雨山

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雨山
Ameyama (Kumatori, Osaka)1.jpg
標高 312 m
所在地 日本の旗 日本 大阪府泉南郡熊取町
位置 北緯34度22分05秒
東経135度21分57秒
座標: 北緯34度22分05秒 東経135度21分57秒
山系 和泉山脈
雨山の位置
Project.svg プロジェクト 山
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雨山(あめやま)は大阪府泉南郡熊取町に位置する、標高312mの和泉山脈の前衛的存在のである[1][2]

解説[編集]

雨山は、その名の通り、雨乞いの山として古くから信仰を集めてきた山である。その山頂には雨山神社(雨山龍王社)が鎮座し[2][1]、そこへ、日照りなどでの旱魃の時に麓の村人が雨乞いのために登ったという[1]。現在でも毎年9月1日に雨山山麓の熊取町成合地区では「八朔」という行事が行われているということであり、その伝統は確実に麓地域の文化として根付いている[1]

南北朝時代には山城があったことが確認されており、現在でも当時の城跡を確認することも可能である[2]。この城は雨山城と呼ばれており、紀州泉州の間を結ぶ粉河街道(現在の大阪府道・和歌山県道62号泉佐野打田線)をおさえる山城として南朝方、北朝方双方いずれにも戦略上重要なであった為、北朝と南朝の間で争奪戦が繰り広げられた[3]。現在も月見亭・千畳敷・的場・馬場跡と呼ばれる場所が残っている[3]

また、現在、熊取町側の山腹は永楽ダム等とともに、奥山雨山自然公園に指定されている。

雨山神社
雨山山麓の様子
雨山山内の展望が開ける地点 月見亭
月見亭からの眺め

雨山城[編集]

雨山城は、1346年に、楠木氏の一族の橋本正高が築いたとされる南朝方にとって泉州地方の拠点となった山城である[3]。1388年には、南朝方の広橋経泰らが兵を起こし、雨山城に籠城したものの、北朝方の山名義理の攻めにより落城した[4][5][3]。その後は和泉山脈の南側にある根来寺根来寺衆の拠点となった時期もあり、豊臣秀吉根来・紀州攻めの際には、根来寺衆側が防衛線を岸和田城の南、近木川沿いに設け、在地の武士勢力と根来寺の寺院勢力が合体して、この城にも籠もったとされている[5][4]。最終的には1617年に城郭そのものが破却されたと伝えられている[3][5][4]

南北朝期[編集]

雨山城は元々、紀州と泉州を結ぶ粉河街道をおさえる事を目的に楠木氏の一族の橋本正高が築いた山城であり、泉州北部の宮里城と並んで南朝方にとっては紀泉国境の防衛線の基幹部分として非常に重要な山であった[3][6]。1347年、北朝方の命を受けて、和泉国守護に就任した高師泰は、雨山の麓、熊取荘に隣接する日根野荘の在地の武士であった日根野時盛にこの城の固めを命じた[7]。この後、足利尊氏足利直義兄弟の骨肉の争いから高師泰は左遷され、南朝方が勢力を盛りかえした結果、1353年に、再び南朝方の橋本正高の手に渡った[5]

その後、橋本正高は1352年に北朝方の日根野氏から土丸城を奪取し、城郭を整備すると共に自らの勢力の拡大もししていったものの、城は足利義満の軍の攻撃を受けて落城し、更に、正高自身も1380年に高名里で戦死したと伝えられている[4]

脚註[編集]

  1. ^ a b c d 雨山 (熊取町ホームページ)
  2. ^ a b c 雨山 (YAMAKEI ONLINE 2013年2月25日閲覧)
  3. ^ a b c d e f 府内の史跡公園等の紹介【雨山城跡】大阪府教育委員会事務局 文化財保護課 文化財企画グループ)
  4. ^ a b c d 『大阪府史』第四巻
  5. ^ a b c d 『城郭大系』
  6. ^ 『城郭大系』
  7. ^ 『城郭大系』