てきたのか理解しかねます。独自研究というものの解釈を間違えているように思えます。

「文学って何なんでしょうか? だれかが来たとか、そういう事なのでしょうか?」 という私の問いかけは、「富士山の文学」という表題に対するでここ様の記述についての問いかけなのですよ。

他の方の意見も取り入れたいというのは私も同じです。ですから最後の件はもちろん構いません。 よろしくお願いします。--Sablier de Verrie 2010年3月1日 (月) 19:38 (UTC)[返信]

石和温泉駅について[編集]

でここ様こんにちは。山梨県関連記事のご執筆、いつも拝見させていただいております。

さて、表題の石和温泉駅記事、歴史の節ですが、鉄道誘致運動が郡単位で行われていた事は理解できるのですが、実際に建設されたルートが『東山梨郡』エリア内(旧大和村、勝沼町、春日居町)を通過(駅舎建設)しておりますので、この文章内のように「東山梨郡を通過しない」、と『東山梨郡』のみでの表現にしてしまうと、読み手は少々分かりづらいのではないでしょうか?上手く表現できませんが、例えば>建設予定路線から外れた甲州街道沿いの『東山梨郡』住人などによる・・、というような表現はいかがでしょう?これでは冗長すぎますかね? 何か良い表現はありませんでしょうか?ご相談のようですみません。よろしくお願いします。--さかおり 2010年4月18日 (日) 06:22 (UTC)[返信]

さかおり様、差し戻ししてしまって、申し訳ありません。歴史的経緯について、あんまり現在ではと現在POVの視点を持ち込んでしまうのはどうかなぁと思ってしまいました。わたしも絶対の自信をもっているわけでもありませんし、ご異論があられましたら、遠慮なく提言してください。
ご指摘の点ですが、周辺地域の簡略地図があるといいのかもしれませんね。表現の上ではどうでしょうか。しばらく考える時間をください。--でここ 2010年4月18日 (日) 14:56 (UTC)[返信]
お返事ありがとうございます。私もおぼろげな記憶なのですが、勝沼から石和にかけての甲州街道宿場関係者にとって、宿場の衰退につながる恐れがあった塩山方面を迂回する中央線ルートは、反対があったと何かの本で読みました(参考文献を探しましたがハッキリしません)。そこで同じ甲州街道の宿場であった石和宿と石和駅設置運動に同調したのではないかと考えられますが、同調したのは同じ郡であったという理由だけでなく、同じ宿場機能(旅客を鉄道に奪われる)としての共通点があったように思われますので、このような経緯も文中に織り込むのは如何でしょうか?編集を急ぐ必要はないと思いますので、ゆっくり考えたいと思います。差し戻しに関しましてはご遠慮せず、より良い記事作成の為に大切な事と考えておりますので、今後とも同じ山梨県関連編集参加者として、意見交換ができれば幸いです。--さかおり 2010年4月19日 (月) 06:04 (UTC)[返信]

細部の編集に関して[編集]

始めまして。編集に際して必ず細部の編集にチェックを入れられていますが、おやめください。Help:細部の編集をご覧にいただければわかると思いますが、この機能はあえて確認するまでも無いよ、程度の編集についてされる物で大胆な編集や大幅な加筆をされた際にはチェックを入れないでください。--EULE 2010年5月17日 (月) 04:30 (UTC)[返信]

スタブ未満作成停止のお願い[編集]

こんにちは。ウィキペディアに参加して頂きまして、どうもありがとうございます。

このようなお知らせをすることになって申し訳ないのですが、ウィキペディアは、百科事典を作るのを目的としたプロジェクトであり、言葉の定義のみを書いた辞書を制作するプロジェクトではありません。そのため、非常に短い記述だけの記事を新設したり、余り発展の余地のなさそうな話題を扱うページを新設することの是非については、いろいろと議論があります。でここさんが投稿されている記事には短いもの、定義のみで意味がないもの、ひとつの項目にまとめるべきもの、あるいは発展させることが難しいものがいくつか含まれているように思います。

せっかく作成して頂いた記事も、内容が十分でないと後々削除されるようなことになるかも知れません。そうなってはお互い残念です。ですので、できるだけ、量的、内容的にまとまりのあるものを書いてから投稿いただけるよう、お願いできますでしょうか?

ちなみに、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかというページにはウィキペディアで受け付けない投稿の典型例を説明していますが、そこでも辞書のように用語の定義だけのものは受け付けない、ということになっています。

またもしよろしかったら、Wikipedia:スタブにある、短くても役に立つような記事の作成法も参考になるかと思います。

では、今後ともどうぞよろしくお願いします。--Kalz 2010年5月26日 (水) 07:51 (UTC)[返信]

お詫び[編集]

福田千鶴福田知鶴の項目を取り違えていたことを知らずにめちゃくちゃな編集をしてしまい、差し戻しの手間をおかけしましたことをお詫びします(普通に編集していれば気が付くことだけど、今回の場合はメモ帳から全転写→即投稿ボタンを押してしまったので…)。大変申し訳ありませんでした。今後はこのようなことがないよう気をつけます。--博多商人コイツミ 2010年6月3日 (木) 14:23 (UTC)[返信]

美瑠姫について[編集]

はじめまして、KurmUmyと申します。美瑠姫の記事についてなのですが、コメント依頼が出ていたのに気づかず、リダイレクト化を行ってしまいました。一応当該記事のノートに理由を書いておいたのですが、戻したほうがよいでしょうか?--KurmUmy 2010年6月8日 (火) 09:04 (UTC)[返信]

小田原城の戦い (1561年)ページの削除依頼について[編集]

はじめまして、でここさんの書かれる歴史記事をいつも拝見させていただいています。先日、何ら議論の告知も議論もなしに西暦がちがうと小田原城の戦い (1560年)のミラーページのような記事で小田原城の戦い (1561年)が作成されておりましたので、削除依頼を出しました。できましたら、削除の議論にご参加、ご投票していただきたくお願いにあがりました。よろしくお願いいたします。--ジャムリン 2010年6月9日 (水) 12:41 (UTC)[返信]

小田原城の戦い (1560年)改名について[編集]

Wikipedia:削除依頼/小田原城の戦い (1561年)への議論のご参加ありがとうございました。削除されたページを立てられたフォックストロット氏からの提案がありませんでしたので、私から改名提案を出させていただきました。 議論中のコメントにもあり、また今、武田氏と上杉氏に関しての新たな記述が加えられたり、「記述が冗長である」との理由で出典付き記述を議論無しで削除している方もいますので、場合によっては分割も視野に入れての議論にもなると思いますが、ご意見がありましたら、宜しくお願いします。--ジャムリン 2010年6月23日 (水) 10:08 (UTC)[返信]

信玄の高天神城攻めについて[編集]

失礼します。件の元亀2年の武田の侵攻のことについてお聞きしたいのですが、三河遠江侵攻が無かったということは、武田信玄による高天神城攻めも否定されているのでしょうか?この辺り高天神城攻めや、それに関する勝頼の評価、再評価でしばしば言及されることなので(ウィキペディアでの当該の記述の出典は知りませんが、勝頼の再評価の話題ではしばしば言及される事象だと思っています)、どうなんでしょうか?もし、それも鴨川氏が否定されていて、かつ最新の武田研究では高天神城攻めは無かったということで定説になりつつあるなら、該当する記述を編集する際に気をつけたいと思います。--EULE 2010年7月4日 (日) 15:55 (UTC)[返信]

元亀2年の遠江・三河侵攻が天正2年に修正されるとすれば、必然的にそういうことになろうかと思います。鴨川論考を受けた『新編武田信玄のすべべて』『武田氏年表』を確認すると、元亀2年条に高天神城攻めは記載されてませんね。武田氏研究会を中心とする武田氏研究においては、信玄による高天神城攻めはなかったとする見解に落ち着いていると見ていいものだと思いますが、ただ直接的に言及した文献がまだないかと思いますので、修正をする際にはあくまで信玄による高天神城攻めに言及して、それが行われたと「される」としておいて、脚注で鴨川論考に言及、としておくのが現段階のベストではないのかなぁと、個人的には思います。鴨川氏の指摘は新書ですし、前掲二著も容易に入手可能な文献ですから、EULE様もご確認してみてください。--でここ 2010年7月5日 (月) 06:09 (UTC)[返信]

回答ありがとうございます。では当該の記述に触る際には、おっしゃる方向でやりたいと思います。また、参考にできる具体的な資料についてもありがとうございます。機会があれば読みたいと思います。--EULE 2010年7月5日 (月) 09:10 (UTC)[返信]

甲相駿三国同盟の表記について[編集]

失礼します。 甲相駿三国同盟のページに三国の表記順序についての注意文をいれました。訂正・修正すべき点がありましたら、よろしくお願いいたします。 --ジャムリン 2010年8月21日 (土) 10:35 (UTC)[返信]

議論参加へのお願い[編集]

失礼します。ノート:地方病におきまして、記事名に関するご意見を頂ければ幸いです。お忙しい所恐縮ですが、よろしくお願いします。--さかおり 2010年12月10日 (金) 03:31 (UTC)[返信]

目安箱について[編集]

ご連絡ありがとうございます。取り急ぎ、節題について今の時点で提示できることを利用者‐会話:ジャムリンに回答いたしましので、ご確認いただければと存じます。--ジャムリン 2011年2月21日 (月) 14:32 (UTC)[返信]

こんばんは、ジャムリンです。後北条氏北条氏康目安箱についてですが、文書的な所見については、先日お知らせしたものしかないようで、設置場所や詳細についてはまだ判らないようです。北条家は領国内の裁判権の掌握と整理の中で裁判費用の軽減化と手続きの簡素化を行っていますが目安箱の設置の目的については、印判や文書の研究をなさっている山口博氏は『北条氏康と東国の戦国世界』の中で、現存している裁訴状の研究から民間からの政策提言のためというよりは、武家や寺社のような直接提訴できるもの、それらを寄親や本寺として提訴ルートを持てる者以外の、芸能者・百姓・職人の提訴のための訴状受理箱としての目安箱であったであろうという考察をされています。--ジャムリン 2011年2月24日 (木) 20:22 (UTC)[返信]
追記:もうひとつの所見は、やはり今川氏のものでした。『今川仮名目録』のあとに記載されている訴訟の条目「定」に「たよりなき者訴訟のため、目安之箱、毎日門之番所に出置上ハ、たしかにこに入て、毎月六度之評定にこれをひらき、名を沙汰し定へき也、」とあり、小和田哲夫氏は制定している地域への版図の関係から、この条文の追加は、今川義元によるもので、天文15年(1546年)頃以降のことであろうと考察されています。こちらも提訴のためのもののようです。氏康の書状の「十年已象」や名称の解釈にもよりますが、今川氏の方が早いか、ほぼ同時期ということにもなりそうです。--ジャムリン 2011年2月26日 (土) 01:42 (UTC)[返信]

ジャムリン様、調査していただいてありがとうございます。なるほど、どうやら近世の目安箱・民間からの政策提言システムとはかなり性格を異にする事例であるようですね。記事で紹介するかはまた別の議論がありそうですが、とりあえず戦国期の目安箱を近世のそれの起源としてしまうことについては、慎重視しなければならないのでしょうね。--でここ 2011年2月26日 (土) 10:44 (UTC)[返信]

移動ができないことについて[編集]

お久しぶりです。コメント依頼を見たので。

移動先が2版以上の場合、通常の権限では移動できません。なのでWikipedia:移動依頼に出して管理者権限を持ってる人にやってもらう必要があります。--EULE 2011年4月3日 (日) 10:01 (UTC)[返信]

EULE様、助言ありがとうございます。--でここ 2011年4月3日 (日) 13:43 (UTC)[返信]

大蔵経寺[編集]

この編集のことですが、明王寺の所在地の説明に旧町村への誘導は不要と考えます。増穂町や、絹本着色両頭愛染明王像が山梨県指定有形文化財として指定された時期に関係する記述ではありませんし。--60.37.205.246 2011年8月18日 (木) 15:05 (UTC)[返信]

山梨県の歴史的著述をみていると、たとえば南アルプス市などは住所表記に旧自治体名がないので大字では地理的把握がしにくいこともあって、旧自治体名が補筆されていることがあります。富士川町の場合は鰍沢+増穂で比較的把握が容易ではあると思いますが、増穂町には町史に関する概説も著述しておきましたし、同系統の密教絵画が伝来した地域をより具体的に示しておくほうが有用であると考えます。--でここ 2011年8月19日 (金) 05:20 (UTC)[返信]

リンク外しについて[編集]

  • ほかにもそういう主張をする人がいるのですが、著書題名内の単語のリンクを外さないでください。不適切ではありません。たとえば安藤昌益についての本にリンクがあれば、人はそこから安藤昌益を参照できるわけです。それが不適切だというなら、いったい何のためのリンクでありましょう?
ぜひ、その件について討議しておく必要があろうかと思います。どこかで論題として提唱してみましょうかね。Portal‐ノート:歴史において以前に提議したことがありました。--でここ 2011年8月31日 (水) 14:56 (UTC)[返信]

旧自治体名の併記について[編集]

Wikipedia:表記ガイドの年月日・時間の節の内容をよくお読みください。このような機械的な差し戻しはおやめください。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 06:25 (UTC)[返信]

対話拒否はやめてください。対話拒否はやめてください。これ以上続ければ、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 06:37 (UTC)[返信]

年月日に関しては了承いたしましたが、旧市町村へのリンクに付いては再考していただけませんか?特に歴史的事項に関することは、有用性が高いものと考えます。--でここ会話2012年3月24日 (土) 06:38 (UTC)[返信]

旧市町村の記述とリンクは必要に応じてつけるものであり、無闇に記述したりするものではありません。たとえば、信玄堤の位置は甲斐市竜王で特定の位置が分かるはずです。戦国時代に作られたものであり、竜王町にあったというのはそれほど重要ではないはずです。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 06:45 (UTC)(リンク修正)--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 09:23 (UTC)[返信]

旧市町村への記述がなくても位置の特定が可能であるかどうかは、閲覧者の予備知識の有無によるものと考えます。信玄堤と竜王町ですが、「竜王」の起源が信玄堤の管理・維持を役目とした竜王河原宿に由来しており、信玄堤から旧竜王町へのリンクを張るのは当然のことではなかろうかと思います。

旧市町村へのリンクが本文中において煩雑になるのであれば、私は脚注化する方法などを考えますが、如何でしょうか?--でここ会話2012年3月24日 (土) 07:07 (UTC)[返信]

(追記)加えて、私は旧竜王町の記事にかなり詳しく竜王町史に関して加筆したことがありますが、リンクが貼られていることで横断的に信玄堤の立地した市町村史を参照することができる重層的な構造になっているものと考えます。--でここ会話2012年3月24日 (土) 07:14 (UTC)[返信]

例としてまた信玄堤を挙げますが、定義文である「山梨県甲斐市竜王にある堤防。」の位置の後に脚注として旧竜王町を追加するといったものは関連性の低い記述にしかなりません。関連性があるなら、そのような補足ではなくきちんと文章で書くべきです。また、信玄堤から旧竜王町へのリンクを張るのは当然とお考えなら、きちんと文章で書く以外にリンクを貼るほどの特筆性があることを立証すべきでしょう。竜王町などの旧市町村のリンクはあくまで必要に応じてつけるという考えは変わりません。この記事はに存在していた1956年9月30日から2004年9月1日までの時期の竜王町について記述が全くないわけですから現段階ではリンクは不要であると考えています。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 07:39 (UTC)[返信]

立証は①『竜王町史』を参照すると信玄堤に関する相当量の著述が存在する。②竜王の起源は竜王河原宿である。

これでよろしいでしょうか。--でここ会話2012年3月24日 (土) 07:56 (UTC)[返信]

対話中に編集ならさないでください。Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないに反します。
こちらの編集強行は上記の立証とは関係なしに特筆性に欠けた記述であり、信玄堤と竜王町自体の関係が見いだせていません。それに、「関連性があるなら、補足ではなくきちんと文章で書くべき」とも言ったはずです。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 08:08 (UTC)[返信]

申し訳ありません。おっしゃる意味が理解しかねます。「文章で書くべき」とは、何を追記すればいいのでしょうか?竜王河原宿の成立史が著述されている以上、これ以上ない関連性が示されていると思うのですが・・--でここ会話2012年3月24日 (土) 08:16 (UTC)[返信]

(追記)ところで本論題は、どこかの場所で問題提起してもっと多くの方の意見を伺ってみたいのですが、どうでしょうか?--でここ会話2012年3月24日 (土) 08:24 (UTC)[返信]

(追記)経験上、当事者同士で対話し続けると対立的になってしまうことを知っているので、コメント依頼で提起してみました。私のノートページで議論し続けるのも何ですから、どこか適当な場所で議論できたらと思います。--でここ会話2012年3月24日 (土) 08:35 (UTC)[返信]

言い換えましょうか。竜王河原宿と竜王町を切り離してお考えください。信玄堤の記事では、確かに竜王河原宿の成立史が関係していると思いますが、竜王町という町自体に関連した記述が全く記されておらず位置というものでしか見出されていません。竜王町は記事のとおりあくまで廃止した自治体です。「文章で書くべき」とはその廃止自治体と信玄堤に関係するに関する内容のことを指しています。信玄堤の所在地は甲斐市竜王にあるわけですから、それを記載すれば十分でしょう、ということです。どうしてもリンクだけを残しておきたいのであれば関連項目に記せば十分ではないでしょうか。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 09:19 (UTC)(修正)--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 09:23 (UTC)[返信]
(追記)この一連でのあなたの発言・編集は一つも納得できないどころか、その編集内容は位置が関連しているだけのトリビアを載せたものとしか私はとらえていませんし、対話からもその必要性が全く感じられません。コメント依頼を出したのは構いませんが、対話が不十分のまま依頼を提出しても他の利用者が迷惑になるだけだと思います。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 09:41 (UTC)[返信]

ですから、その廃止自治体の歴史が極めて密接に記事に関係していると思うのですが・・--でここ会話2012年3月24日 (土) 10:58 (UTC)[返信]

竜王河原宿という歴史は明治以前の歴史、つまり竜王村竜王町甲斐市の前の歴史ということ(竜王町の記事の歴史項目にも中近世として触れられているのは分かっていますが、これらは現在の自治体である甲斐市に書くべき内容ではないかと思ったりします。)になり、これらの自治体の歴史に共通するものです。しかし、この竜王町のみの歴史は上記に書いたとおりの約48年間だけであり、この48年間の歴史と信玄堤が極めて密接に関係あるというのは、信玄堤の記事では触れられていません。あなたが「その廃止自治体の歴史が極めて密接に記事に関係している」と思っているようですが、その関係がただの位置だけではただのトリビアです。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 12:10 (UTC)[返信]

なるほど・・了解しました。要するにIP氏様は、旧竜王町の「歴史」を旧竜王町成立から廃止までのものと考えておられるのですね。ありがとうございます、これで認識の差異が明確になりました。--でここ会話2012年3月24日 (土) 12:26 (UTC)[返信]

ご理解ありがとうございます。廃止自治体の在り方に少し疑問はありますが、信玄堤の記事は竜王河原宿と御幸祭の節にリンクを追加しようと思います。以上失礼します。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 13:30 (UTC)[返信]

とはいえ、私は相変わらず歴史的記事の地名には旧市町村へのリンクがあったほうが有用性が高いと考え続けてはいるのですよね。はじめに提示しました。記事を横断的に参照することで重層的な理解をすることができる構造を無くしてしまうことになるのですが。

加えて、IP氏様はたとえば南アルプス市の旧自治体併記も除去されていますが、南アルプス市に関しては、字名のみで位置の把握が可能であるとお考えでしょうか?私は困難であると考えるのですが。--でここ会話2012年3月24日 (土) 13:59 (UTC)[返信]

位置を(何も調べずに)把握できるかどうかは全く考えていません。把握に関してはあなたが仰ったように「閲覧者の予備知識の有無によるもの」ではないでしょうか。それと「旧(自治体名)」という表現を補足的にあまり使用すべきではないと考えてる理由は、自治体の廃止時期がばらばらで記述の統一性がとれないからです。特に「旧(自治体名)」に関するローカルルールというもの定まっているわけではないので、現在使われている住所表記(場合によっては地域名)を用いるのが妥当だと考えています。--60.37.211.89 2012年3月24日 (土) 18:01 (UTC)[返信]

了解しました。--でここ会話2012年3月25日 (日) 01:57 (UTC)[返信]


上記のIP60.37.211.89と同一です。信玄堤こちらの編集および龍華院 (甲府市)初版から上記の話し合いは何だったのかと言わざる得ません(龍華院の冒頭はWikipedia:腕ずくで解決しようとしないに完全に反しています)。当然ですが、廃止自治体のリンクは必要に応じて付けるという意見には変わりありません。甲斐市の大字である竜王と中巨摩郡の竜王町は同一のものではないため、竜王に竜王町のリンクを付けることは強引かつ不適切です(それ以外も同様)。これ以上問題行動が発見された場合は管理者伝言板でのあなたの問題行動の報告を検討したいと思いますのでそのつもりで。--114.146.56.144 2012年8月19日 (日) 08:34 (UTC)[返信]

了解しました。が、私も相変わらず旧自治体記事へのリンクは有用であるとかんげています。Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないを言うならIP氏様も同様であるように思えます。あちこち編集なさる前に、もう少しこの問題を第三者の意見も交えて詰めて考えてみては如何でしょうか。なんだかIP氏様の御説が妥当であることが前提になっているように思えるのですが。--でここ会話2012年8月19日 (日) 09:48 (UTC)[返信]

上記の発言と同様になると思いますが、相変わらず旧自治体記事へのリンクは有用であると仰られても、それが有用である根拠を示さなければ有用とは言えません。あなたがその根拠をきちんと示せなかったため第三者の意見は求めずに至っています。本来ならばあなたがコメント依頼等を行うべきだと私は思いますがいかがでしょうか。
余計なことかもしれませんが、平成の大合併により消滅したという理由でその自治体を載せてしまっているものが多いという現状であり、あなたの編集にはそのような傾向がある、と私は考えています。--114.146.56.144 2012年8月19日 (日) 10:32 (UTC)[返信]

コメント依頼は出した記憶があるのですが、第三者の議論活性化には至りませんでした。私の有用であると考える根拠は前述の通りで、同じことの繰り返しになると思います。こういった議論は経験上、当人同士で議論していても解決したためしがありませんので、私は第三者の仲介を交えて議論したほうが良かろうと考えます。--でここ会話2012年8月19日 (日) 10:43 (UTC)[返信]

再確認願います[編集]

とても適切に書かれていると思います。 広く公開されている最新の記述や刊行済み行政記録などからいくつか事実誤認があります。 なかでも、記事の信憑性を低めていたり、広く大きな誤解と生じさせている重大な事項が4点あります。

1.「冬季の間一帯をイルミネーションで飾られてきたが、文化庁から天守台の装飾を禁止されたほか」    とありますが、文化庁が禁止した事実はありません。調査しても公式な記録または報告分などなく、報道ミスや伝聞間違えではないですか。

2.「八巻与志夫や萩原三雄らは出土した金箔瓦や鯱瓦などは各地で天守を持つ城郭を築造している豊臣系大名特有のもので」    とありますがこれら人物の見解は10年以上前のことで、当該自治体ならびに学識者の統一見解として既に成立しています。個人名をもってその主張を述べるのは    すでに無理があり、多角的な学術成果を適切に評価していない点は課題であると思います。

3.「天守閣の存在に関しては市街地活性化の観点からも多方面で強い注目度があり、整備事業においては復元も計画されている。」    とありますが、調べても計画はありません。要望や希望を持った方はいますが、ない計画をあたかもあるように書くのは大きな誤解を招くのではないでしょうか。

4.「1992年(平成4年)から山梨県埋蔵文化財センターや県教育委員会、土木部などによる発掘調査が行われ、甲府城跡総合学術調査団」    とありますが、このような調査団が組織された事実はどこにもありませんでした。調査記録をひも解いても1992年(平成4年)は明らかに誤認です。再度調べると   よいと思います。

その他、諸々ありますが早めに修正、再確認されより適切に充実されるとをることを望みます。

Hirokawa-1955 20120605

了解しました。--でここ会話2012年6月5日 (火) 13:50 (UTC)[返信]

信玄と虎綱の記述について[編集]

ノート:日本における同性愛に意見を述べましたのでそちらをご覧下さい。--120.74.103.157 2013年10月22日 (火) 07:14 (UTC)[返信]

コメントのお願い[編集]

はじめまして、突然に失礼します。ノート:稲作#「日本への伝来」の一部記述について にご意見を頂ければ幸いです。ご迷惑でしたら申し訳ありません。--C.camphora会話2014年1月27日 (月) 15:32 (UTC)[返信]

お返事と遅れた事に関するお詫び[編集]

ノート:塩尻峠の戦いでお返事をいたしました。なお、お返事が遅れたこと、申し訳ございませんでした。

後、でここ様が武田信虎の「主な家臣および偏諱を賜った人物について」に関してですが、Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/神奈川IP・ルーツで挙げられているユーザー、利用者:Spiral777氏の手によるものです。この方は他にも多くの偏諱を賜った人物を執筆(文献無)しており、当方も困惑しております。--準緑会話2014年3月15日 (土) 15:11 (UTC)[返信]

でここさん。勝山合戦では再びご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。参考文献にしている「武田信虎のすべて」の204ページに記述がありました。私のミスです。気をつけます。--準緑会話2014年6月10日 (火) 15:04 (UTC)[返信]

準緑さんの信虎期・甲斐乱国時代関係記事の立項は大変ありがたいのですが、『信虎のすべて』以外にも、もう少し関連文献を集めてから執筆したほうが良いようにも思われます。たとえば穴山氏に関しては平山優氏の『穴山武田氏』がありますし、故・秋山優氏の「穴山信懸」という論文も、最近遺稿集に入りました。私も編集に参加したいのですが、甲斐乱国時代の事情は非常に混みいっており、甲斐国のみならず東国情勢全体を理解していないといけないので、なかなか自分の理解が不十分で、躊躇してしまうのですよね。--でここ会話2014年6月11日 (水) 03:55 (UTC)[返信]

脚注の示し方について[編集]

でここさんこんにちは。山梨県に関する記事の執筆お疲れ様です。でここさんが書かれた敷島町慈照寺 (甲斐市)などの記事で、出典の示し方を少しだけいじりました。同じページを出典にして2か所以上に脚注を付ける時にはこの書き方が便利です(Help:脚注#複数箇所に同じ脚注を付ける)。--Asturio Cantabrio会話2015年7月7日 (火) 14:52 (UTC)[返信]

ありがとうございます。そういうやり方があるのは知っていたのですが、なんとなく覚えないままに単純に脚注をつけ続けてしまっています。覚えないといけないのですけどね。--でここ会話2015年7月7日 (火) 16:08 (UTC)[返信]

穴山信君の出典[編集]

お話するのはお久しぶりです。EULEです。さっそく本題ですが、久しぶりに穴山信君を見たら評価のところに要出典がありました。佐藤八郎というのは私も聞いたことのない史家だったので調べたら山梨の郷土史家らしい人物がヒットし、であれば、でここ氏だろうと履歴を探ったら、やっぱでここ氏が追加したものだったのでお知らせに参りました。

郷土史家の評価を書くなとは申しませんが、やはりマイナーな人物であることに違いはないので「郷土史家の」と付けていただきたいのと、無論、固有の評価に関わる記述は出典も欲しいと思います。よろしくお願いします。--EULE会話2015年7月31日 (金) 08:26 (UTC)[返信]

佐藤八郎氏は数年前に亡くなった、山梨県の郷土史家ですね。戦後の武田研究の黎明期の研究者です。該当部分は、当時は逐一出典や頁数を記しておかなかったもので、すいませんが自分でも今すぐ出典を示すことができません。穴山信君について本腰入れて強化することがあったら評価の部分も加筆したいのですが、なにぶん気分であちこちの分野を手がけているもので、気長にお待ちください。--でここ会話2015年7月31日 (金) 10:23 (UTC)[返信]
(追記)あまり言いたくはありませんが、EULE様の質問の文面には若干失礼なものを感じます(「佐藤八郎というのは私も聞いたことのない史家だったので調べたら山梨の郷土史家らしい人物がヒットし、であれば、でここ氏だろうと履歴を探ったら、やっぱでここ氏が追加したものだったので」)、「郷土史家の評価を書くなとは申しませんが」)。もう少し、記事の内容について質問されるのならば文面を考えていたほうが、こちらも気持ちよく対処できるのですけどね。
それは別に良いのですが、手元の文献で調べてみたところ、信君の「評価」というのはおそらくは勝頼からの「裏切り」をどう考えるかという意味であろうと思うのですが、最近の文献ではあまりこの部分に言及したものが見られません。小山田信茂であれば丸島和洋氏が国衆の立場から見た裏切りという行為を考察した指摘などがあるのですが。佐藤八郎氏が穴山氏について言及されている箇所は、おそらく『韮崎市誌』だろうと思います。そのうち当たってみようと思いますけど。
佐藤八郎氏は一般にはマイナーでしょう。しかし戦後の武田研究というのは山梨県や長野県などの郷土研究に収まっていたわけで、どの研究者であろうとマイナーと言えばマイナーです。そもそも史料集が満足に編さんされていなかったのですから、中央の名の知れた研究者もなかなか参入できませんし、郷土研究者の独壇場という時期がありました。だからといって、郷土史家でマイナーな研究者だからといって、信頼性に疑問のあるとは言いがたいと思うのですが。ただ、別の話ですが佐藤氏は漢学などに通じた古典的教養人の研究者で、方法論的な問題点も指摘されていることはあります。本当にそれは別の話ですが。--でここ会話2015年7月31日 (金) 12:22 (UTC)[返信]
もし、私がでここ氏が指摘されるような認識であれば、わざわざ履歴なんて遡らず、佐藤八郎に{誰}タグを張って、1週間経っても出典が無ければ削除してます。
そもそも私がマイナーな研究者だから信頼性に疑問があると考えてるなら出典があろうと記述に反対するはずです。問題はマイナーで人物情報が出てこないから、果たして佐藤八郎氏なる人物は信頼に値する人物か測ることができないことです。この質問を投げた時は推定レベルでまだ山梨の郷土史家であるという確証すら無かったのですから(郷土史家であるから信頼性がないのではなく、郷土史家であることすらわからないから信頼性に疑問が出てきてしまうのです)。
私は郷土史家の価値を認めてるからこそ、わけのわからん奴が出典不備や評価者の信頼性を挙げて記述を除去するのを恐れて、でここ氏に知らせにきたのです。--EULE会話) 2015年7月31日 (金) 17:01 (UTC)一部追加:INSタグ--EULE会話2015年7月31日 (金) 17:29 (UTC)[返信]
そうですか。了解しました。佐藤八郎の執筆を含めて、前向きに検討します。佐藤八郎氏はマイナーとはおっしゃられますが、雄山閣本の『甲斐国志』の校訂者として、武田研究や山梨県郷土史研究の世界では、かなり知名度の高い人物です。一般に知られていないのはいたし方のないことでしょうけど。--でここ会話2015年8月1日 (土) 02:58 (UTC)[返信]

川中島の戦いについて[編集]

出典は長篠の戦いです。普通は出典タグを貼るものですが、いきなり取り消しとはどういうつもりでしょうか?しかも全く調べもせず。おそらく『甲陽軍鑑』すらお読みになったこともないんでしょうね。全く呆れる限りです。

出典は長篠の戦いですと言われても文意が不明で、何の記事にどういう問題点があるのかさっぱりわかりません。まずは何が問題なのか、はっきりと記してください。--でここ会話2015年9月24日 (木) 14:45 (UTC)[返信]

お願い[編集]

こんにちは。Ks aka 98と申します。

お知らせ・お願いしたいことがありますので、一時的にでもウィキメールを送れるよう、アドレスを登録していただけますでしょうか。突然のお願いで恐縮ですが、よろしくお願いします。--Ks aka 98会話2015年10月30日 (金) 08:19 (UTC)[返信]

登録しました。どのようなご用件でしょうか。--でここ会話2015年10月30日 (金) 10:34 (UTC)[返信]

南部史要[編集]

こんにちは。

でここさんによる南部史要の編集についてお知らせします。

2015年6月15日 (月) 15:58時点における版 [1]が、出典不詳となっています。

ここで突然「伊藤(2014)、p.132」という注がつくのですが、なんの資料なのかがどこにも書かれていないのです。

そもそも、原敬の独特の歴史観というものが、南部史要にどう影響したかといった話もないので、原の経歴について触れる必要があるのかも疑問なのですが。

このままの状態もどうかと思いますので、特にレスポンスがなければ、差し戻すことになるだろうと予告しておきます。--Bellis会話2016年2月13日 (土) 11:23 (UTC)[返信]

伊藤之雄氏の『原敬』ですね。『南部史要』は原が主体的になって編纂された歴史書とのことですから、原がどういう政治家なのか略述して、そして原が編纂に関わった経緯やBellis様の指摘される原自信の歴史観や『南部史要』編纂との関わりなど、詳述できるのがベストであろうと思います。出典を確認しつつ著述したいのですが、いつになるかはわかりません。--でここ会話2016年2月13日 (土) 12:43 (UTC)[返信]
追記確認しました。早速の対応ありがとうございました。--Bellis会話2016年2月14日 (日) 01:27 (UTC)[返信]

年 ウィキメディア財団事務長採用に関する コミュニティアンケート[編集]

ウィキメディア財団の理事会は、財団の次期事務長の選出を一任するための委員会を設立しました。そして、私たち委員会の最初の任務の一つに、事務長の職務内容の記述があり、現在、ウィキメディアのコミュニティから意見を募っています。この簡単なアンケートにご協力いただくことで、私たちはコミュニティやスタッフのウィキメディア財団の事務長に対する期待をさらに理解できると考えています。 ご協力いただきましたこと、重ねてお礼申し上げます。

ウィキメディア財団事務長採用 運営委員会 via MediaWiki message delivery会話2016年6月1日 (水) 22:10 (UTC)[返信]

ウィキメディアンとしてのご経験とご意見をシェアする世界的調査[編集]

  1. ^ この調査では、ウィキメディア財団の現在の問題についてのご意見をお伺いするためのもので、長期的な戦略について論じるものではありません。
  2. ^ 法的事項: 購入の必要はありません。未成年者は参加できません。ウィキメディア財団 (149 New Montgomery, San Francisco, CA, USA, 94105) により後援されています。2017年1月31日に終了します。但し、禁止されている場所では無効。コンテストルールを参照するにはこちらをクリック

あなたのフィードバックが重要です:ウィキメディア財団のグローバル調査ご協力への最後のお願い[編集]

北富士演習場問題について[編集]

初めまして。北富士演習場の項目に同演習場問題について追記いたしましたので、よろしければ加筆・修正をお願いいたします。--4th protocol会話2017年10月8日 (日) 09:00 (UTC)[返信]

「近藤勇」について[編集]

こんにちは。標記の記事についてですが、「大石、2004」という文献を出典として大幅な加筆をなさったのは、でここさんではないかと拝察いたします(2015年4月30日 (木) 15:49の、でここさんの編集などから判断させて頂きました)。

ところが、参考文献節がなく、ハーバード方式で参照されている「大石、2004」という文献の記載が漏れており、出典表示が不備となっている模様です。

恐らく気が付いておられないものと拝察いたし、ご一報いたしました。参考文献節を追加して頂ければ幸いです。--Pooh456会話2020年6月8日 (月) 11:52 (UTC)[返信]