菖蒲池古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菖蒲池古墳

墳丘上(右に石室の覆屋)
所在地 奈良県橿原市菖蒲町
位置 北緯34度28分21.91秒 東経135度48分28.82秒 / 北緯34.4727528度 東経135.8080056度 / 34.4727528; 135.8080056座標: 北緯34度28分21.91秒 東経135度48分28.82秒 / 北緯34.4727528度 東経135.8080056度 / 34.4727528; 135.8080056
形状 方墳
規模 一辺30m
高さ7.5m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
(内部に刳抜式家形石棺2基)
出土品 土器片ほか
築造時期 7世紀中頃
被葬者 (一説)皇族墓
(一説)蘇我氏
史跡 国の史跡「菖蒲池古墳」
地図
菖蒲池古墳の位置(奈良県内)
菖蒲池古墳
菖蒲池古墳
テンプレートを表示

菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は、奈良県橿原市菖蒲町にある古墳。形状は方墳。国の史跡に指定されている。

類例のない精巧な造りの家形石棺2基で知られる。

概要[編集]

奈良盆地南縁、丸山古墳と明日香村大字岡を結ぶ道路北側の、低丘陵南面に築造された古墳である[1]。現在までに墳丘封土の流出および墳丘の改変を受けているほか、近年では橿原市教育委員会により範囲確認調査が実施されている[2]

墳形は方形。墳丘は2段築成で、下段は一辺約30メートル、上段は一辺約18メートルを測る[2]。墳丘北側・東側・西側には掘割が巡らされるほか、墳丘表面では赤灰色粘質土による化粧が、古墳前庭・掘割底面(一部)・上段墳丘裾平坦面では礫敷が認められており、墳頂部では磚の使用可能性がある[3]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方に開口するが、玄室の下半分や羨道部が埋もれているため全容は明らかでない[4]。玄室内部には刳抜式家形石棺2基が据えられるが、これら2基は非常に精巧な造りで、全国的にも特異な石棺になる[1]

この菖蒲池古墳は、出土土器等から古墳時代終末期・飛鳥時代7世紀中頃の築造と推定される[3]。当時としては破格的な墓域を有するが[3]、築造から間もない7世紀末頃(藤原宮期)にはすでに、墳丘一部の破壊を伴う整地の実施が認められている[2]。被葬者は明らかでなく、皇族の墓とする説のほか、蘇我氏の墓とする説がある。

古墳域は1927年昭和2年)に国の史跡に指定されている[5]

遺跡歴[編集]

  • 永保2年(1082年)5月の「大和国僧某家地売券案」に「石墓」の記載(菖蒲池古墳か)[1]
  • 1893年明治26年)の『大和国古墳墓取調書』、1923年大正12年)の『奈良縣高市郡古墳誌』に石棺・石室について記述[6]
  • 1925年(大正14年)、石室内調査(上田三平ら。1927年昭和2年)に調査報告)[6]
  • 1927年(昭和2年)4月8日、国の史跡に指定[5]
  • 1985年(昭和60年)、石室周辺測量調査(橿原市教育委員会)[6]
  • 1988年(昭和63年)、石室内測量調査(河上邦彦ら)[6]
  • 2007年平成19年)、世界遺産暫定リスト「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産の1つとして一覧表に登載[2][7]
  • 2008年度(平成20年度)、測量調査(橿原市教育委員会)[6]
  • 2009-2012年度(平成21-24年度)、範囲確認調査として第1-4次発掘調査(橿原市教育委員会)[7]
  • 2015年(平成27年)10月7日、史跡範囲の追加指定[5]

墳丘[編集]

墳丘の規模は次の通り[3]

  • 墓域
    • 南北:約82メートル
    • 東西:約67メートル(西側外堤を非想定)または約90メートル(西側外堤を想定)
  • 墳丘1段目(下段) - ほぼ正方形。
    • 南辺:30.6メートル
    • 北辺:29.0メートル
    • 南北:29.4メートル
    • 高さ:3.2メートル
  • 墳丘2段目(上段) - ほぼ正方形。
    • 一辺:17.7メートル
    • 高さ:4.3メートル

墳丘主軸は真北からやや西に振れる[3]。築造当時としては、墳丘の点では一般的な規模であるが、墓域の点では破格的な規模になる[3]

埋葬施設[編集]

石室内部の家形石棺2基

埋葬施設には両袖式の横穴式石室が使用されている。石室の規模は次の通り(一部は墳丘規模からの推定)[3]

  • 石室全長:約20メートル
  • 玄室 - 下部分は埋没。
    • 長さ:約7.2メートル
    • 幅:約2.5メートル
    • 高さ:約3.5メートル
  • 羨道 - 大半は埋没。
    • 長さ:約12.8メートル

玄室は半切石式で、花崗岩の巨石を2段に積みあげた上に天井石3枚を架けることで構成されるが、現在では大部分が埋没するほか、墳丘封土の流出により天井石2枚を露出する[8][4]。また石の隙間には漆喰が詰められている[8](荒い石材加工でも漆喰で切石石室に近づけようとしたためか[9])。この石室については、岩屋山古墳(明日香村越)の石室との類似が指摘される[3][4]

玄室内には、兵庫県加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト[10](竜山石)製の刳抜式家形石棺2基(手前棺・奥棺)が南北縦一列に据えられている[8][2][11]。2基は概ね同形(南棺の方がやや精緻)で、棺蓋の屋根を寄棟造風とし、頂部には棟飾り風の突起が、棺身には柱・梁を模した突起が認められる[8][2][11]。また内面のみに漆(北棺は朱漆、南棺は不明)の塗布も認められる[11](当時は漆塗陶棺や夾紵棺があり、石棺外面にも漆を塗った可能性が指摘される[9])。両棺とも全体的に精巧な造りで、類例のない石棺として注目される[8][2][4]

被葬者[編集]

丘陵左に菖蒲池古墳(樹叢)
右に小山田古墳(明日香養護学校)

菖蒲池古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には皇族の墓と推定される。この説では、天武・持統天皇陵(野口王墓古墳)と同様に、本古墳が藤原京朱雀大路南延長線上に位置することが指摘される[1][8]

一方、本古墳を蘇我氏の墓と推定する説もある。この説では、蘇我氏系寺院の配置とも考え合わせて、植山古墳・菖蒲池古墳・五条野宮ヶ原1・2号墳(いずれも方墳)一帯は蘇我氏の墓域であったと推測する[3]。特に、天武・持統天皇陵などの天皇陵が築造された地域からは離れて、飛鳥への入口を抑える道沿いに築造された点が、造墓氏族の性格として指摘される[3]。また近年には、付近で巨大方墳の小山田古墳が発見されたことから、同古墳と菖蒲池古墳を特に蘇我蝦夷入鹿の墓(『日本書紀』の大陵・小陵)に比定する説も挙げられている[12]

文化財[編集]

国の史跡[編集]

  • 菖蒲池古墳 - 1927年(昭和2年)4月8日指定、2015年(平成27年)10月7日に史跡範囲の追加指定[5]

現地情報[編集]

所在地

交通アクセス

周辺

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 菖蒲池古墳(平凡社) 1981.
  2. ^ a b c d e f g 菖蒲池古墳現地説明会資料 2010.
  3. ^ a b c d e f g h i j 菖蒲池古墳 2015, pp. 81–92.
  4. ^ a b c d 菖蒲池古墳(橿原市「かしはら探訪ナビ」)。
  5. ^ a b c d 菖蒲池古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  6. ^ a b c d e 菖蒲池古墳 2015, p. 15.
  7. ^ a b 菖蒲池古墳 2015, pp. 1–3.
  8. ^ a b c d e f 菖蒲池古墳(国指定史跡).
  9. ^ a b 河上邦彦『飛鳥発掘物語』扶桑社、2004年、pp. 57-59。
  10. ^ 竜山石は、かつて流紋岩質溶結凝灰岩とされてきたが、近年の調査によって流紋岩質成層ハイアロクラスタイト(水冷破砕岩)と判明している(宝殿石(竜山石)(兵庫県ホームページ)参照)。
  11. ^ a b c 菖蒲池古墳 2015, pp. 78–80.
  12. ^ "小山田古墳 巨大方墳に驚き…研究者ら「天皇」、「豪族」"(毎日新聞、2017年3月1日記事)。

参考文献[編集]

  • 史跡説明板(橿原市教育委員会設置)
  • 地方自治体発行
  • 事典類
    • 「菖蒲池古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301 
    • 菖蒲池古墳」『国指定史跡ガイド』講談社  - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
  • 番組

外部リンク[編集]