菅原在高
表示
菅原 在高(すがわら の ありたか、平治元年(1159年) - 貞永元年9月23日(1232年10月8日))は、鎌倉時代の公家。大学頭・菅原在茂の子。官位は従二位・兵部卿。
経歴
[編集]後白河院政期中期の治承2年(1178年)秀才に補せられると、治承4年(1180年)献策し、左衛門尉兼検非違使尉・六位蔵人を経て、養和元年(1181年)従五位下に叙爵した。
のち、刑部大輔を務める傍ら、文治3年(1187年)従五位上、文治5年(1189年)正五位下、建久3年(1192年)従四位下、建久9年(1198年)従四位上と昇進する。正治2年(1200年)文章博士に任ぜられると、元久元年(1204年)大学頭と学者としての官職を歴任する一方で、建仁3年(1203年)には菅原氏長者となっている。元久2年(1205年)子息である淳高の治国を賞されて正四位下に叙せられると、建永元年(1206年)式部大輔に任ぜられ文人官僚の筆頭となった。
承元4年(1210年)従三位に叙せられ、平安時代中期の菅原輔正以来菅原氏の氏人としては約200年ぶりに公卿に昇る。建保7年(1219年)正三位・兵部卿に叙任され、元仁2年(1225年)正月に従二位至るが、同年12月に淳高の刑部卿任官と引き替えに兵部卿を辞した。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 安元2年(1176年) 正月20日:賜穀倉院学問料
- 治承2年(1178年) 正月26日:秀才
- 治承3年(1179年) 正月19日:兼加賀掾。10月3日:上西門院判官代
- 治承4年(1180年) 正月16日:献策。8月8日:昇殿。11月18日:左衛門尉
- 養和元年(1181年) 5月30日:六位蔵人。9月25日:検非違使宣旨。11月28日:従五位下
- 元暦元年(1184年) 3月27日:刑部大輔
- 文治3年(1187年) 正月5日:従五位上(策)
- 文治5年(1189年) 9月16日:正五位下(前上西門院元暦元年大嘗会御給)
- 建久元年(1190年) 12月26日:院昇殿
- 建久3年(1192年) 正月5日:従四位下(策)。正月29日:還任刑部大輔
- 建久9年(1198年) 正月5日:従四位上(策)
- 正治2年(1200年) 10月11日:復任(父)。10月26日:文章博士
- 建仁元年(1201年) 正月29日:兼越後介
- 建仁3年(1203年) 11月:氏長者
- 元久元年(1204年) 正月13日:大学頭、去博士
- 元久2年(1205年) 正月29日:兼周防介。4月10日:正四位下(淳高治国賞)
- 建永元年(1206年) 3月1日:侍読昇殿。4月3日:式部大輔
- 承元元年(1207年) 正月13日:周防権守
- 承元4年(1210年) 12月20日:従三位、罷大輔
- 建保7年(1219年) 正月5日:正三位。10月5日:兵部卿
- 元仁2年(1225年) 正月5日:従二位。12月25日:辞卿(以男淳高任刑部卿)
- 貞永元年(1232年) 9月23日:薨去
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:菅原在茂
- 母:藤原家基の娘
- 生母不詳の子女
参考文献
[編集]- 『尊卑分脈 第四篇』吉川弘文館、1958年