コンテンツにスキップ

ジョン・F・フィッツジェラルド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。侵入者ウィリアム (会話 | 投稿記録) による 2021年12月8日 (水) 19:12個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Silllypathy (会話) による ID:86844547 の版を取り消しLTA:KOIZUMI、人物記事の学歴職歴情報に虚偽内容を加筆する長期荒らし)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ジョン・F・フィッツジェラルド

ジョン・フランシス・フィッツジェラルドJohn Francis Fitzgerald, 1863年2月11日 - 1950年10月2日)は、アメリカマサチューセッツ州ボストン出身の政治家。アイルランド系アメリカ人。アメリカ合衆国連邦下院議員を2期、1906年から1908年1910年から1914年までの2期にわたってボストン市長を務めた人物で、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディの母方の祖父にあたる。彼は“Honey Fitz”(ハニー・フィッツ)という愛称で呼ばれた。

背景

ジョン・F・フィッツジェラルドの父トーマスはアイルランドリムリック県の出身で、母ロザンナは同じくアイルランドのキャバン県出身者であった。ジョンは12人兄弟の4番目の子供として生まれたが、健康に育ったのはジョンを含めて3人だけだった。母はジョンが16歳の時に亡くなり、父は「これまでフィッツジェラルド家を苦しめてきた病気など、将来の苦難に備えさせるため」息子が医師になることを希望した。ジョンはボストン・ラテン・スクールを経て1885年5月、ボストンカレッジを卒業した。1885年5月、ハーバード・メディカルスクールハーバード大学医学大学院)に入学したが、(彼が医師になることを望んだ)父が1885年に死去したため、1年足らずで医学大学院を中退し、民主党の政治家に転身した。1889年9月18日、ジョンはメアリー・ジョセフィン・ハノンと結婚する。妻との間には6人の子供が生まれ、長女のローズ・エリザベス・フィッツジェラルドから、後のジョン・F・ケネディ大統領が誕生した。

政治経歴

フィッツジェラルドは1891年にボストン市議会議員となり、1892年からマサチューセッツ州上院議員に就任した。1894年にマサチューセッツ州第9区からの合衆国下院議員に選出され、1895年から1901年までこの職にあった。1906年、第38代ボストン市長に選ばれ、前任者ダニエル・A・ウェルトン(1872年 - 1953年)の後を引き継いだ。1908年の市長選挙ではジョージ・A・ヒバード(1864年 - 1910年)に敗れて再選を逃したが、1910年の選挙でヒバードを僅差で破って返り咲き、1914年まで第40代市長を務めた。

当時のボストン政界では、民主党勢力としてフィッツジェラルドとパトリック・J・ケネディが主要な勢力を握っていた。1914年に、パトリック・J・ケネディのひとり息子であるジョセフ・P・ケネディと、フィッツジェラルドの長女ローズ・フィッツジェラルドの結婚が実現し、両家は親族関係に入った。この結婚により、1917年5月29日にその名を受け継いだジョン・フィッツジェラルド・ケネディが次男として誕生した。

ボストン市長を退任後、ジョン・F・フィッツジェラルドは再び合衆国下院議員を務めた。この時はマサチューセッツ州第10区からの選出で、1919年3月4日から1923年10月23日まで在職した。晩年は娘の家族のために、実業家の仕事にいそしんだ。

1950年10月2日、ジョン・フランシス・フィッツジェラルドはボストンにて87歳で没した。その墓はボストン市内のセント・ジョーゼフ墓地にある。

外部リンク