稲木 (海防艦)

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稲木
基本情報
建造所 三井造船玉野造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 海防艦
級名 鵜来型海防艦
艦歴
計画 マル戦計画
起工 1944年5月15日
進水 1944年9月25日
竣工 1944年12月16日
最期 1945年8月9日被弾沈没
除籍 1945年9月15日
その後 1964年浮揚解体
要目(竣工時)
基準排水量 940トン
全長 78.77m
最大幅 9.10m
吃水 3.06m
主機 艦本式22号10型ディーゼル2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.5ノット
燃料 重油 120トン
航続距離 16ノットで5,000カイリ
乗員 定員149名[注 1]
兵装 45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
25mm機銃 3連装5基、単装1基
三式迫撃砲 単装1基
九四式爆雷投射機2基
三式爆雷投射機16基
爆雷120個
搭載艇 短艇3隻
レーダー 22号電探改四 1基
13号電探改三 1基
ソナー 九三式水中聴音機1基
三式水中探信儀2基
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稲木(いなぎ)は、日本海軍の海防艦鵜来型海防艦の12番艦。艦名は香川県稲毛島にちなむ。

艦歴[編集]

起工-竣工-訓練[編集]

マル戦計画の海防艦、第4701号艦型の1番艦、仮称艦名第4701号艦として計画。1944年昭和19年)5月15日三井造船玉野造船所で起工。9月1日、「稲木」と命名され鵜来型に分類されて同級の12番艦に定められる。25日、進水。10月21日、艤装員事務所を設置。25日、艤装員長に山田忠太少佐が着任。12月16日竣工。山田少佐(稲木艤装員長)は稲木海防艦長となる。同日附で、稲木艤装員事務所は撤去された。本籍を呉鎮守府籍に定められ、呉鎮守府警備海防艦となり呉鎮守府部隊呉防備戦隊に編入。1945年(昭和20年)1月26日海上護衛総司令部第一護衛艦隊に編入された。

船団護衛[編集]

1945年(昭和20年)1月29日朝、稲木は第81号海防艦と共にを出港し、同日午後に門司に到着。31日、稲木は海軍配当船あまと丸(石原汽船、10,238トン)、陸軍配当船富士山丸(飯野海運、10,238トン)からなるヒ95船団を第66号海防艦、第81号海防艦と共に護衛して門司を出港。船団は朝鮮半島沿岸、中国大陸沿岸、海南島クイニョンカムラン湾と仮泊を続けながら航海を続け、2月14日昭南に到着。

稲木、第66号海防艦、第81号海防艦はあまと丸、富士山丸、海軍配当船光島丸(三菱汽船、10,045トン)からなる復航のヒ96船団を護衛することとなり、22日に昭南を出港する[1]。しかし、27日未明、カムラン湾口付近でアメリカ潜水艦ブレニー(USS Blenny, SS-324)の雷撃を受け、あまと丸が被雷沈没した。瓊州海峡通過中の3月1日にはB-24による爆撃を受け、光島丸が直撃弾を受けた。そのため光島丸は第66号海防艦と共に船団から分離され、修理のため香港に回航される[2][3]。稲木と第81号海防艦は至近弾で損傷した富士山丸を護衛して北上を続け、大陸沿岸と朝鮮半島沿岸を経由して13日夕方に門司に到着[2][4][5]。3月14日、稲木は門司を出港し、15日に呉に到着。呉海軍工廠にて修理・整備作業を受けた。なお、修理を終えた光島丸も27日に門司に到着し[4]、富士山丸と光島丸が南方から帰り着いた最後のタンカーとなった。

整備を終えた稲木はAS3作戦に参加するため31日に呉を出港するが、同日夜に部埼灯台沖で触雷し小破。そのため呉に反転し修理を受ける。4月25日、第12海防隊に編入。

28日朝、稲木は海軍一般徴用船美保丸(日本郵船、4,667トン)単独からなるモシ05船団を姉妹艦の男鹿第59号海防艦と共に護衛して門司を出港。鎮海加沙島を経由して上海へ向かった。しかし、30日に船団はアメリカ潜水艦トレパン(USS Trepang, SS-412)とスプリンガー(USS Springer, SS-414)に発見される。最初にスプリンガーが攻撃を仕掛けてきたが、稲木以下護衛部隊が先にスプリンガーを発見したこともあって追い払うことに成功した。しかしその隙にトレパンが雷撃を敢行し、美保丸が被雷沈没してしまった。船団が消滅してしまったため、稲木以下護衛部隊はそのまま上海へ向かったが、5月2日にスプリンガーに再度発見されてしまう。スプリンガーは魚雷を発射し、男鹿に魚雷が命中。男鹿は瞬時に沈没した。

8月8日、稲木は船団を護衛して釜石を出港し、八戸に到着。翌9日朝、八戸はアメリカ軍第38任務部隊艦載機の空襲を受ける。稲木は午前9時頃、空母「ランドルフ」と「エセックス」から発進したF6FSB2Cによる空襲を受けて後甲板に直撃弾を受けて機械室が大破。夕方頃に沈没した[6][7]。海防艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死。

9月15日、稲木は鵜来型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。

1947年(昭和22年)2月1日時点で、稲木は八戸港で沈没要引揚状態にあり、大湊地方復員局所管の行動不能艦艇(特)に定められる。

1964年(昭和39年)、稲木は浮揚され解体された。

海防艦長[編集]

艤装員長
  1. 山田忠太 少佐:1944年10月25日[8] - 1944年12月16日
海防艦長
  1. 山田忠太 少佐:1944年12月16日[9] - 1945年8月9日 - 戦死。同日、海軍中佐に特進。

出典[編集]

[編集]

  1. ^ これは法令上の定員数であり、特修兵、その他臨時増置された人員を含まない。

脚注[編集]

  1. ^ #駒宮p.350
  2. ^ a b #海防艦戦記p.618
  3. ^ #駒宮pp.350-351
  4. ^ a b #駒宮p.351
  5. ^ #松井p.175
  6. ^ Aircraft action reports (carrier-based aircraft)『Aircraft Action Report No. CVG16-55-45 1945/08/09 : Report No. 2-d(33): USS Hancock 〔 Randolph 〕, USSBS Index Section 7』米国国立公文書館 (RG243)〈Aircraft action reports (carrier-based aircraft)〉、1945年https://dl.ndl.go.jp/pid/4005170/1/3 
  7. ^ Aircraft action reports (carrier-based aircraft)『Aircraft Action Report No. VF83#131 1945/08/09 : Report No. 2-d(27): USS Essex, USSBS Index Section 7』米国国立公文書館 (RG243)〈Aircraft action reports (carrier-based aircraft)〉、1945年https://dl.ndl.go.jp/pid/4004651/1/4 
  8. ^ 海軍辞令公報(甲)第1629号 昭和19年10月27日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101700 
  9. ^ 海軍辞令公報(甲)第1675号 昭和19年12月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300 

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『海軍徴傭船美保丸船長 中原廉治『美保丸遭難(被雷撃)顛末報告書』/昭和19年12月以降 大東亜戦争徴傭船舶事故報告綴(20)』。Ref.C08050051200。 
  • 大井篤 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。
  • 海防艦顕彰会(編)『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年。 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備(2) 開戦以後』 第88巻、朝雲新聞社、1975年10月。 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 

外部リンク[編集]