犀川事件

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犀川事件(さいがわじけん)は、昭和初期に岐阜県安八郡で発生した、河川をめぐる住民と警察との衝突である。犀川騒擾事件ともいう。犀川事件としては1929年(昭和4年)の第1次犀川事件と1938年(昭和13年)の第2次犀川事件がある。通常、犀川事件は第1次犀川事件を示す。

原因[編集]

きっかけとなったのは、1922年大正11年)に計画された治水計画である。この計画は、岐阜県本巣郡の4つの河川(犀川五六川、中川、長護寺川)の水を、安八郡墨俣町(現大垣市墨俣)の輪中堤を切断して開削した川に流すというものである。この計画が行なわれると本巣郡の治水は良くなるが、安八郡の治水は悪化する恐れがあった。

当時は大正デモクラシーの真っ最中であり、住民たちにも政治運動が高まっていたこともある。又、本巣郡は立憲政友会の地盤、安八郡は立憲民政党の地盤ということもあり、当時政権党であった立憲政友会側の本巣郡に有利な状況であった。

治水計画は国の事業として決まり、本巣郡及び県と安八郡は、徐々に対立してきた。

犀川事件の発生[編集]

1929年(昭和4年)1月7日、安八郡墨俣町(現大垣市墨俣)、結村名森村牧村(現安八町)、大薮町仁木村福束村(現輪之内町)の7町村の町村長及び役場全職員は県知事に対し辞表を提出。翌8日、これを収拾するために県は役員を各町村に派遣する。しかし、各町村は住民が団結し、役員が各町村に入ることを阻止する。この事態に警察が出動し役員の警備にあたり、住民と一触即発の状態となる。昼頃、ついに名森村で衝突する。住民は警察車両を襲い、さらに警察が占拠した役場等を襲う。この事態に警察は愛知県警察に応援を要請し、最終的に警官は600人に及ぶ。

事態を収拾するため、各町村代表と岐阜県代表との話し合いが行なわれたが、岐阜県側は「国の決定であり、中止は不可能」の一点張りであり、話し合いは決裂する。ついに岐阜県は陸軍省に応援を要請、軍隊が鎮圧に乗り出す。

軍隊の応援もあり、警察は騒動の鎮圧に乗り出す。200名の住民が検挙され、主導者とみなされた人々は厳しい拷問を受けたという。

犀川事件のもたらしたもの[編集]

旧名森村役場跡地に建つ記念碑(他画像)

この事件により治水計画は見直され、新しい川は長良川に沿って開削され、住民達の土地は守られた。この川が新犀川である。このことを後世に残すために、安八町氷取(旧名森村)に記念の石碑が建立されている。

この事件の影響は現在も残っており、一概には言えないが、瑞穂市(旧本巣郡穂積町等)と安八郡墨俣町安八町とでは対立が根深くあるという。事実、この町を結ぶ道や橋の整備は最近までほとんどされていなかった。又、平成の大合併の際、穂積町墨俣町安八町にも合併を呼びかけたが、住民の一部には合併を望む声があったものの、当時の穂積町は岐阜地域、安八・墨俣両町は西濃地域にあることから、学区などの弊害があるため最終的には拒否された。また、犀川の当時の1市2町にまたがるエリアは土地区画整理事業地になっており、2005年に瑞穂市と墨俣町にまたがる所にオープンしたスーパーセンター「PLANT6」内には1市2町(当時)のインフォメーションコーナーがある。なお、開店日には1市2町の市長、各町長が来賓として出席している。

第2次犀川事件[編集]

犀川事件(第1次犀川事件)によって、治水計画は見直され、1937年(昭和12年)に完成する。翌年の1938年(昭和13年)7月、長良川の洪水と大雨による堤防内の水がたまったことにより、本巣郡南部(現瑞穂市)一帯は水没してしまう。この影響により、新水路(新犀川)の堤防が決壊寸前となってしまう。このため、堤防を守るために新犀川の調節水門を開けたい上流側(本巣郡)の住民と、上流側の水を流させないために調節水門を閉め続けたい下流側(安八郡)の住民とで、調節水門付近で対立し、一触即発の事態となる。

幸い流血事態とはならなかったが、両住民に大きなしこりを残すことになったという。