盈科堂

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盈科堂(えいかどう)は、江戸時代下総国古河藩茨城県古河市)にあった藩校土井家唐津藩主の時代に創設され、のちの古河移封に伴って移転した。

歴史[編集]

享保9年(1724年)、肥前国唐津藩主の土井利実により、藩士子弟教育のため唐津城内に創設された。講堂に掲げられた利実直筆の「盈科堂創設の記」によれば、校名の由来は『孟子』の言葉「流水為物也、不盈科不行、君子之志於道也、不成章不達」(水が穴を満たした後に流れ進んで行く様に、学問も順を追って進むべきである・・・)である。[1] 「盈」は満たす、「科」はくぼんだ所を意味する。

宝暦12年(1762年)、土井利里が藩主のとき、下総・古河に移封となり、盈科堂も移転した。古河は土井家天和元年(1681年)まで藩主だった故地である。当初は古河城内の桜町にあったが、安政6年(1859年)、追手門前の古河城下・片町[2] に校舎を新築・移設。[3]  「表門は四ツ脚門、玄関は破風造り、広い講堂があり、講堂には上段の間も設けられ、又教師の詰め所も、子弟の寄宿部屋の設けさえあって・・・瓦葺白亜塗りの豪勢な建築」[4] であった。なお、武芸稽古の「教武場」も隣接し、玄関を並べていた。[4]

明治4年(1871年)、廃藩置県により藩校は廃止される。しかし、その校舎は明治5年(1872年)の「学制」頒布後も、旧藩士子弟のための「士族校」として引き続き利用された。なお、町民の小学校は「市街校」と呼ばれ、町内の寺院・尊勝院内に設けられている。明治7年(1874年)、「甲学校」と改称。明治10年(1877年)、各小学校を統合し「古河小学校」が設立された際には、その本校として明治16年(1883年)の新校舎完成まで使用された。[5]

ちなみに明治32年(1899年)、中等教育機関として「私立盈科学校」が古河町内の西代官町に設立され、校名が継承されている。[6] 昭和11年(1936年)、白壁町から原町に移転したとき、新しく設けられた弓道場には、旧藩校から受け継がれた藩主直筆による勧学の扁額が掲げられていた。しかし、この新しい「盈科」学校も、昭和19年(1944年)、戦争により生活が圧迫された時期に廃止された。[7] 

教育内容[編集]

授業は午前8時頃から正午まで行われていた。大学中庸論語孟子および春秋四書五経左氏伝国語蒙求十八史略史記前漢書後漢書三国志晋書通鑑綱目資治通鑑などを用いて、儒学中国史などを学び、無点の唐本をすらすらと読み上げられるようになると、学業を成就したと認められた。年に二回、春と秋に試験が行われ、藩主も古河在城のときには臨席していた。[8] [9] 

創立当初は、山崎闇斎崎門学派の稲葉迂斎が校長だったが、やがて古学、さらにのちには朱子学が中心になった。なお、寛政2年(1790年)、老中松平定信により発令された異学の禁により朱子学が正学とされ、諸藩の藩校でも朱子学が中心になるが、その2 年後には藩主・土井利厚が自筆の扁額・「学館記」を盈科堂に掲げ、藩士に自主的な勉学を勧めている。[3]

また、古河藩では家老鷹見泉石に代表されるように、 洋学が盛んであったが、藩校では教えておらず、各自が独学で自主的に身に付けていた。[8]

主な教官[編集]

脚注[編集]

  1. ^ あるいは『孟子』「離婁」上篇の「源泉混混、不舎昼夜。盈科而後進、放乎四海」によるともされる。例えば、村山吉廣 『藩校 人を育てる伝統と風土』 明治書院、2011年、86-88頁(古河藩 盈科堂) を参照
  2. ^ 現在の西町
  3. ^ a b c 『古河市史 通史編』 537-540頁(藩校盈科堂)
  4. ^ a b 千賀覚次 『古河藩のおもかげ』 1955年(『古河市史資料別巻』 156頁)
  5. ^ 『古河市史通史編』621-633頁(近代学校の設立・国権重視の教育令)
  6. ^ 『古河市史通史編』645-646頁(私立盈科学校)
  7. ^ 『古河市史通史編』837-838頁(盈科学校の変遷)
  8. ^ a b 『古河市史通史編』540-542頁(盈科堂での学習)
  9. ^ 藤懸静也 『郷土史教授資料』 1908年(『古河市史資料別巻』 114-116頁)
  10. ^ a b c d 『古河市史通史編』542-544頁(盈科堂の教官たち)

参考文献[編集]

  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 通史編』 古河市、1988年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料別巻』 古河市、1973年
  • 村山吉廣 『藩校 人を育てる伝統と風土』 明治書院、2011年