シャトー=ティエリ
Château-Thierry | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | オー=ド=フランス地域圏 |
県 (département) | エーヌ県 |
郡 (arrondissement) | 郡庁舎所在地 |
小郡 (canton) | 小郡庁舎所在地 |
INSEEコード | 02168 |
郵便番号 | 02400 |
市長(任期) |
ジャック・クラバル (2008年-2014年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes de la Région de Château-Thierry |
人口動態 | |
人口 |
14 794人 (2007年) |
人口密度 | 894人/km2 |
住民の呼称 | Castrothéodoricien/Castelthéodoricien |
地理 | |
座標 | 北緯49度02分 東経3度24分 / 北緯49.04度 東経3.40度座標: 北緯49度02分 東経3度24分 / 北緯49.04度 東経3.40度 |
標高 |
平均:m 最低:59m 最高:222m |
面積 | 16.55km2 (1 655ha) |
公式サイト | www.ville-chateau-thierry.fr |
シャトー=ティエリ (フランス語: Château-Thierry)は、フランス、オー=ド=フランス地域圏、エーヌ県のコミューン。レジオン・ドヌール勲章を授けられているまれなコミューンのひとつである。
地理
マルヌ川谷の中にある。川床から丘の上にかけて高度に都市化がされている。コミューンの地形は山がちである。
コミューン北部は(地方区分上で)ピカルディー、西部はイル=ド=フランス、東はシャンパーニュと接する。現在は行政上ピカルディー地域圏に属するが、フランス革命まではシャンパーニュ地方に属した。実際にシャトー=ティエリのたたずまいは、丘とブドウ畑の連なるシャンパーニュ地方のコミューンそのものである。マルヌ川谷は交通網の要所(パリ=ストラスブール間の鉄道と高速道路が通過する)である。
シャトー=ティエリ駅はトランジリアンのトランジリアン・パリ・エスト路線のターミナル駅である。加えて、TERヴァレ・ド・ラ・マルヌの路線駅でもある。エーヌ県南部とパリとを結ぶ路線が多くあり、県内有数の混雑する駅である。主要道はA4、D1などである。
由来
5世紀以降、オトムス(Otmus)と呼ばれていたのが最古の地名の記録である。オトムスとは、エーヌ県南部の地方であるオモワ地方(le Pays de l'Omois)に由来している。718年には城の周りにコミューンが成長し、シャトー=ティエリの名が現れる前はカストルム・ティデリシ(Castrum Tiderici)またはカストルム・テオドリック(Castrum Theodoric)と呼ばれていた。1793年に始まる恐怖政治時代には、エガリテ=シュル=マルヌ(Égalité-sur-Marne)と改名させられていた。
歴史
文明化の最古の記録は、鉄器時代の墓の跡である。ローマ時代、マルヌ川やソワソン=トロワ間の道路が横断する利点を生かして地方第2の町であった。
732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでアラブ軍を退けたカール大帝は8世紀以降にシュヌー谷を見下ろす山地に定住した。彼はこの場所に宮殿や農場を建設した。721年には即に自分のものとなる城の建設をしようと思い立った。そこがブリュンヒルド王妃によって修繕が行われたローマ街道の重要な位置であったからである。シェル修道院にいるダゴベルト3世の子で、ティエリと呼ばれる若い王子が見出された。即位後彼はテウデリク4世(ティエリ4世)と名乗った。若い王は王国の中枢を占める人々に疎まれ、要塞に閉じ込められた。これがコミューンの起源である。彼は737年に23歳で死去した。
877年、カール大帝の下でつくられたシャトー=ティエリ伯領はルイ2世によってヴェルマンドワ伯エルベール2世に与えられた。シャトー=ティエリは一時ラウール王に奪われるが、938年にエルベール2世が死ぬまで領有した。
10世紀半ばにトロワ伯がシャトー=ティエリを軍事的要所として適用し、彼の子孫が11世紀終わりまで領有した。12世紀にシャトー=ティエリ一帯がシャンパーニュ伯領となった。ティボー4世伯はマルヌ川の流れを戻した上でコミューンを城壁で覆い、サン=ジャック砦を築いて防衛の柱とした。ルイ7世に対して起こした戦争によってシャトー=ティエリ周囲は王軍に荒らされ荒廃した。
ティボー6世がシャトー=ティエリに邸宅を構えていたにもかかわらず、コミューンの憲章が授けられたのは1231年である。
1304年にフランス王妃ジャンヌ・ド・ナヴァールが建設させたシャトー=ティエリ病院は、現在も病院として機能している。
1544年、シャルル5世が略奪を行った。フランス革命まで、シャンパーニュ地方に属した。
シャトー=ティエリは、第一次世界大戦中の1918年にアメリカとドイツが交戦した地で、前線が置かれた。第二次世界大戦中の1940年にもフランス遠征の舞台となった。
統計
シャトー=ティエリの人口は相対的に高齢者が多く、全人口の約22%を占めている。
みどころ
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サン=クレパン教会
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旧シャトー=ティエリ病院のファサード
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ボラン塔