窪田志一

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窪田 志一(くぼた しいち、1913年 - 1984年)は、鹿児島県日置郡伊集院町(現:日置市)出身の歴史家政治運動家

略歴[編集]

  • 当時の国政を裏から動かしていたという、同郷の岩屋梓梁(いわや しんりょう、石屋眞梁とも、橋口弥次郎佐衛門兼清)の研究に没頭する。
  • 以降、政府から命を狙われるようになったと主張し、国政選挙に打って出るようになる。

政歴[編集]

歴史研究[編集]

彼の歴史研究は、祖母の福永ウメより、家伝の『かたいぐち記』『異端記』という古文書を渡されたことに始まる。[1]。 この『かたいぐち記』『異端記』に、記されていた岩屋梓梁(いわやしんりょう)の業績調査のため南九州各地をまわり、その後研究結果を自家出版した。

易断史料[編集]

彼の著作中、祖母の福永ウメから受け継いだ『かたいぐち記』『異端記』のことは、まとめて「易断史料」と呼ばれていることが多い。 この「易断史料」については、最後まで公開が行われず、また著書の中でも、原文らしきものがほとんど引用されていない[2]ことから、その実在自体も疑われる。 そのため、現在ではその内容のみならず実在性についても、彼が残した文章から間接的に推察せざるを得ない。『かたいぐち記』については、彼が記した次の具体的な説明から、なんらかの記録は実在したことをうかがわせる。
「真方衆は、-中略- 岩屋梓梁に関する情報、資料蒐集につとめ、その逐一報告は、谷山(旧谷山郷、現在鹿児島市南部)下福元に岩屋梓梁が建立した清泉寺代々の住持が、禅宗の教線と薩摩藩学匠達が清泉寺で行った『参学会』(参禅を口実とした岩屋梓梁研究発表会)から得た知識と共に取捨選択して誌し、秘密保持の必要上、記録の嵩を小さくして後世に分かり易く残すためにすべて楷書をもって念入りに誌され『かたいぐち』と表記して、厚さ五十厘ほどに達している。」[3]

選挙公報における部落差別用語の削除事件[編集]

1975年、都知事選に立候補した際、選挙公報の中で「エタ」「エッタ」「餌取(えた)」「穢多童」「易断(えた)」などの語を13箇所で使用し、東京都選挙管理委員会から「基本的人権を著しく侵害する」などの理由により、これらの語を職権で削除された[4]

窪田の所論は「エタは、永正年代に時の室町幕府を倒した神仏習合の易断(えた)政府を語源にしたものであり、のちに徳川幕府が、誇り高き易断政府の子孫たちを全国に隔離し差別した」などという独自の内容で、科学的には不正確だが、要するに「被差別部落民はもっと胸を張るべきだ」というもので、差別を助長する意図はなかったとされる[4]

この事件は1975年3月25日、「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」の3紙の朝刊社会面で大きく報じられたが、部落問題に関する報道タブーから、この事件の核心である差別用語が一切書けなかったため、読者には全く意味不明な記事だったという[4]

主著[編集]

  • 『岩屋天狗と千年王国』上・下(岩屋梓梁顕彰会、八幡書店ISBN 4893503030 ISBN 4893503049
  • 『易断(エタ)政府を樹立した岩屋梓梁』(私家本)
  • 『西郷征韓論は無かった 附篇・実在した易断政府と岩屋梓梁』(私家本)

脚注[編集]

  1. ^ 窪田志一『岩屋天狗と千年王国』下、53-54頁。
  2. ^ 窪田志一『岩屋天狗と千年王国』下、344頁。
  3. ^ 窪田志一『岩屋天狗と千年王国』下、342頁。
  4. ^ a b c 『差別用語』(汐文社、1975年)p.95-96

参考[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]