清河純一
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清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1月7日 - 1935年(昭和10年)3月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
清河公廉の長男として大阪[1]・堺に生まれる。本籍鹿児島県。北野中学校7期生。1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間」分隊長として出征する。黄海海戦後、第1艦隊参謀に抜擢され日本海海戦を経て連合艦隊参謀となる。1907年12月、海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。
→詳細は「海軍大学校卒業生一覧 § 甲種5期」を参照
伏見宮博恭王付武官、「音羽」副長、横須賀予備艦隊参謀、軍令部参謀、兼東伏見宮依仁親王付武官、海大教官、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第1課長)、兼参謀本部員、欧米出張、国際連盟海軍代表随員、ワシントン軍縮会議随員などを歴任し、1922年12月、海軍少将に進級。
さらに、国際連盟海軍代表、海大教官などを経て、1926年12月、海軍中将となり、第5戦隊司令官、鎮海要港部司令官、舞鶴要港部司令官などを歴任し、1931年3月、予備役に編入された。
長女は岩崎久弥(三菱財閥の3代目総帥)の三男・恒弥(元東京海上火災保険常務)に嫁いだ[2]。
栄典
- 1900年(明治33年)2月20日 - 正八位[3]
- 1901年(明治34年)12月17日 - 従七位[4]
- 1903年(明治36年)12月19日 - 正七位[5]
- 1908年(明治41年)12月11日 - 従六位[6]
- 1914年(大正3年)1月30日 - 正六位[7]
- 1918年(大正7年)1月30日 - 従五位[8]
- 1922年(大正11年)12月28日 - 正五位[9]
- 1926年(昭和元年)12月28日 - 従四位[10]
- 1931年(昭和6年)4月15日 - 正四位[11]
脚注・出典
- ^ “清河 純一 プロフィール”. コトバンク(出典:日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊). 2018年3月24日閲覧。
- ^ 佐藤朝泰『門閥 旧華族階層の復権』岩崎家(262-263、272-273頁)立風書房 1987年4月10日第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2
- ^ 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
- ^ 『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
- ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
- ^ 『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
- ^ 『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
- ^ 『官報』第14号「叙任及辞令」1927年1月17日。
- ^ 『官報』第1317号「叙任及辞令」1931年5月23日。