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王勇 (北周)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 勇(おう ゆう、生没年不詳)は、中国西魏北周軍人。もとの名は胡仁。本貫代郡武川鎮

経歴

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北魏永安年間、万俟醜奴らが関隴で乱を起こすと、王勇は官軍の募兵に応じて従軍し、功績により寧朔将軍・奉車都尉となった。また侯莫陳悦賀抜岳の下で征討にあたり、別将となった。

534年永熙3年)、宇文泰丞相となると、幕下に召されて帳内直盪都督となり、後将軍・太中大夫の位を加えられ、包信県子に封ぜられた。535年(西魏の大統元年)、爵位に進んだ。宇文泰の下で竇泰を討ち、弘農を奪回し、沙苑の戦いに参加して、功績を挙げた。爵位はに進み、鎮南将軍に任じられ、帥都督となった。趙青雀の乱を討って、功績が最も高く、衛大将軍・殷州刺史に任じられ、通直散騎常侍を加えられ、太子武衛率を兼ねた。

543年(大統9年)、邙山の戦いにおいて、王勇は決死の士300人を率い、突撃して殺傷する者が多く、東魏軍もあえてこれに当たろうとするものがなかった。この戦いは西魏軍が敗れたが、王勇と王文達耿令貴の3人は奮戦して、殊勲を挙げた。軍を返すと、上州の刺史に任じられることになった。雍州岐州北雍州の刺史の任が王勇ら3人に当てられることとなり、くじ引きをしてこれを決めた。王勇が雍州を、王文達が岐州を、耿令貴が北雍州をえた。王勇(本名は胡仁)の名を勇とし、耿令貴の名を豪とし、王文達の名を傑として、その功績を顕彰した。

547年(大統13年)、王勇は大都督に任じられ、使持節・車騎大将軍・儀同三司に転じた。549年(大統15年)、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。554年恭帝元年)、柱国の趙貴の下で柔然を撃破し、追撃して家畜数千頭を奪った。爵位は新陽郡公に進み、庫汗氏の姓を賜った。556年(恭帝3年)、六官が建てられると、王勇は稍伯中大夫の位を受けた。また柔然を討った功により、永固県伯の別封を受けた。まもなく位は大将軍に進んだ。557年(北周の孝閔帝元年)、岷山のの鞏廉倶和が乱を起こすと、王勇は軍を率いてこれを平定した。

王勇は勇猛であったが、功績におごって、人の短所をあげつらう悪癖があり、憎まれることも多かった。柱国の侯莫陳崇が、諸将らとともに王勇を衆人環視の中で辱め、王勇は恥辱のあまり病床に臥せった。背中にできものができてまもなく亡くなった。

子の王昌が後を嗣ぎ、官は大将軍に上った。

伝記資料

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