コンテンツにスキップ

横岳頼房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2022年10月17日 (月) 14:36; Kusunose (会話 | 投稿記録) による版 (曖昧さ回避: 養父郡養父郡 (佐賀県), 蓮池城蓮池城 (肥前国))(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
 
横岳頼房
時代 室町時代
生誕 生年不詳
死没 文安元年 1444年12月23日[1][2]
改名  
別名 孫次郎、
戒名 法名:本孝
主君 少弐満貞嘉頼教頼
氏族 横岳氏
父母 父:少弐貞頼
横岳資貞房貞
テンプレートを表示

横岳 頼房(よこだけ よりふさ)は、室町時代武将少弐氏の重臣。横岳氏の祖である。肥前西島城の城主。

略歴

[編集]

少弐氏10代当主の筑前豊前守護少弐貞頼の子として誕生する。兄は、少弐氏11代当主の筑前守護少弐満貞。頼房は筑前大宰府の横岳に居住して横岳を名乗り、横岳氏の祖となる。

永享元年(1429年)に大内盛見室町幕府6代将軍の足利義教に拝謁した。室町幕府は筑前を御料所に定め、盛見は筑前の代官に任命された。筑前守護を失った頼房の兄の少弐満貞と豊後守護大友持直は大内盛見と戦い、永享3年(1431年)に敗死[3]させた。

当時、幕府は九州探題渋川氏を置いていたものの実力がなく、九州の支配を大内氏に依存していた。『看聞日記』によると、幕府は大内盛見の討死に驚き、永享5年(1433年)に盛見の甥の大内持世に少弐、大友の追討令を下して九州に下向させた[4]。満貞は持世と戦い、筑前秋月城で自刃し、満貞の子の資嗣は、肥前与賀荘まで逃れたが討死した。

兄の死後、頼房は資嗣の弟で年少の嘉頼教頼とともに対馬守護の宗貞盛を頼って逃れた。『北肥戦記』によると、頼房は永享5年の冬に東肥前に潜伏していた。翌、永享6年(1434年)正月に高木胤秋千葉介胤鎮龍造寺家季於保宗親小田貞光馬場資幸江上常種姉川友安らと、一族の出雲筑紫朝日などと一味同心した。

頼房は九州探題渋川満直[5]と肥前神崎で戦い、満直を敗死させて探題の残党を退治して東肥前を領有した。その後、頼房は少弐氏の代官[6]として三根郡に移住し、文安元年(1444年)頃までに三根郡の拠点として西島城を築いた。

頼房に同心した一族・国人

[編集]

肥前国

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『肥陽諸系図』によると、文安元年十二月廿十三日卒
  2. ^ 異説あり。三根町史編さん委員会『三根町史』三根町、1984年。p.197~199によると、1445年に頼房が菩提寺である光浄寺で祈祷を行っているため、存命と考えられ確定しがたい。
  3. ^ 満済准后日記』によると、大内盛見、大友持直少貳満貞ト筑前萩原ニ戰テ敗死ス
  4. ^ 『満済准后日記』によると、幕府軍旗ヲ大内持世ニ賜ヒ、大友持直少貳満貞ヲ撃タシム
  5. ^ 『渋川氏系圖』によると、筑紫探題澁川満直、少貳満貞ノ弟横岳頼房ト肥前神崎ニ戰テ敗死ス
  6. ^ 『北肥戦記』によると、頼房頓テ東肥前ヲ領知シ。文安ノ末ニ居タリ。少貳ノ代官ト稱シテ。三根郡ヘ移住シテル。
  7. ^ 『海東諸国記』によると、この頃千葉氏は最盛期で肥前国主と呼ばれていて、小城は国府と称されている。

出典

[編集]
  • 満済准后日記
  • 看門御記』(看聞日記)
  • 『渋川氏系圖』
  • 『北肥戦記』(九州治乱記)
  • 海東諸国記
  • 佐賀県教育委員会『佐賀県の中近世城館 第2集 各説編 1 (三養基・神埼・佐賀地区) 』佐賀県教育委員会、2013年3月、16~20頁。
  • 三根町史編さん委員会『三根町史』三根町、1984年。
  • 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年、171~173頁。