藤原宗平
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 建久8年(1197年) |
死没 | 文永8年4月1日(1271年5月11日) |
官位 | 従二位、参議 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇 |
氏族 | 松木家 |
父母 | 父:藤原宗経、母:藤原仲頼の娘 |
兄弟 | 宗平、宗倫、宗季、宗済、藤原教成室 |
妻 | 不詳 |
子 | 中御門宗雅、中御門宗実、中御門宗保、中御門宗光、中御門宗兼、中御門宗藤、宗恵 |
藤原 宗平(ふじわら の むねひら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。左近衛中将・藤原宗経の長男。官位は従二位・参議。
経歴
[編集]建永2年(1207年)従五位下に叙爵。承元4年12月(1211年1月)侍従に任ぜられ、建暦2年(1212年)には父・宗経の左近衛中将辞任と替わって右近衛中将に任官。建暦3年(1213年)に尾張介を経て、建保2年(1214年)従五位上に昇叙。
建保5年(1217年)正五位下に叙せられる。建保6年(1218年)備前介を務め、承久元年12月(1220年1月)従四位下に昇叙。承久2年(1220年)右近衛少将となり、承久4年(1222年)従四位上、元仁2年(1225年)正四位下と順調に昇進を重ね、嘉禄2年(1226年)に右近衛中将、嘉禄3年(1227年)に伊予介、寛喜4年(1232年)に美作介を兼ね、文暦元年12月(1235年1月)蔵人頭に補任。嘉禎2年(1236年)従三位・参議に叙任されて公卿に列した。嘉禎3年(1237年)美作権守を兼帯。
嘉禎4年(1238年)正月、正三位に進むが、4月に参議を辞任した。仁治元年(1240年)に従二位に叙せられるが、仁治4年(1243年)出家した。文永8年(1271年)4月1日に薨去。享年75。
人物
[編集]楽道の家に生まれたが、父・宗経同様にその家業を継承しなかった。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 建永2年(1207年)正月5日:従五位下に叙す(氏)。
- 承元4年12月17日(1211年1月3日):侍従に任ず。
- 建暦2年(1212年)3月22日:右近衛中将に任ず。
- 建暦3年(1213年)正月13日:尾張介に任ず。
- 建保2年(1214年)正月5日:従五位上に叙す。
- 建保5年(1217年)正月6日:正五位下に叙す。
- 建保6年(1218年)正月13日:備前介に任ず。
- 承久元年12月13日(1220年1月20日):従四位下に叙す。
- 承久2年(1220年)正月23日:右近衛少将に任ず。
- 承久4年(1222年)正月6日:従四位上に叙す(臨時)。
- 元仁2年(1225年)正月6日:正四位下に叙す。
- 嘉禄2年(1226年)4月19日:右近衛中将に転ず。
- 嘉禄3年(1227年)正月26日:伊予介を兼ぬ。
- 寛喜4年(1232年)正月30日:美作介を兼ぬ。
- 文暦元年12月21日(1235年1月11日):蔵人頭に補す。
- 嘉禎2年(1236年)2月30日:参議に任ず。7月20日:従三位に叙す。
- 嘉禎3年(1237年)正月24日:美作権守を兼ぬ。
- 嘉禎4年(1238年)正月23日:正三位に叙す。4月20日:参議を辞す。7月16日:本座を聴す。
- 仁治元年(1240年)10月28日:従二位に叙す。
- 仁治4年(1243年)正月9日:出家。
- 文永8年(1271年)4月1日:薨去。享年75。
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 『尊卑分脉 第一篇』吉川弘文館、2007年
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