蒲生定秀
![]() 蒲生定秀像(信楽院蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 永正5年(1508年) |
死没 | 天正7年3月27日(1579年4月22日) |
改名 | 定秀、快幹軒宗智(法号) |
別名 | 藤十郎(通称) |
官位 | 下野守、左兵衛大夫 |
主君 | 六角定頼→義賢→義治→織田信長 |
氏族 | 蒲生氏 |
父母 | 父:蒲生高郷、母:不詳 |
兄弟 | 定秀、尭清、賢洪、秀洪、青木梵純、蒲生秀紀室 |
妻 | 馬淵山城守の娘 |
子 | 賢秀、青地茂綱、小倉実隆、関盛信正室、神戸具盛室 |
蒲生 定秀(がもう さだひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。六角氏、織田氏の家臣。近江国日野城主。
生涯[編集]
永正5年(1508年)、蒲生高郷の子として誕生。父と共に南近江の戦国大名の六角氏の家臣として仕えた。定秀の父の高郷は蒲生氏の分家で、本家の家督は定秀の従兄弟の蒲生秀紀が継いでいたが、秀紀が幕府寄りであったのに対し、高郷・定秀は主君の六角定頼の信任を受けていたため、その後ろ盾を得て「定」の一字を賜って定秀と名乗った。また六角家中有数の重臣である馬淵氏から正室を迎え、六角家中での地位を固めた。
大永2年(1522年)に音羽城の蒲生秀紀を攻撃し、大永3年(1523年)3月に8カ月に及ぶ籠城戦の末に秀紀を降服させ、六角定頼の仲裁で秀紀から定秀に蒲生家の家督を譲る事で和睦が成立し、蒲生家の家督を相続した。また、当時の蒲生氏の居城であった音羽城はこの時に定頼によって破却されている。さらに大永5年(1525年)、鎌掛城にあった秀紀を謀殺[1]。その後、天文年間前半に日野城(中野城)を築き居城とした。
定秀は定頼の家臣として享禄3年(1530年)の京都出陣や享禄4年(1531年)の浅井亮政との戦いなどでは29の首級を挙げるなど(蓑浦の戦い)、定頼の主要な合戦の大半に参加し、大いに武功を挙げた。天文8年(1539年)、定頼に従って上洛。天文18年(1549年)には三好長慶と摂津国で戦っている。天文21年(1552年)の定頼死後はその子の六角義賢に仕え、伊勢国攻略を任されるなど活躍した。
永禄元年(1558年)に出家する。永禄2年(1559年)には浅井久政の属城であった佐和山城、永禄5年(1562年)には種村三河守が守る八仏手城を攻めている。同年、六角義賢に従って上洛。
次男の茂綱を佐々木一族の青地氏へ、三男の実隆を伊勢攻略の前任者である小倉氏の養子に入れ、娘を伊勢の関盛信・神戸具盛に嫁がせるなど、婚姻政策によって独自の勢力を築いた。
内政面にも優れ、定頼の信任を受けて城下町の形成や商業対策などを行なっている。日野椀の製造は城下町の成立と共に始められた。また、鉄砲の重要性を早くから認識しており、日野城下に鉄砲職人を招聘している[2]。
永禄6年(1563年)、六角氏内部にて観音寺騒動が起こると、後藤高治、続いて主君の六角義治を匿ってその調停と収拾に尽力した。永禄7年(1564年)に小倉宗家に養子に入れていた実隆が小倉西家(小倉氏庶流家の一つ)との抗争の中で敗死すると、定秀は小倉西家の拠点である山上城や八尾城を報復攻撃し、小倉西家を滅ぼして所領を拡大した。永禄10年(1567年)の六角氏式目にも六角氏の宿老として署名している。永禄11年(1568年)、六角氏が滅亡した後は織田信長に仕えた。
人物・逸話[編集]
- 六角家の重臣の中では重鎮の中の重鎮であり、永禄5年(1562年)には徳政令を独自に発布している。
- 六角定頼とは主従の絆で結ばれていたが、六角義賢の時代からは主従の力が逆転してむしろ定秀の力のほうが上であり、永禄7年(1564年)には観音寺騒動で居城を追われて生活苦にあえぐ義賢に対して金銭を貸し、しっかりと返済の約束も取り付けたりしている。