蘇我倉山田石川麻呂

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蘇我倉山田石川麻呂
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 大化5年3月25日649年5月15日
別名 蘇我倉山田麻呂、倉山田臣、山田臣、山田大臣
墓所 大阪府南河内郡太子町仏陀寺古墳/岐阜県各務原市蘇原宮塚町の伝蘇我倉山田石川麻呂の墓
官位 右大臣
主君 皇極天皇孝徳天皇
氏族 蘇我氏
父母 父:蘇我倉麻呂
兄弟 石川麻呂連子日向赤兄果安
興志法師赤猪遠智娘姪娘、乳娘、他、女子2人
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蘇我倉山田 石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわ の まろ)[1]は、飛鳥時代豪族。名称は「蘇我倉山田麻呂」「倉山田臣」「山田臣」「山田大臣」などとも。蘇我倉麻呂の子。官位右大臣蝦夷は伯父、入鹿は従兄弟に当たる。

経歴

藤氏家伝』によると、「剛毅果敢にして、威望亦た高し」と評される傑物であったとされている。

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿の誅殺を謀った際(乙巳の変)、共に計画に賛同。鎌足の案により、石川麻呂の長女を中大兄皇子にめあわせることになったが、契りのできた夜に、長女は一族の日向(身狭・身刺)に奪われてしまった。石川麻呂は憂え恐縮し、なすすべを知らなかったが、父の苦境を知った妹(遠智娘)がかわりに中大兄の妃となることで解決した、という。

入鹿の暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「の御前だからです」と答えた。入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「原文:韓人殺鞍作臣」)の韓人とは、朝鮮使を暗殺者たちと誤認したものと思われるが、先祖にその名を持つ蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。

その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、孝徳天皇により派遣された穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲したため、長男の興志ら妻子8人と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。

系譜

中大兄皇子の妃となった遠智娘は、大田皇女(伊勢斎宮となった大来皇女大津皇子の母)、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)、建皇子(夭逝)を、またもう一人の娘・姪娘御名部皇女(御名部内親王。高市皇子妃。長屋王の母)と阿閇皇女(後の元明天皇。草壁皇子妃)を産んでいる。

なお、石川麻呂の子孫は、石川氏を、のちに宗岳氏を名乗るようになる。蘇我氏の祖とされる蘇我石川宿禰は名前から見て、石川麻呂もしくはその子孫が創作した架空の人物であるとする説もある。

  • 大阪府南河内郡太子町仏陀寺古墳
  • 岐阜県各務原市蘇原宮塚町の伝蘇我倉山田石川麻呂の墓
  • 帯解黄金塚陵墓参考地舎人親王の陵墓とされていたが、2009年の発掘調査でそれよりも古い推古天皇から舒明天皇の時代のものとわかり、石川麻呂の墓所ではとの説がある[5]
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参照

  1. ^ 「蘇我倉山田石川麻呂」の姓・名の区分には文献により異同がある。
    • 「石川麻呂」を名とする文献:『日本人名大辞典』(講談社)、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本古代氏族人名辞典 普及版』(吉川弘文館)
    • 「麻呂」を名とする文献:『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)、『世界大百科事典 第2版』(平凡社)
  2. ^ a b 『日本書紀』孝徳天皇大化5年3月24日条
  3. ^ 『日本書紀』皇極天皇年正月1日条
  4. ^ 『日本書紀』孝徳天皇大化5年3月25日条
  5. ^ 大和の古墳探索 -帯解黄金塚古墳-
公職
先代
蘇我蝦夷(大臣)
右大臣
645 - 649
次代
大伴長徳