矢内廣

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やないひろし Hiroshi yanai.jpg
矢内廣
生誕 (1950-01-07) 1950年1月7日(67歳)
日本の旗 日本 福島県いわき市
出身校 中央大学法学部卒業
職業 ぴあ株式会社社長

矢内廣(やない ひろし、1950年1月7日 - )は日本の実業家東証一部上場企業、ぴあ株式会社の創業者であり代表取締役社長。その他、ぴあ主要グループ会社の代表を務めると共に、一般社団法人チームスマイル 代表理事、社団法人日本雑誌協会理事、日本アカデミー賞協会組織委員会委員、公益財団法人ユニジャパン評議員、公益財団法人ラグビーワールドカップ2019組織委員会顧問、株式会社BSフジ番組審議委員会 委員、財団法人新国立劇場運営財団 評議員、首都大学東京経営審議会学外委員、エンジン01文化戦略会議副幹事長兼事務局長、観光庁アドバイザー、株式会社 海外需要開拓支援機構(クールジャパン推進機構)アドバイザリーボード、 東京の観光振興を考える有識者会議 委員等の公職を務める。

略歴[編集]

現在の福島県いわき市に生まれる。中央大学在学中(当時22歳)の1972年7月、TBS 報道局でアルバイトをしていた仲間7人とともに映画などのエンタテインメント情報を網羅した月刊情報誌「ぴあ」を創刊[1]。大学卒業後、1974年ぴあ株式会社を設立し代表取締役社長に就任。1977年には東映大泉撮影所にて「第一回ぴあ展」の一企画として「第一回自主映画展」を開催。1981年からはぴあフィルムフェスティバルと名称を改め、現在に至るまで毎年開催している。1984年4月から、日本初のコンピューターオンラインネットワークによるチケット販売サービス「チケットぴあ」をスタート。1990年には「チケットぴあ」事業にて、社団法人ニュービジネス協議会が主催する「第1回ニュービジネス大賞」「通商産業大臣賞」を受賞している。1998年長野冬季オリンピックや2002年FIFAワールドカップなど世界規模のイベントのチケット販売も手がける。なお、ぴあは、長野冬季オリンピック以降、全てのオリンピックにおいて、観戦チケットの国内販売業務を日本オリンピック委員会より受託し、実施している。

2002年1月、東京証券取引所第二部に、2003年5月には、東京証券取引所第一部に上場を果たす。2011年7月、「時代の役割を十分に全うした」として39年間続いた情報誌『ぴあ』を休刊する[2]東日本大震災の直後に、エンタテインメントの力を支援につなげたいというぴあ社内の有志によるボランティア活動を発端とし、2012年10月に一般社団法人「チームスマイル」を設立し、代表理事に就任する。東京・豊洲、福島・いわき、岩手・釜石、宮城・仙台の4か所にシアター「PIT」を開設した。

また、長年にわたり継続して行ってきたぴあフィルムフェスティバルの活動が評価され、自身が2004年モンブラン国際文化賞を受賞。2014年には、長年の努力により日本映画の芸術文化の発展に甚大なる功績を残した個人・団体に贈られる川喜多賞を、ぴあフィルムフェスティバルが受賞している。

2017年、エンタテインメント界の発展に貢献をしたプロデューサー、クリエイターとして、渡辺晋賞を受賞。

人物[編集]

エピソード
矢内の起業家としての才能をうかがわせるエピソードとして、小学校時代、母親が作った食べきれないほどの甘納豆を袋詰めにして「くじ」を付けることを思いつき、手作りの紙芝居を読み聞かせ、そこに集まった子供たちにその甘納豆を5円で販売したという。母親にはこっぴどく叱られたそう。しかし矢内は、後に次のように語っている。「私はお金が欲しかったわけではなく、友人たちが紙芝居を見て『面白い』と喜び、甘納豆をおいしそうに食べている顔を見るのが本当にうれしかった。大人になって事業をはじめても、子ども時代に見た友人たちの笑顔が、自分の原点だと思っている」[1]
大学進学のために上京した矢内は大好きな映画を観るために、名画座二番館、三番館と呼ばれる映画館に通い詰めていた。しかし、肝心の自分が観たい映画がどの映画館でやっていて、上映は何時からはじまり、料金はいくらなのかという情報を伝えるメディアは当時ほとんどなかった。また上京当初は電車の乗り継ぎ方すらよくわからなかった。いわきでは、遠くの山をみれば自分の位置と行きたい方角がわかったが、東京には山などない。東京は街中がビルばかりで方角がわからず、矢印や地図がないと目的地に辿り着けない。「東京は矢印の街」だと思ったという。後にその思いが「ぴあ」発想の原点だったと語っている。そうして、映画、芝居、コンサート、展覧会など見たいカルチャーすべての情報がまとまっている雑誌があれば重宝するはずだと考え、「ぴあ」創刊に至ったという[1]
「ぴあ」の創刊号は、出版物の問屋である取次店では扱ってもらえず、直接書店に置いてもらおうと交渉したがこれもうまくいかず、途方に暮れていたところ、その時たまたま「日本読書新聞」に掲載されていたインタビュー記事を目にしたことがきっかけで元紀伊國屋書店社長の田辺茂一に会うことになり、当時日本キリスト教書出版販売専務の中村義治(後の教文館社長)を紹介される。中村は矢内が持参した創刊号のサンプルを見て一度は思いとどまるよう諭すものの、結局最後には100通以上もの書店あての紹介状が用意され、その結果、89店の書店が創刊号を置いてくれたという。後に矢内は「田辺さんと中村さんに出会っていなければ、『ぴあ』もなければ、ぴあ株式会社もない。そして現在の私もない。お二人は私にとって、人生の大恩人である」と述懐している[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 掛尾良夫 『「ぴあ」の時代』 キネマ旬報社<キネ旬総研エンタメ叢書>2011年、小学館<小学館文庫>2013年。
  2. ^ ぴあコーポレートサイト 情報誌「ぴあ」の休刊に関するお知らせ
  3. ^ 「人生春夏秋冬 私の道」『福島民友新聞』2011年7月6日~8月9日。

外部リンク[編集]