虫の音
虫の音(むしのね)とは虫の鳴き声のことである[1]。この項では、セミやコオロギ、キリギリスなどの昆虫の成虫が同種個体間でのコミュニケーションのために発する音、ならびにそれら虫の音を聞き分け、季節や情緒を感じ、鑑賞する文化についても述べる。
鳴く虫の種類と聴き做し
主な鳴く虫の種類と一般的な鳴き声を挙げる。虫の鳴き声を言葉で表すこと、またその言葉を聴き做し(ききなし)と言う。
よく知られる鳴く虫の種類として、コオロギ・キリギリスの仲間(バッタ目)と、セミの仲間がいる。
- バッタ目(直翅目)
- コオロギのうち、エンマコオロギは「コロリーコロコロリー」[2] 「コロコロリー」[3]と鳴く。
- スズムシは「リ゛ーー・リーーン・リーーン・リーーン」[2]「リーン・リーーン」[3]。
- マツムシは「チン・チロン」[2]「チッチルルッ」[3]。
- ツユムシは「ピチッ・ピチッ・ピッピピチッ」[2] 「ピチッ・ピチッ」[3]。
- キリギリスのうち、ニシキリギリスは「ギーース、ギーース、チョン!」[2] 「ギーッ!」を繰り返して[3]鳴く。
- クツワムシは「ガチャガチャガチャ」[2]、「ガチャガチャ・・・」[4] と鳴く。
- ウマオイのうち、ハタケノウマオイは「シッーチョ・シッーチョ」[2]「スイッチョ・スイッチョ」[3]と鳴く。
- セミ類
虫が鳴く目的
セミが鳴くには、大別して以下のような目的があるといわれている。
コオロギの仲間は鳴く目的には以下のようなものがある
虫が鳴く仕組み
- セミ
- セミは音を出すための発音膜を体内の左右に持っている。この発音膜は薄く、弾力があり、これが元の状態に戻ることによって音が出る。これとは別に鏡膜や腹弁と呼ばれる器官があるが、共鳴装置の一部に過ぎないため、これらを破壊しても音の調子が変わり、少し弱くなるだけである。一方で発音膜は針で突いた程度の穴が開いただけで音が出なくなってしまう。また、死んだセミでも発音膜に繋がる筋肉の柱をピンセットなどで振動させることによって、基本的な音を出すことができる[9]。
季節
- 気象庁は、植物の開花日や動物の初見日・初鳴日を記録する生物季節観測を行なっている。全国で観測する規定種目には、アブラゼミ、ヒグラシの初鳴日が含まれている[12]。また、地域ごとに観測する選択種目には、ハルゼミ、エンマコオロギ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、クマゼミ、クサゼミの初鳴日が含まれている[13]。
産業
日本
18世紀末ごろ、キリギリス、マツムシ、スズムシ、クツワムシ、セミなどをかごに入れて売る「虫売り」という商売があった[15]。主に屋台において行われ、売り歩くことは少なかった[16]。そのころより人工飼育法として、甕の中の土に産卵させ暖かい部屋に置くことで早く孵化させていた。これらは「あぶり」と呼ばれ高値で売買された[17]。また江戸の虫売りは36人に限定する法令が出され、江戸虫講とも呼ばれた[17]。
中国
2500年前の「詩経」には、すでにコオロギが鳴くさまが描かれており、天宝時代にはのちの賭博としての闘蟋(とうしつ)につながる文化の素地があった[18]。上海万商花鳥魚虫交易市場などでは、虫専門店で30種以上の虫が販売されている[19]。
母国語の違いによる虫の音の反応
1987年、東京医科歯科大学の角田忠信が学会に出席するためキューバのハバナに訪れた際に、学会前夜の歓迎会において絶えず聞こえている虫の音を意識して聞いているの自分だけだったことから疑問を持ち、同年、著書である『日本人の脳 脳の働きと東西の文化』において脳の左右半球の違いと日本人であるか非日本語人であるかによる違いがあるとし[20]、その後も右脳と左脳の役割が西欧人と日本人では異なり、日本人が虫の音などを言語半球優位として処理するのに対し、西欧人は非言語半球優位で処理するとしている[21]。他方、ジョン・キーツは「On the Grasshopper and Cricket」(1884)において、スズムシの声を好意的に描いており[22]、ギリシャ生まれのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「虫の音楽家」という随筆を残している。また、スズムシ、エンマコオロギ、ヒグラシ、キリギリスなどの虫の音は外国人、日本人双方から好意的な反応があったとする論文もある[23]。
文化
文学
きりぎりすは、松虫や鈴虫などとは異なり、「きりぎりす」という名称をそのまま掛詞にすることが難しく、その鳴き声の擬音語である「つづりさせ」に「綴り刺す」をかけて詠まれることがある。古今和歌集に六例、後撰集に二例のみで拾遺集には一例もない、これを始発と呼ぶ。きりぎりすが再び詠まれ出すのは転換期とされる。この後「きりぎりす」詠は、最も充実した発展期を迎える。その後は新古今時代読みぶりが継承されている[24]。
万葉集に登場する鳴く虫
- [歌番号]08/1552
- [原文]暮月夜 心毛思努尓 白露乃 置此庭尓 蟋蟀鳴毛
- [訓読]夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも
- [歌番号]10/2158
- [原文]秋風之 寒吹奈倍 吾屋前之 淺茅之本尓 蟋蟀鳴毛
- [訓読]秋風の寒く吹くなへ我が宿の浅茅が本にこほろぎ鳴くも
- [歌番号]10/2159
- [原文]影草乃 生有屋外之 暮陰尓 鳴蟋蟀者 雖聞不足可聞
- [訓読]蔭草の生ひたる宿の夕影に鳴くこほろぎは聞けど飽かぬかも
- [歌番号]10/2160
- [原文]庭草尓 村雨落而 蟋蟀之 鳴音聞者 秋付尓家里
- [訓読]庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり
- [歌番号]10/2264
- [原文]蟋蟀之 待歡 秋夜乎 寐驗無 枕与吾者
- [訓読]こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは
- [歌番号]10/2271
- [原文]草深三 蟋多 鳴屋前 芽子見公者 何時来益牟
- [訓読]草深みこほろぎさはに鳴くやどの萩見に君はいつか来まさむ
- [歌番号]10/2310
- [原文]蟋蟀之 吾床隔尓 鳴乍本名 起居管 君尓戀尓 宿不勝尓
- [訓読]こほろぎの我が床の辺に鳴きつつもとな起き居つつ君に恋ふるに寐ねかてなくに
- [歌番号]15/3617
- [原文]伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由
- [訓読]石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ
古今和歌集に登場する鳴く虫
- 00200
- [詞書]題しらす/よみ人しらす
- 君しのふ草にやつるるふるさとは松虫のねそかなしかりける
- 00201
- [詞書]題しらす/よみ人しらす
- 秋ののに道もまとひぬ松虫のこゑする方にやとやからまし
- 00202
- [詞書]題しらす/よみ人しらす
- あきののに人松虫のこゑすなり我かとゆきていさとふらはむ
- 00203
- [詞書]題しらす/よみ人しらす
- もみちはのちりてつもれるわかやとに誰を松虫ここらなくらむ
後撰和歌集に登場する鳴く虫
- 00251
- [詞書]題しらす/よみ人しらす
- 松虫のはつこゑさそふ秋風はおとは山よりふきそめにけり
- 00255
- [詞書]題しらす/つらゆき
- ひくらしのこゑきくからに松虫の名にのみ人を思ふころかな
- 00259
- [詞書]題しらす/つらゆき
- こむといひしほとやすきぬる秋ののに誰松虫そこゑのかなしき
- 00260
- [詞書]題しらす/つらゆき
- 秋ののにきやとる人もおもほえすたれを松虫ここらなくらん
- 00261
- [詞書]題しらす/つらゆき
- あき風のややふきしけはのをさむみわひしき声に松虫そ鳴く
- 00339
- [詞書]題しらす/よみ人も
- をみなへし草むらことにむれたつは誰松虫の声に迷ふそ
- 00346
- [詞書]題しらす/よみ人も
- をみなへし色にもあるかな松虫をもとにやとして誰をまつらん
拾遺和歌集に登場する鳴く虫
- 00181
- [詞書]題しらす/よみ人しらす
- 契りけん程や過きぬる秋ののに人松虫の声のたえせぬ
- 00205
- [詞書]題しらす/よみ人しらす
- とふ人も今はあらしの山かせに人松虫のこゑそかなしき
- 00295
- [詞書]廉義公家にて人人にうたよませ侍りけるに、く、むらのなかのよるのむしといふ題を/平兼盛
- ちとせとそ草むらことにきこゆなるこや松虫のこゑにはあるらん
俳句
小説
源氏物語
- 鈴虫
- 賢木
- 手習
半七捕物帳
- 虫売り、キリギリス、マツムシ、スズムシ、草雲雀(コオロギの一種)が文中に登場する。
能楽
- 謡曲「松虫」 - 古今和歌集仮名序の「松虫の音に友を偲び」や[26]、古今和歌集詠み人知らずの「あきののに人松虫のこゑすなり我かとゆきていさとふらはむ」などがモチーフとなっている。松虫の「松」が「待つ」を連想させるとされ[27]、詞章には「きりはたりちよう。つづりさせてふ蟋蟀(きりぎりす)茅蜩(ひぐらし)」[28]等、虫の音の表現がある。また白居易の「酒功賛」の引用や、男色の解釈も見られる[29][30][31][32]。
日本舞踊(京舞)
音楽
- 文部省唱歌の「蟲のこゑ(虫のこえ)」は、マツムシ、スズムシ、コオロギ(古語においてはキリギリス)、ウマオイ、クツワムシの音色をいわゆる「聞きなし」により表している。[34]
- ビートルズの「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」には、次曲「サン・キング」へのつなぎにコオロギの鳴き声が収録されている[35]。
- ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン〜英雄達の鎮魂歌」には、曲の前後にコオロギの鳴き声が収録されている[36]。
絵画
日本
-
江戸自慢三十六興 道灌山虫聞之図(歌川広重)
-
画本虫撰よりけらとはさみむし(喜多川歌麿)
-
画本虫撰より松虫と蛍(喜多川歌麿)
-
画本虫撰より馬追虫とむかで(喜多川歌麿)
名所
荒川区西日暮里の道灌山は、虫の音の名所として知られ、文人たちが楽しんだと言われている[37][38][39]。
大阪市阿倍野区松虫通の名前は謡曲「松虫」が由来と言われている[40][27]。
虫の音を楽しむイベント
兵庫県伊丹市では、毎年秋に市内中心部の旧郷町エリアにおいて鳴く虫と郷町というイベントを開催している。イベント期間中はエリアの施設や店舗に虫かごが置かれ、鈴虫など約15種3,000匹を展示し、虫の音を聞くことができる[41][42]。2015年の第6回「地域再生大賞」で優秀賞を受賞[43]。
脚注
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- ^ a b c d e f g 奥山風太郎『図鑑 日本の鳴く虫』エムピージェー、2018年8月8日。ISBN 9784904837672。
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- ^ a b c d e f g 高嶋清明『鳴き声から調べる昆虫図鑑』文一総合出版、2018年10月。ISBN 978-4-8299-8812-1。
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- ^ a b c 高嶋清明『鳴き声から調べる昆虫図鑑 おぼえておきたい75種』文一総合出版、2018年9月17日、6頁。ISBN 9784829988121。
- ^ 岡島秀治『こん虫のふしぎ 3 こん虫のことば』偕成社、2011年11月、18頁。ISBN 9784034145302。
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- ^ ジャン=アンリ・ファーブル『ファーブル昆虫記 第5巻 下』集英社、2007年、168~171頁。
- ^ 梅谷献二編著『虫のはなしⅡ』技報堂出版、19851025、64-70頁。ISBN 4-7655-4312-9。
- ^ 小田英智 松山史郎『自然の観察辞典●40鳴く虫観察辞典』今村正樹、2007年、5頁。
- ^ “デジタル大辞泉(コトバンク)”. 2019年10月28日閲覧。
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参考文献
- 林正美 佐藤有恒『セミの生活を調べよう』さ・え・ら書房、1984年6月。ISBN 4378038129。
- 高嶋清明『鳴き声から調べる昆虫図鑑 おぼえておきたい75種』文一総合出版、2018年9月17日。ISBN 9784829988121。
- 岡島秀治『こん虫のふしぎ 3 こん虫のことば』偕成社、2011年11月。ISBN 9784034145302。
- 高嶋清明『鳴く虫の科学』誠文堂新光社、2013年6月29日。ISBN 9784416113523。
- 花咲一男『大江戸ものしり図鑑』主婦と生活社、2000年。ISBN 9784391123869。
- 高橋幹夫『江戸あきない図鑑』青蛙房、2015年12月25日。ISBN 9784790508830。
- 瀬川千秋『闘蟋 中国のコオロギ文化』大修館書店、2002年10月10日。ISBN 4469231851。
- 奥山風太郎『図鑑 日本の鳴く虫』エムピージェー、2018年8月8日。ISBN 9784904837672。
- 小西正泰『虫の文化史』朝日新聞社、1977-21-20。