石川石足

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石川 石足
時代 飛鳥時代後期 - 奈良時代初期
生誕 天智天皇6年(667年
死没 天平元年8月9日729年9月6日
官位 従三位左大弁
主君 元明天皇元正天皇聖武天皇
氏族 石川朝臣
父母 父:蘇我安麻呂
年足人成豊成
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石川 石足(いしかわ の いわたり)は、飛鳥時代後期から奈良時代初期にかけての公卿大紫蘇我連子の孫。少納言蘇我安麻呂の子。官位従三位左大弁

経歴[編集]

朱鳥元年(686年)に石川朝臣姓を与えられる[要出典]

元明朝和銅元年(708年正五位上河内守に叙任される。のち、和銅7年(714年従四位下養老3年(719年)従四位上に昇進する。

養老4年(720年太政官の首班にあった右大臣藤原不比等の没後に行われた任官にて、左大弁に抜擢される。この任官については、それまで石川氏氏上であった石川難波麻呂が没し、石足が氏上となった可能性も指摘されている[1]。翌養老5年(721年大宰大弐に転じるが、大宰帥多治比池守は本官が大納言であり遥任であったため、石足は九州へ下向したと想定される[2]。養老7年(723年正四位下に昇叙。

聖武朝に入り神亀元年(724年天武天皇夫人であった大蕤娘蘇我赤兄の娘)の[3]、神亀5年(728年)にはその娘の田形内親王薨去にあたり[4]、石川氏を代表して葬儀の監護を務めている[5]

叔母の蘇我娼子藤原不比等に嫁いで、藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合を儲けており、石足は藤原四兄弟と従兄弟の関係にあったことから、藤原四子政権成立にあたっては彼らと協力してその政権確立を助けた。神亀6年(729年)2月の長屋王の変に際しては、武智麻呂に近い多治比縣守大伴道足と共に権参議に任ぜられて、太政官における長屋王排除の議決決定に尽力し[6]、長屋王の自殺後にはその弟である鈴鹿王の邸宅に派遣されて、長屋王の兄弟姉妹・子孫とその妻を赦免するを伝えている[7]。3月には変での功労によって従三位に昇叙された[8]。同年8月9日に薨去。享年63。最終官位は左大弁従三位。

官歴[編集]

注記のないものは『続日本紀』による。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 木本[2004: 82]
  2. ^ 木本[2004: 83]
  3. ^ 『続日本紀』神亀元年7月10日条
  4. ^ 『続日本紀』神亀5年3月5日条
  5. ^ 木本[2004: 84]
  6. ^ 木本[2004: 86]
  7. ^ 『続日本紀』神亀6年2月18日条
  8. ^ 直木孝次郎「長屋王の変について」『奈良時代史の諸問題』所収、塙書房、1968年
  9. ^ a b 『公卿補任』
  10. ^ 『続日本紀』天平宝字6年9月30日条
  11. ^ 『日本後紀』延暦24年7月25日条
  12. ^ 『続日本紀』宝亀3年9月8日条
  13. ^ 木本[2016: 27]

参考文献[編集]

  • 木本好信「藤原不比等・武智麻呂と石川石足」『奈良時代の藤原氏と諸氏族』所収、おうふう、2004年
  • 木本好信「藤原楓麻呂について -藤原北家官人の考察7-」『甲子園短期大学紀要』第34号、2016年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、1992年