西島城 (肥前国)

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西島城
佐賀県
城郭構造 平城
築城主 横岳頼房
築城年 文安元年(1444年
主な城主 横岳氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、堀
指定文化財 なし
横武城(現:佐賀県神崎市横武の横岳クリーク公園)
横武城・横武環濠集落跡 (現:横武クリーク公園)佐賀県神埼市神崎町横武にあり、現在では公園として整備されている。環濠集落としての遺構が残っている。

西島城(にしじまじょう)は佐賀県三養基郡みやき町西島にかつて存在した

概要[編集]

筑後川に面した場所には筑紫平野には古代より、溝渠(クリーク)と呼ばれるに囲まれた数多くの環濠集落が存在していた。平安時代中期以降は、その地の豪族が各自の館を中心とする農村集落の内外を溝渠(クリーク)で囲み、環濠集落を築いている。 

西島城は、その環濠集落の一つで室町時代横岳氏により整備された溝渠(クリーク)発達地帯の平城である。中世の筑後川は城から1キロほどを蛇行しているため、川を防御に利用した水城でもあるともいえる。本丸は周囲よりも高く、水害時にも冠水することはないという。西島城の遺構で現存するのは、堀のみである。

なお横岳氏の築いた城で遺構が残っている城として、横武城(現:横武クリーク公園)がある。西島城もこのような環濠集落を城に整備した平城であったと推測される。

平安・鎌倉時代[編集]

この地の豪族である西島氏が、佐賀県三養基郡みやき町西島に環濠集落を築いて拠点とした。

室町・戦国時代[編集]

室町時代の文安元年(1444年)に、少弐一門の横岳頼房三根郡の拠点として西島の環濠集落を徐々に整備して、西島城の城郭を築いた。

明応6年(1497年)に、少弐政資大内氏渋川氏の軍に敗れて自刃した。政資の遺児の少弐資元は幼少だったので、少弐氏庶流の横岳資貞に西島城にて保護された。

永禄2年(1559年)の少弐冬尚龍造寺隆信に敗れて、自刃して少弐氏は滅亡した。その後、北部九州の最大勢力の大友氏は少弐家再興を大義名分として、冬尚の弟である少弐政興を立てた。永禄6年(1563年)以降、龍造寺隆信は横岳鎮貞の守る西島城を攻めるが、失敗している。天正3年(1575年)に龍造寺氏に降った。

参考文献[編集]

  • 佐賀県教育委員会『佐賀県の中近世城館 第2集 各説編 1 (三養基・神埼・佐賀地区) 』佐賀県教育委員会、2013年3月、16~20頁。
  • 佐賀市史編纂委員会編『佐賀市史 第一巻』佐賀市、1977年 48~56頁。インターネット閲覧先:佐賀市史:第一巻(昭和52年7月29日発行)、【地理的環境】三 佐賀平野の水誌”. 佐賀市. 2020年4月21日閲覧。
  • 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年、171~173頁。

関連項目[編集]