甲府徳川家

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徳川氏
(甲府徳川家)
家紋
丸に三葵[1]
本姓 清和源氏
藤原氏
賀茂氏
家祖 徳川綱重
江戸幕府第 3代 徳川家光の 3男)
種別 武家
出身地 武蔵国江戸
主な根拠地 甲斐国山梨郡板垣郷
凡例 / Category:日本の氏族

甲府徳川家(こうふとくがわけ)は、江戸時代大名。甲府宰相家。甲斐国甲府藩主家(甲府城主)。25万石(のちに35万石)徳川将軍家の一支系で、4代将軍家綱の弟綱重とその子綱豊(のちの将軍家宣)の2代を指す。単に甲府家ともいわれる。

近世甲斐国と甲府徳川家の成立

甲府徳川家は江戸幕府3代将軍徳川家光の三男・綱重を家祖とする。家格は親藩石高は25万石。

近世甲斐国天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡・本能寺の変による無主状態となり、天正壬午の乱を経て徳川家康が確保する。その後、豊臣政権時代には豊臣系大名が配置され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て甲斐一国が幕府直轄領となる。甲斐支配は甲府城代や四奉行・初期代官により行われた。慶長8年(1603年)には家康の子・五郎太(徳川義直)が、元和2年(1616年)には将軍秀忠の子である忠長が甲斐を拝領したが、いずれも自身は在国せず城代・代官衆によって在地支配が行われた。寛永9年(1632年)に忠長が改易されると甲斐は城番制(第二次甲府城番制)による支配となる。

慶安4年(1651年)、徳川綱重(左馬助)の兄・家綱が将軍職に就任すると、綱重は弟の綱吉(右馬助)とともに厨領として6か国で都合15万石を拝領し、この中に甲斐の所領が含まれる[2]寛文元年(1661年)に綱重は10万石を加増され甲府城を城地に賜り甲府藩が立藩された。ここに甲府徳川家は独立した大名となる。

甲府徳川家の所領と石高

将軍時代の徳川家宣
柳沢吉保

「甲府殿御領地割」(『山梨県史』資料編8近世1領主 - 645号)によれば、綱重領の内訳は府中領として甲斐巨摩郡山梨郡の14万石5000石、江戸屋敷地近郊で保持する鷹場のあった武蔵国羽生3万1000石のほか、駿河国に6000石、近江国に3万石、信濃国に3万7000石の飛び地があり、これら賄い領を合わせて都合25万石となる。

また、甲斐国には中世以来の土豪的性格を維持する旗本領が散在していたが、寛文元年に甲斐の旗本領は上知され、旗本らは関東各国に分散され居館も取り払われた。これは幕府による旗本の自立的性格を否定することを意図したものと考えられている[3]

甲府徳川家の廃絶

綱重は甲府に在国したことはなく、江戸桜田邸に居住したので「桜田殿」と通称された。甲府徳川家の甲斐支配は、家老衆に城番制時代の代官衆を加えて行われていた。綱重と綱吉は常に同等の加増や叙位叙任を経ており、綱重の甲府徳川家は綱吉の館林徳川家とともに両典厩(御両)として、御三家に次ぐ高い家格をもっていた。

延宝6年(1678年)に綱重が死去すると、綱重長男綱豊(徳川家宣)が二代藩主となる。綱豊も綱重と同様に甲府に赴くことはなく、御浜御殿に居住し「御浜御殿綱豊卿」と呼ばれた。宝永元年(1704年)、綱豊は五代将軍となっていた徳川綱吉世子となり、次いで将軍職を継承して江戸城西之御丸へ移る。ここに甲府徳川家は一度も甲府に入らないまま2代で絶家となり、甲府徳川家の家臣団は幕臣として再編成された。

一方、宝永元年(1704年)には甲府藩主に綱吉のいわゆる「側用人」を務めた武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)の柳沢吉保が甲府城と、甲斐:駿河国内の領地を合わせて15万石となる。翌宝永2年(1705年)3月12日には駿河の領地が甲斐に一元化され、さらに甲斐国内の谷村藩主・秋元氏が吉保の旧領川越藩に転封される。谷村藩の郡内領は幕府直轄領とした上で吉保の預地とし、甲斐は柳沢氏の一元支配となった。柳沢氏は享保9年(1724年)に大和国郡山へ転封され、以後甲斐国は幕末まで幕府直轄領となる。

なお、家宣の弟・清武越智松平家を起こし、この家は幾度の転封を経て石見浜田藩主となり、明治維新まで続いた。

甲府徳川家の家臣団と施策

新井白石

甲府徳川家の家臣団には間部詮房新井白石らがおり、書上には元禄8年9月『甲府様御人衆中分限帳』[4]、元禄16年8月宝永元年12月推定『甲府殿御分限帳』[5]、田安徳川家所蔵『甲府黄門侍郎様臣下録』[6]などがある。

甲府徳川家家臣団には内部紛争が多く、寛文元年(1670年)には、家老職の大田吉成(壱岐守)・島田時郷(淡路守)両名が綱豊継嗣を排除して綱重乱心を訴える綱豊継嗣事件が発生しており、大田・島田両名は家老職を解任され毛利家に預りとなっている[7]

甲府徳川家による甲府藩政期には寛文4年(1664年)から元禄年間に検地が実施されているが、甲府徳川家は課税強化を行い延宝2年(1674年)には甲府城番と代官側の抗争も発生している。万治元年(1660年)1月の甲府城下での大火後の復旧や甲府上水の整備、徳島堰をはじめ朝尾堰楯無堰など用水堰の開鑿による新田開発が実施された。

関係資料

甲府徳川家に関する家政・藩政史料などの文書群や日記類は綱豊の将軍就任に伴い幕府へ移管されたものと考えられており、その大半の所在は不明だが、部分的に山梨県内や国立公文書館内閣文庫に残されている。

甲府徳川家に関する日記類は享和3年(1803年)に勘定奉行中川忠英による筆写の「甲府日記」が部分的に伝存しているほか『甲府御館記』、『人見私記』などがあり[8]。江戸城の紅葉山文庫には『桜田御殿日記』468冊が架蔵されていたと言われるが[9]、その後江戸城は幾度かの火災に見舞われており、今日その原本の所在や実在は不明となっている。

歴代当主

  1. 徳川綱重
  2. 徳川綱豊(家宣)(徳川将軍家の世子に迎えられたため断絶)

参考文献

  • 斉藤司「甲府藩主徳川綱重・綱豊の政治」『山梨県史通史編3近世1』第一章第三節

出典・補注

  1. ^ 宗家と同じく甲府宰相家も使用三つ葉葵の項目参照
  2. ^ 『大猷院殿御実記』。
  3. ^ 深井雅海「甲斐国における旗本領の上地について」『徳川林政史研究所紀要』昭和50年度。
  4. ^ 山梨県立博物館寄託甲州文庫『甲府市史』資料編第二巻-108号。
  5. ^ 『甲斐叢書』7巻。
  6. ^ 『山資』8 - 646号。
  7. ^ 『甲府殿家老両人御預申渡覚』『山資』8 - 647。
  8. ^ 国立公文書館内閣文庫所蔵、『山資』8 には在地支配・家臣団に関する内容を中心に抄録。
  9. ^ 福井保執「江戸幕府日記」『国史大辞典』。