豊島一

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豊島 一
とよしま はじめ
Hajime Toyoshima.jpg
渾名 南忠男
生誕 1920年3月20日
日本の旗 日本香川県三豊郡勝間村
死没 1944年8月5日(満24歳没)
オーストラリアの旗 オーストラリアカウラ
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1938年 - 1944年
最終階級 三等飛行兵曹
墓所 三豊市高瀬町(戒名:誠忠院釋乗居士)[1]
カウラ日本庭園
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豊島 一(とよしま はじめ、1920年(大正9年)3月20日 - 1944年(昭和19年)8月5日)は、日本海軍軍人戦闘機搭乗員。最終階級は三等飛行兵曹。第57期普通科信号術練習生、第7期飛行練習生卒業。

第二次世界大戦でのオーストラリアにおける日本兵捕虜第一号であり[2][3]カウラ事件の中心的人物でもある。

経歴[編集]

香川県三豊郡勝間村三豊市高瀬町)出身[4]。農家、豊島元兵衛とコマツの三男として生まれる。勝間尋常小学校(現三豊市立勝間小学校)、高等科、青年訓練所を経て戦闘機搭乗員を志し[5]1938年(昭和13年)、佐世保海兵団に入団。普通科信号術練習生、長良乗組、陸戦隊、千歳加賀乗組を経て、第五十六期操縦練習生に合格。第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)空母「飛龍」航空隊の所属となった[6]

1942年(昭和17年)2月19日南雲忠一中将率いる第一航空艦隊ポート・ダーウィン空襲英語版を実施する。この日、空母「飛龍」から発進した攻撃隊の機数は、零式艦上戦闘機9機、九九式艦上爆撃機17機、九七式艦上攻撃機18機であった[7][2][8]戦闘詳報によれば、豊島は零戦隊第1小隊(小隊長:熊野澄夫大尉[9])3番機(零式艦上戦闘機二一型、製造番号5349、機体番号はBII-124[8][10])として午前6時30分(オーストラリア現地時間午前8時30分)ごろ発艦した。

高度5000メートル東飛行場滑走路上の航空機を機銃掃射にかかる直前[11]の午前8時15分~20分ごろ、東部パーリマー高射砲隊前[12]からの砲弾の破片がエンジンオイルのタンクを貫通してエンジントラブルを起こした。豊島は友軍に別れを告げると、8時30分ごろ飛龍に「我死スメルヴィル島ノ中央密林中」との打電を撃ち、メルヴィル島のスネーク湾に不時着した[10]。本国からは自爆・戦死と認定され[13]一等水兵から三等飛行兵曹へと一階級特進[14]

右目上の裂傷のみですんだ[8]豊島は、すぐさまその場から離れ逃走を図ったが、24日現地のアボリジニに捕まり、豪軍工兵隊第23中隊のレスリー・パウウェル軍曹に引き渡された。捕虜番号はP.O.W.J.910-1[15]

この零戦は連合国側にとって最初の鹵獲機であったが、機体の損傷が甚だしく、完全な機体を入手するには半年後のアクタン・ゼロを待たなければならなかった。

「南忠男」として[編集]

豊島はメルヴィル島から遠く離れた南オーストラリア州アデレード近郊の民間の在豪邦人を対象としたラウディ収容所に拘留された。しかし入所して一週間たった時、馬で飛行場まで強行突破し飛行機を強奪する脱走騒ぎを起こしたが、飛行場まで辿り着く前に捕縛された[16]。その後、シドニーの西方約600キロにあるやはり民間の在豪邦人を対象としたヘイの収容所に移された。収容所での生活は一日8時間で、道路の補修作業やまき集め、策を作ったり牛馬の糞を集めたりと過酷なものではなかった[17]

ヘイ収容所には他の日本兵捕虜も収容された。同年2月15日、索敵中に交戦し不時着した東港空大艇隊所属97大艇搭乗員の高原希国一飛曹(偽名:高田一郎)、古川欣一二整曹(同:山下清)、沖本治義一飛曹(伊野治)、天本三整曹(天野)、平山一飛曹(平田)の5名[18]、その次は台南航空隊エースパイロット柿本円次二飛曹だった。このように、当初の捕虜は豊島と同じ海軍パイロットが中心だった。

豊島は「南忠男兵曹長」を名乗り[2][8]、乾燥したオーストラリア特有の空気から扁桃腺炎に悩まされ幾度となく入退院を繰り返したものの[19]、英語を習得して豪軍側との交渉役となり、彼ら日本兵捕虜のリーダー的存在になった。

カウラ事件[編集]

起因[編集]

やがて戦争の長期化に伴い、捕虜の数は圧倒的に増加した。ヘイの収容所は手狭となり、軍の捕虜はまとめてカウラに移されることとなった。カウラでの生活も過酷なものではなく、むしろきわめて人道的な扱いがなされた。だが、そのような待遇は捕虜達に心理的な葛藤を生み出した。

「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれてきた捕虜たちにとって、こうして捕虜となることは本来許されるものではなく、それどころか収容所での人道的待遇は生きる事の価値をも感じるようになっていった。郷里へ返ろうにも帰れず、かといって帰化する事も出来ない。こうしたジレンマに加え、戦局が日々悪化していく事実は現地の新聞から読み取れていた。捕虜達は、居場所を失った以上、自分達の手で手を付けなければならないと感じるようになった[17]

また当初、前述の通り海軍が中心だった捕虜は、当然ながら陸軍の一般兵士が圧倒的に多くなった。これに伴い、陸海軍の主導権争いが起こるようになった。

当時、捕虜のまとめ役である団長の豊島のみならず、副団長ら捕虜のリーダー陣はいずれも海軍の出身だったが、少数派である海軍が首脳権を握っている事に不満を持った陸軍は選挙を提案。結果新たに陸軍の団長、副団長が選定された。しかし、豪州軍側との交渉は古参である海軍側が有利であり、新リーダーらは戦陣訓を持ち出してことさらに自分たちの権威を示そうとしたが、実質的な権限は依然として豊島ら海軍古参者の手に残されていた[20]

経緯[編集]

1944年8月、カウラの収容人数が大幅に定員オーバーしたために、将校・下士官を除く兵士を、400km西に位置するヘー(Hay, ニューサウスウェールズ州)の捕虜収容所に移すことが計画された。これに対し兵士と下士官は不可分とする一部の強硬派が激高、これを“契機”として捕虜収容所からの脱走を持ち出した。他の捕虜らも次第にこうした声に従うようになり、投票で脱走に同意。豊島もこうした動きを抑えられず、脱走の指導者に持ち上げられた。

8月5日午前1時45分、豊島はキャンプの門へ走り、警備に叫んだ後、ラッパを吹き鳴らした[2][3]。これを合図に、捕虜らは一斉に脱走を開始した。

この中で豊島は銃撃を受けて倒れ、喉を掻き切って自決した[21]。享年25。

現在、このラッパはオーストラリア戦争記念館に展示されているほか、オーストラリア航空歴史センター(Australian Aviation Heritage Centre)には豊島が不時着時搭乗していた機体の胴体部や残骸から採られた各種パーツが展示されている。

年譜[編集]

  • 1938年(昭和13年)6月1日 - 佐世保海兵団入団、四等水兵、第57期普通科信号術練習生
  • 1939年(昭和14年)
  • 1940年(昭和15年)
    • 4月 - 支那事変従軍の功により叙勲八等[1]
    • 5月14日 - 加賀乗組
    • 6月22日 - 第五十六期操縦練習生
    • 6月26日 - 筑波海軍航空隊附
    • 9月28日 - 百里原海軍航空隊附
    • 11月1日 - 海軍一等水兵
  • 1941年(昭和16年)
    • 2月27日 - 大分海軍航空隊附
    • 7月16日 - 第7期飛行練習生(改称)卒業、第一航空隊附
    • 9月28日 - 飛龍航空隊附
    • 12月8日 - ハワイ空襲参加
  • 1942年(昭和17年)
    • 1月 - ダバオ方面戦地勤務
    • 2月19日 - ポート・ダーウィン空襲参加
    • 2月24日 - 逮捕
    • 3月23日 - ラウディ収容所・第14Cコンパウンド入所
    • 4月4日 - 脱走未遂発覚、ウェイヴェル拘置棟入棟
    • 4月9日 - 第4医務部からヘイ収容所へ移動
    • 6月6日 - 病院へ収容
    • 6月15日 - ヘイ収容所入所
  • 1943年(昭和18年)
    • 1月8日 - カウラ第12戦争捕虜収容所へ移動
    • 1月9日 - カウラ第12戦争捕虜収容所入所
    • 8月6日 - 病院へ
    • 8月11日 - 退院、カウラ再収容
    • 8月28日 - 病院へ
    • 9月4日 - 退院
    • 9月16日 - 裁判係争中、拘置場へ
    • 9月23日 - 拘置場出所
    • 10月7日 - 第15収容所病棟入院
    • 10月11日 - 退院、カウラ再収容
  • 1944年(昭和19年)
    • 5月13日 - 第15収容所病棟入院
    • 5月15日 - 退院、カウラ再収容
    • 8月5日 - 自決。カウラ戦争墓地埋葬。墓標番号Q・C・18。

親族[編集]

  • 豊島は三男三女の末っ子であるが、母が40代になって産み兄姉も一の幼少期には既に独り立ちするほど年齢が離れていたため、ほどんど一人っ子のようなものだった。長男の徳繁は陸軍軍曹として第11師団隷下の騎兵連隊に所属し1943年ニューギニア・ギルワにて戦死[22]、次男の実は陸軍上等兵で、1938年に小倉陸軍病院にて病死。

脚注[編集]

  1. ^ a b 中野(1984)、p.295
  2. ^ a b c d Blankets on the wire The Cowra breakout and its aftermath” (English / Japanese). Australian War Memorial Australia-Japan Research Project. 2010年4月24日閲覧。
  3. ^ a b All in - 'break-out'”. www.ww2australia.gov.au. 2010年4月21日閲覧。
  4. ^ 中野(1984)、p.150
  5. ^ 中野(1984)、p.274
  6. ^ Reid, Richard. “Australia under attack: 1942 to 1943”. Australian War Memorial. 2010年4月21日閲覧。
  7. ^ #飛龍飛行機隊戦闘行動調書(2)p.34
  8. ^ a b c d Gordon, Harry (1978). “2”. Voyage from shame: the Cowra breakout and afterwards. University of Queensland Press. ISBN 0-7022-2628-9. http://books.google.com.au/books?id=auwBZMslUj4C&pg=PA24&lpg=PA24&dq=%22Minami+tadao%22&source=bl&ots=6rkij_DhqQ&sig=oHa3SSzicbDjksuMk2Qp9b8fXwE&hl=en&ei=ziTUS4ivEs-gkQWL0ai1DA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CA8Q6AEwAg#v=onepage&q=%22Minami%20tadao%22&f=false. 
  9. ^ 中野(1984)、p.148
  10. ^ a b Sergeant (Sgt) Hajime Toyoshima (left), the first Japanese prisoner of war (POW)”. National Library of Australia. 2010年4月21日閲覧。
  11. ^ 中野(1984)、p.169
  12. ^ 中野(1984)、p.171
  13. ^ #飛龍飛行機隊戦闘行動調書(2)p.36『一飛 豊島一(戦死)自爆』
  14. ^ 週刊マミ自身 69年間沈黙を続けたカウラの元捕虜を訪ねて豊島家の墓の写真。碑文より、死後特進となった事が分かる
  15. ^ Pacific Wrecks.com豊島の捕虜識別写真。
  16. ^ 中野(1984)、p.8
  17. ^ a b 神立(2004)、p.134
  18. ^ 中野(1984)、p.129
  19. ^ 中野(1984)、p.75
  20. ^ 神立(2004)、p.136
  21. ^ 神立(2004)、p.138
  22. ^ 中野(1984)、p.267

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]