「ダン池田」の版間の差分
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[[1969年]]、「[[ダン池田とニューブリード]]」を結成し、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[夜のヒットスタジオ]]』のカラー放送開始と同時に専属のバンドとして番組に抜擢される。同番組は人気番組となり、ダン池田の知名度も上がった。 |
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以後、夜ヒットと同じくフジテレビ系の |
以後、夜ヒットと同じくフジテレビ系の『[[オールスター家族対抗歌合戦]]』・『[[スターどっきり(秘)報告|スターどっきり{{MacJapanese|㊙}}報告]]』・『[[オールスター水泳大会]]』、『[[ズバリ!当てましょう]]』(第2期のステレオ放送開始以降)、[[日本放送協会|NHK]]の『[[ひるのプレゼント]]』など主にフジテレビ・NHKの音楽番組を中心に活躍(フジテレビとの専属契約のため紅白を除き、[[TBS]]の『[[ザ・ベストテン]]』等には出演していない)。 |
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『[[NHK紅白歌合戦]]』(NHK)では[[1972年]]~[[1984年]]まで13年間の長期間に渡り指揮者を務めた(尚、[[1974年]]のみは[[原信夫]]とシャープス&フラッツが演奏を担当したため、10回紅組の指揮を担当した。1983年から紅白でバンドが分かれなくなり1983年・1984年は両軍の演奏を担当した)。 |
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[[1985年]][[3月25日]]に月曜日放送の1時間版の『夜のヒットスタジオ』が最終回を迎え16年目に降板。 |
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1985年3月31日、ニューブリードのバンドマスターを交代。 |
1985年3月31日、ニューブリードのバンドマスターを交代。 |
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1985年4月以降は契約の残っているバンドの仕事など他番組の活動は継続した。 |
1985年4月以降は契約の残っているバンドの仕事など他番組の活動は継続した。 |
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同年[[11月|11月12日]]に『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(第1弾・第2弾)という書籍を[[はまの出版]]から出版。本書は自身の1年間分の日記をまとめたものだが、70万部を売り上げる[[ベストセラー]]になった。しかし本書のタイトルに見て取れる通り、芸能界に対して辛辣な表現やタレントへの痛烈批判もあったことから[[暴露本]]と騒がれ、この影響によりニューブリードのバンドマスターを継続するのが困難と判断し、元[[ブルーコメッツ]]の[[小田啓義]]に交代した。同バンドは、さらに同じくブルーコメッツの[[三原綱木]]にバンドマスターを交代した際、「ザ・ニューブリード」に名称を変更、 |
同年[[11月|11月12日]]に『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(第1弾・第2弾)という書籍を[[はまの出版]]から出版。本書は自身の1年間分の日記をまとめたものだが、70万部を売り上げる[[ベストセラー]]になった。しかし本書のタイトルに見て取れる通り、芸能界に対して辛辣な表現やタレントへの痛烈批判もあったことから[[暴露本]]と騒がれ、この影響によりニューブリードのバンドマスターを継続するのが困難と判断し、元[[ブルーコメッツ]]の[[小田啓義]]に交代した。同バンドは、さらに同じくブルーコメッツの[[三原綱木]]にバンドマスターを交代した際、「ザ・ニューブリード」に名称を変更、その後も『[[NHK歌謡コンサート]]』や『NHK紅白歌合戦」、『[[NHKのど自慢#チャンピオン大会|NHKのど自慢チャンピオン大会]]』などで活躍した。 |
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晩年の池田には書籍の出版の影響からか、単発での仕事をこなす位になってしまう。自身で芸能事務所を設立してデュオの演歌歌手をデビューさせたものの、売り出しは失敗に終わってしまい、この後は表舞台に出る機会が減っていった。 |
晩年の池田には書籍の出版の影響からか、単発での仕事をこなす位になってしまう。自身で芸能事務所を設立してデュオの演歌歌手をデビューさせたものの、売り出しは失敗に終わってしまい、この後は表舞台に出る機会が減っていった。 |
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[[1990年代]]以降は昔を懐かしむ映像で |
[[1990年代]]以降は昔を懐かしむ映像で『夜のヒットスタジオ』出演時の活躍ぶりが流れたり、単発で『[[あの人は今!?]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])等の番組に出演したりした以外、ダン池田の姿や活躍していた頃の映像を見る機会がなくなってしまう。 |
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[[1997年]]当時、埼玉県で開業した「ダン池田の店」でマスターをつとめていた。 |
[[1997年]]当時、埼玉県で開業した「ダン池田の店」でマスターをつとめていた。 |
2019年4月30日 (火) 15:40時点における版
ダン 池田 | |
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出生名 | 池田 啓助 |
生誕 | 1935年4月11日 |
出身地 |
日本統治下朝鮮京城府生まれ 日本北海道留萌市育ち |
死没 |
2007年12月25日(72歳没) 埼玉県 |
学歴 | 中央大学経済学部(中退) |
職業 | バンドマスター |
メンバー | ダン池田とニューブリード |
ダン池田(だん いけだ、本名・池田 啓助、1935年4月11日- 2007年12月25日)は、日本のバンドマスター・ラテンパーカッション奏者・指揮者・タレント。
来歴・人物
1935年4月11日、旧朝鮮京城(現ソウル)生まれ、終戦と同時に日本へ引き揚げた日本人である[1]。
芸名の「ダン」は、生徒会長を務めていた高校時代、好きな女子と手を繋ぎたいがためにフォークダンスを開催し、「ダンス」と「啓助」をつなげた「ダン助」というあだ名がついたことに由来するという。
留萌高等学校を経て長野県松代高等学校卒業、中央大学経済学部を中退している。 留萌高校吹奏楽部出身の音楽家にはほかに佐藤勝、森田公一らがいる。
中大在学中からプロのバンド活動を開始。その後、事務員を務めていた。
1969年、「ダン池田とニューブリード」を結成し、フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』のカラー放送開始と同時に専属のバンドとして番組に抜擢される。同番組は人気番組となり、ダン池田の知名度も上がった。
以後、夜ヒットと同じくフジテレビ系の『オールスター家族対抗歌合戦』・『スターどっきり㊙報告』・『オールスター水泳大会』、『ズバリ!当てましょう』(第2期のステレオ放送開始以降)、NHKの『ひるのプレゼント』など主にフジテレビ・NHKの音楽番組を中心に活躍(フジテレビとの専属契約のため紅白を除き、TBSの『ザ・ベストテン』等には出演していない)。
『NHK紅白歌合戦』(NHK)では1972年~1984年まで13年間の長期間に渡り指揮者を務めた(尚、1974年のみは原信夫とシャープス&フラッツが演奏を担当したため、10回紅組の指揮を担当した。1983年から紅白でバンドが分かれなくなり1983年・1984年は両軍の演奏を担当した)。
1985年3月25日に月曜日放送の1時間版の『夜のヒットスタジオ』が最終回を迎え16年目に降板。
1985年3月31日、ニューブリードのバンドマスターを交代。
1985年4月以降は契約の残っているバンドの仕事など他番組の活動は継続した。 同年11月12日に『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(第1弾・第2弾)という書籍をはまの出版から出版。本書は自身の1年間分の日記をまとめたものだが、70万部を売り上げるベストセラーになった。しかし本書のタイトルに見て取れる通り、芸能界に対して辛辣な表現やタレントへの痛烈批判もあったことから暴露本と騒がれ、この影響によりニューブリードのバンドマスターを継続するのが困難と判断し、元ブルーコメッツの小田啓義に交代した。同バンドは、さらに同じくブルーコメッツの三原綱木にバンドマスターを交代した際、「ザ・ニューブリード」に名称を変更、その後も『NHK歌謡コンサート』や『NHK紅白歌合戦」、『NHKのど自慢チャンピオン大会』などで活躍した。
晩年の池田には書籍の出版の影響からか、単発での仕事をこなす位になってしまう。自身で芸能事務所を設立してデュオの演歌歌手をデビューさせたものの、売り出しは失敗に終わってしまい、この後は表舞台に出る機会が減っていった。
1990年代以降は昔を懐かしむ映像で『夜のヒットスタジオ』出演時の活躍ぶりが流れたり、単発で『あの人は今!?』(日本テレビ)等の番組に出演したりした以外、ダン池田の姿や活躍していた頃の映像を見る機会がなくなってしまう。
1997年当時、埼玉県で開業した「ダン池田の店」でマスターをつとめていた。
2007年12月25日、急性呼吸不全のため死去。享年72。近親者のみで密葬を済ませ、「故人の遺志で静かに眠らせてあげたかった」との遺族の意向から、訃報は死去から約2カ月後の2008年2月21日に公表された。