山田東次
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山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7月31日) - 明治32年(1899年)12月18日)は明治期の政治家、法学者、教育者。衆議院議員、法典調査会委員、和仏法律学校(現法政大学)理事。
略歴
[編集]- 1858年(安政5年)6月21日、相模国(現神奈川県)鎌倉郡小阪村の山田林之助の長男として出生する。
- 1881年(明治14年)、上京し、神奈川県出身の学生のための寮・静修館に入る。
- 1885年(明治18年)、東京法学校(第1回卒業生、現法政大学)を卒業する。
- 1886年(明治19年)、『法律経済新報』『法律応用雑誌』を創刊し編集責任者になる。
- 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第4区から出馬し、当選。
- 1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙に当選。
- 1893年(明治26年)、法典調査会の委員に就任(私立法律学校出身者では唯一人)。
- 1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に当選。
- 1898年(明治31年)、和仏法律学校の理事に就任する。
- 1899年(明治32年)12月18日、病のため療養先の湘南鵠沼にて死去。享年42。
人物
[編集]東京法学校卒業後、同校主幹の薩埵正邦の助手として法学教育に携わり、高崎法律学校(1886年(明治19年)開校)に薩埵と毎週交代で出講している。
また、中央法学会において法律雑誌を出版し、法学の啓蒙・教育活動に努めている。
その後、自由党系衆議院議員として活躍し、法典調査会委員に私立法律学校出身者として唯一人就任している。
民法典論争では断行派に立ち、宮城浩蔵・小笠原貞信らとともに「民法中一部延期ニ関スル法律案」を提出し、延期派に対して最後の抵抗を示している。
第4回衆議院議員総選挙には出馬せず、和仏法律学校の理事に就任し、母校の発展・運営に尽力している。
著書
[編集]山田東次著『法律応用問答』東京法学社、1886年9月。
参考文献
[編集]- 木戸照陽 『日本帝国国会議員正伝』 田中宋栄堂、1890年
- 法学セミナー670号(55巻10号)(日本評論社)