自由劇場 (パレスチナ)

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パレスチナのジェニーンにあるジェニーン難民キャンプの自由劇場入り口

自由劇場(じゆうげきじょう、アラビア語: مسرح الحرية、英語: The Freedom Theatreフリーダムシアターとも呼ばれる)は、パレスチナのヨルダン川西岸地区北部、ジェニーン難民キャンプにある劇場である[1]パレスチナのコミュニティに拠点を置いた劇場及び文化センターとして機能している。「演劇を中心とする芸術を通じたパレスチナ人の自己表現や抵抗の拠点[2]」と称される劇場である。

この劇場はパレスチナ占領地域における社会的変化のきっかけとなるべく、ポピュラーカルチャーや芸術の分野で文化的抵抗を生み出すことを目的として2006年に設立された。劇場の目標は「専門性と革新に重点を置く一方で、子どもやヤングアダルトが芸術を通して自由かつ平等に自己表現できるようなエンパメントを行う活気ある創造的芸術コミュニティを発展させる[3]」ことである。この劇場では映画写真、クリエイティブライティング、演劇のコースを教えている[4]:168

背景[編集]

2009年に自由劇場を訪れたマイケル・ペイリン。ペイリンはこの年のパレスチナ文学祭の時に劇場を訪問した[5]

フリーダムシアターはジェニーン難民キャンプにあるが、ジェニーン難民キャンプは1948年のイスラエルによる占領の後、ハイファカルメル山地域の住民が住むためジェニーン県ジェニーン市の市域内に1953年にもうけられた[6]。劇場は第1次インティファーダの際、暴力的衝突の結果としてジェニーン難民キャンプの子どもたちがさらされることとなった慢性的な恐怖、抑うつ心的外傷後ストレス障害に対応するために作られたケア・アンド・ラーニングのプロジェクトに触発されて設立された[7]:256。イスラエルの人権活動家アルナ・メール・ハミースがヨルダン川西岸地区の子どもたちの教育を支えるべく、このプロジェクトを立案した[8]。1980年代にアルナ・メール・ハミースはジェニーン難民キャンプに教育センターを複数作ったが、そのうちひとつが「ストーン・シアター」と呼ばれる小さなコミュニティシアターであった[9]。地元の民家の最上階に設置された劇場だったが、2002年のジェニーンの戦いの際にイスラエルのブルドーザーに破壊され、アルナ・メール・ハミースの生徒も戦闘で複数名が死亡している[9]

数年後、ストーン・シアターのかつての生徒であったザカリア・ズベイディがアルナ・メール・ハミースの息子であるジュリアーノ・メール・ハミースに連絡し、新世代の若者のための演劇プロジェクトを立てようと提案した[9]スウェーデンの活動家ヨナタン・スタンチャックも参加し、2006年に「詩、音楽、演劇、カメラで解放への戦いをするパレスチナ人をむすぶ」場所として自由劇場を開館した[4]:168。ジュリアーノ・メール・ハミースによると、劇場のゴールは偏見と暴力を根絶する芸術運動を創造することである[4]。 ジュリアーノ・メール・ハミースは、劇場の使命は暴力に対する癒しを提供することでも、抵抗運動にかわるものを提供することでもなく、より生産的なやり方で暴力に対抗することだと述べている[3]

ジュリアーノ・メール・ハミースの暗殺[編集]

2011年4月4日、ジュリアーノ・メール・ハミースは覆面をして銃で武装した男に自由劇場の近くで殺害され、病院に向かう途中で死亡が宣告された[10]:9。イスラエル警察、パレスチナ警察、イスラエル国防軍イスラエル総保安庁という4つの当局組織が個別に捜査したにもかかわらず、この殺人事件は未解決のままである[9]。この死の背景となる動機に関する憶測は、地元でも国際的なレベルでもメディアの関心を集めることとなり、殺人犯の身元に関していくつか説が唱えられた[9]

ジュリアーノ・メール・ハミースは必ずしもパレスチナ人イスラエル人から好意的に見られていたわけではなかった[11]。パレスチナの保守派はメール・ハミースのリベラルな考え方のせいでキャンプの若者たちが堕落すると考え、一方でイスラエルの右派はメール・ハミースを裏切り者でパレスチナ抵抗運動の工作員だと見なしていた[9][10]:14[11][12]。しかしながら、メール・ハミース本人は、劇場での自分の仕事はいかなる政治的意図からも離れた自由の普遍的価値を実践し教育するものだと信じていた[10]:14。自由劇場ではメール・ハミースの遺志は生徒、観客、支持者たちにより受け継がれて続いている[10]:16。劇場の若者たちによる演劇グループは、「文化の象徴」としてのメール・ハミースの遺志に敬意を払うべくStolen Dreamsというオリジナルの芝居を書いて上演した[13]

プログラム[編集]

自由劇場は難民キャンプの若者たちに対して、専門的なものも含めてドラマワークショッププログラムを通して演劇と演技を紹介している[14]。ジュリアーノ・メール・ハミースによれば、自由劇場の組織にはもともと専門的な職業訓練学校を作るつもりはなく、最初は占領に伴う感情的、精神的なトラウマを克服するための道具として演劇を使うことを意図していた[10]:10。演劇セラピープログラムは、生徒たちが自分の経験をシェアし、訓練を受けた専門家と問題に対応することができるようになることを目指すものであった[9]

公演[編集]

自由劇場はジョージ・オーウェルの『動物農場』(2009)、ガッサーン・カナファーニーの『太陽の男たち』(2010)、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(2011)など、著名な文学作品の翻案戯曲を制作している[4]:169

自由劇場は既存の戯曲をパレスチナの文脈に合わせて演出することも行っている[15]。2013年に自由劇場はアメリカ合衆国の大学のキャンパスでツアーを行い、アソル・フガードジョン・カニ英語版ウィンストン・ヌッショナ英語版作の南アフリカ共和国の反アパルトヘイト劇である『アイランド』を上演した[16]:42–44。 実話にヒントを得た作品で、この戯曲は刑務所の監房にいる2人の同房者を扱っており、片方はすぐ釈放される予定だがもう片方は終身刑に処されている。昼間は2人とも極めて退屈な労働を強いられ、夜はソポクレスの『アンティゴネ』の上演の稽古をしている[17]。本作は南アフリカの作品であるが、自由劇場の上演においては「パレスチナの政治犯の経験と、イスラエルの刑務所システムで行われている虐待」を表現するものとして上演された[18]。このプロダクションはコネティカット大学ブラウン大学ジョージタウン大学、ニューヨーク・シアター・ワークショップで上演され、チケットは売り切れとなった[16]:42フランスブラジルスウェーデンインドでも上演されている[18][15]

ラインナップ[編集]

タイトル
2007 生きるべきか死ぬべきか
2008 The Journey
2009 魔笛
2009 動物農場
2009 Fragments of Palestine
2010 太陽の男たち
2011 不思議の国のアリス
2011 While Waiting
2011 Sho Kaman?-What else?
2012 管理人英語版
2012 Stolen Dreams
2013 アイランド
2013 Suicide Note from Palestine
2013 Lost Land
2014 Magic Note
2015 The Siege

イスラエルによる劇場襲撃と関係者の司法手続きを経ない拘束[編集]

2023年のイスラエル・ガザ戦争が始まると、イスラエル国防軍によるヨルダン川西岸地区内での襲撃も急増し[19]、同年12月13日、同軍はここ数十年において最大規模のジェニーン侵攻を遂行し、自由劇場もその標的の一つとなった[20][21]

イスラエル国防軍は、劇場施設を破壊し、スプレー塗料で落書きをするなど汚損し、備品を略奪した上、3人の関係者を殴打し拘束した[20][21]

芸術監督のアフメド・トバシは、24時間の拘束後に解放され、目隠しをされたまま軍車両から泥の中に放り出されたと証言した。また、劇場のコンピューター、本、写真、カメラ、音楽素材、楽器なども全て破壊された事を報告した[20]

フリーダム・シアター・パフォーミング・アーツ・スクールを卒業したばかりの若手の演技コーチ、ジャマル・アブ・ジョアスは、激しく殴打され自宅から引きずり出され、イスラエルにより起訴されることも無く8日間の拘束後に解放された[20][21]

劇場支配人のムスタファ・シェタは、罪状が示さなれないまま逮捕され、起訴などの司法手続きを経ないまま6カ月の行政拘禁が命じられた[20]

これらの破壊と拘禁に対して、英国の脚本家、俳優、舞台監督などを中心に、自由劇場への連帯を示し、ヨルダン川西岸地区とガザ地区文化遺産の破壊を非難し、拘禁者の解放を求めるオープン・レターに1,000人以上が署名した[20][22]。スコットランドの100人以上の脚本家も同様に、自由劇場への襲撃を非難し、拘禁者の解放を求めるオープン・レターに署名したほか[23]ニューヨークでは舞台関係者を中心に抗議の集会が開かれた[20]

脚注[編集]

  1. ^ Murphy, Maureen Clare (2006年2月18日). “Freedom Theatre to open in Jenin refugee camp” (英語). The Electronic Intifada. 2022年12月2日閲覧。
  2. ^ ジェニーン、自由劇場のジュリアーノ・メール・ハミース監督暗殺”. 日本語で読む中東メディア. 2023年11月19日閲覧。
  3. ^ a b "Our Mission," The Freedom Theatre, accessed February 23, 2014, http://www.thefreedomtheatre.org/who-we-are/mission/ Archived 2017-06-01 at the Wayback Machine.
  4. ^ a b c d Erin B. Mee. "The Cultural Intifada: Palestinian Theatre in the West Bank." The Drama Review, Vol. 56, No.3 (2012).
  5. ^ Author Blog Archive — The Palestine Festival of Literature” (英語). The Palestine Festival of Literature احتفالية فلسطين للأدب. 2023年11月20日閲覧。
  6. ^ Newsroom UNRWA” (英語). UNRWA. 2022年12月2日閲覧。
  7. ^ Norman, Julie M. "Creative Activism: Youth Media in Palestine," Middle East journal of culture and communication, Vol. 2, No. 2 (2009).
  8. ^ A r n a - Active memorial site” (2011年7月21日). 2011年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月2日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g Young Palestinians act out their struggle on another stage” (英語). the Guardian (2012年3月25日). 2022年12月2日閲覧。
  10. ^ a b c d e Erin B. Mee, "Murder, Theatre, Freedom, Going Forward," The Drama Review, Vol. 55, No. 3 (2011).
  11. ^ a b LeVine, Mark. “A year after Juliano Mer-Khamis' murder, it's time to board the freedom bus” (英語). www.aljazeera.com. 2022年12月2日閲覧。
  12. ^ Reider, Dimi (2011年4月4日). “Activist, actor, director Juliano Mer Khamis assassinated in Jenin” (英語). +972 Magazine. 2022年12月2日閲覧。
  13. ^ "Stolen Dreams," The Freedom Theatre, accessed March 3, 2014, http://www.thefreedomtheatre.org/productions/stolen-dreams/
  14. ^ Theatre” (英語). The Freedom Theatre. 2023年11月20日閲覧。
  15. ^ a b Elin Nicholson, "The Freedom Theatre and Cultural Resistance in Jenin, Palestine", Sara Brady and Lindsey Mantoan, ed., Performance in a Militarized Culture, Routledge, 2017, 66-78, p. 70.
  16. ^ a b Jane Adas, Jenin Freedom Theatre Performs Athol Fugard’s "The Island" in New York, The Washington Report on Middle East Affairs, Vol. 32, No. 9 (2013).
  17. ^ Desk, BWW News. “Freedom Theatre to Present THE ISLAND at Georgetown University's Davis Performing Arts Center Today” (英語). BroadwayWorld.com. 2023年11月20日閲覧。
  18. ^ a b husamkaloti (2015年11月8日). “'The Island' in France” (英語). The Freedom Theatre. 2023年11月20日閲覧。
  19. ^ Israel hits Bethlehem in Christmas raids on occupied West Bank” (英語). アルジャジーラ. 2024年3月29日閲覧。
  20. ^ a b c d e f g Ulaby, Neda (2023年12月20日). “Artists rally in support of West Bank theater members detained since Dec. 13” (英語). NPR. 2024年4月5日閲覧。
  21. ^ a b c Frayer, Lauren (2024年1月28日). “How a West Bank Palestinian theater went from symbol of hope to casualty of war” (英語). opb. 2024年4月5日閲覧。
  22. ^ Bakare, Lanre; Khomami, Nadia (2023年12月19日). “Leading lights of UK stage call for Israeli release of Palestinian theatre group” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077. https://www.theguardian.com/world/2023/dec/19/leading-lights-of-uk-stage-call-for-israeli-release-of-palestinian-theatre-group 2024年4月6日閲覧。 
  23. ^ Jackson, Lucy (2023年12月15日). “More than 100 Scots playwrights condemn Israeli attack on Palestinian theatre” (英語). The National. 2024年4月6日閲覧。

外部リンク[編集]

座標: 北緯32度27分48秒 東経35度17分14秒 / 北緯32.4634度 東経35.2872度 / 32.4634; 35.2872