J・リー・トンプソン

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ジョン・リー・トンプソン
John Lee Thompson
生年月日 (1914-08-01) 1914年8月1日
没年月日 (2002-08-30) 2002年8月30日(88歳没)
出生地 イギリスの旗 イギリス ブリストル
死没地 カナダの旗 カナダ ブリティッシュコロンビア州
職業 映画監督
ジャンル アクション映画
サスペンス
ホラー
活動期間 1950年 - 1989年
主な作品
ナバロンの要塞
 
受賞
ベルリン国際映画祭
国際映画批評家連盟賞
1957年ガウンの女
その他の賞
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ジョン・リー・トンプソンJohn Lee Thompson1914年8月1日 - 2002年8月30日)は、イギリス出身の映画監督

来歴[編集]

トンプソンはイギリスブリストルに生まれた。ドーヴァー・カレッジに入学後、彼は余暇を利用して犯罪劇の脚本の執筆を始めた。彼の作による“Double Error”が1935年ロンドンウェストエンドで上演されたのがきっかけとなり、ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズの脚本家として雇われることとなった。この間、キャロル・リード監督の“Midshipman Easy”(1935年)に出演したり、アルフレッド・ヒッチコック監督の『巌窟の野獣』(Jamaica Inn 1939年)の脚本顧問を務めた。

第二次世界大戦に従軍後、トンプソンは再び脚本家としてアソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチャー・コーポレーションで働くこととなった。1950年、彼はついに“Murder Without Crime”で映画監督デビューを果たす。しかし、この作品は無視されたといっていいほど誰からも評価されず、彼の監督作で最初に注目されたのは1953年の“The Yellow Balloon”であった。1954年の“The Weak and the Wicked”はジョーン・ヘンリーによる回顧録に基づいた作品であり、彼女は後にトンプソンの二番目の妻となった。

1950年代中期はサスペンスコメディミュージカル、社会派ドラマなど数多くのジャンルで演出を担当し、彼はしだいにイギリスで大きな評判をとるようになっていった。

そしてアレクサンダー・マッケンドリック監督の後任となって、メジャースタジオ製作のA級アクション大作『ナバロンの要塞』(The Guns of Navarone 1961年)を発表し、彼はハリウッドでも名声を得ることとなった。同作でトンプソンは第34回アカデミー監督賞にノミネートされ、作品自体も作品賞にノミネート。また大ヒットして低迷期にあったグレゴリー・ペックの復活作となるなど大きな話題となった。

ペックとは『恐怖の岬』(Cape Fear 1962年)、『マッケンナの黄金』(Mackenna's Gold 1969年)、『0の決死圏』(The Chairman 1969年)でも組んでいる。

『ナバロンの要塞』の後もアクション(『マッケンナの黄金』)、サスペンス(『恐怖の岬』)、史劇(『隊長ブーリバ』)といったさまざまなジャンルの作品を発表した。1970年代以降は『猿の惑星・征服』(Conqest of the Planet of the Apes 1972年)や『誕生日はもう来ない』(Happy Birthday to Me 1981年)といった、中規模のB級作品を手がけるようになったが、評価・興行成績ともに不振に終るものが多くなった。1980年代はチャールズ・ブロンソンと組みアクション映画を多数、監督したが、1989年の『禁じ手』(Kinjite: Forbidden Subjects)を最後に監督業から引退した。この晩年期のヒット作には全米初登場4位を記録した、チャック・ノリスルイス・ゴセット・ジュニア競演のバディ・ムービー『ファイアーウォーカー』(Firewalker 1986年)がある。

監督引退後もプロデューサーや技術顧問として映画製作に関わり続け、2002年8月30日カナダで休暇中に鬱血性心不全で倒れる。88歳という高齢で天寿を全うした。

主な監督作品[編集]

ナバロンの要塞』(1961年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]