黒田直養

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黒田直養
時代 江戸時代後期(幕末) - 大正時代
生誕 嘉永2年4月8日1849年4月30日
死没 大正8年(1919年11月29日
改名 程之助(幼名)、直養
戒名 隆祥院殿徳誠知見直養大居士
墓所 千葉県君津市久留里の真勝寺
官位 従五位下、筑後
幕府 江戸幕府
上総久留里藩
氏族 黒田氏
父母 父:黒田直古、母:満寿(松永氏)
養父:黒田直和
正室:堀直央の娘・清子
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黒田 直養(くろだ なおたか)は、上総久留里藩の第9代(最後)の藩主。久留里藩黒田家10代。

略歴

嘉永2年(1849年)4月8日、第5代藩主・直方の七男・直古妾腹の長男として江戸下谷邸で生まれる。

文久2年(1862年)閏8月25日、第8代藩主・直和養子となる。

慶応元年(1865年)5月1日、将軍徳川家茂御目見をする。同年12月25日、従五位下筑後守に叙位任官する。

慶応2年(1866年)4月2日、直和が病気を理由に隠居したため、家督を継いだ。

慶応4年(1868年)2月、第15代将軍・徳川慶喜上野寛永寺に謹慎したとき、榊原政敬と共にその警護を務めた。閏4月には新政府に恭順した。

明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により久留里藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職となる。

明治10年(1877年)6月2日、隠居し、子がなかったため、義妹の鏻子(れいこ、養父直和の次女)に家督を譲る。

後に鏻子は宗義和の六男・和志を夫に迎えて、黒田家を継承させている。

明治11年(1878年)6月10日に別家した。隠居及び別家は債務問題のためであった。

晩年は久留里で余生を送った。大正8年(1919年)11月29日に死去、享年71。

甥の宗武志(黒田和志の四男)は対馬府中藩宗家第37代当主で伯爵麗澤大学名誉教授