「シナイ半島」の版間の差分
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[[Image:EgyptIsraelBorderEilat.JPG|300px|thumb|[[アカバ湾]]の最奥部(シナイ半島の東側の付け根)に位置する都市[[エイラート]]の北、エジプトとイスラエルの国境線。画像奥が北。<!--コモンズのファイルページより-->]] |
[[Image:EgyptIsraelBorderEilat.JPG|300px|thumb|[[アカバ湾]]の最奥部(シナイ半島の東側の付け根)に位置する都市[[エイラート]]の北、エジプトとイスラエルの国境線。画像奥が北。<!--コモンズのファイルページより-->]] |
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'''シナイ半島'''(シナイはんとう、[[ヘブライ語]]: חצי האי סיני Chetzi HaYi Sinai {{lang-ar| شبه جزيرة سيناء}} Shibh Jazīrat Sīnā')は、[[西アジア]]の[[アラビア半島]]と[[アフリカ大陸]]北東部の間にある[[半島]]。北は[[地中海]]、南は[[紅海]]、東は[[アカバ湾]]、西は[[スエズ湾]]にそれぞれ面している。南へ向けた三角形の形状をしており、 |
'''シナイ半島'''(シナイはんとう、[[ヘブライ語]]: חצי האי סיני Chetzi HaYi Sinai {{lang-ar| شبه جزيرة سيناء}} Shibh Jazīrat Sīnā')は、[[西アジア]]の[[アラビア半島]]と[[アフリカ大陸]]北東部の間にある[[半島]]。[[スエズ運河]]が開鑿前は、アフリカ大陸と[[ユーラシア大陸]]を繋ぐ[[地峡]]であった。北は[[地中海]]、南は[[紅海]]、東は[[アカバ湾]]、西は[[スエズ湾]]にそれぞれ面している。南へ向けた三角形の形状をしており、南端にはムハンマド岬。南部には[[シナイ山]]がある。 |
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行政上は[[エジプト|エジプト・アラブ共和国]]の[[北シナイ県]]と[[南シナイ県]]にあたる。2013年の人口は59万2222人<ref name="kanaya">金谷美紗「揺れるシナイ半島 イスラーム過激派の台頭と民主化への影響」、『中東研究』519号(2014年2月)。</ref>。住民の多くは[[ベドウィン]]である。南シナイ県は紅海とアカバ湾にはさまれた三角形で、沿岸地方で[[観光]]開発が行われ、外国人観光客が訪れる高級[[リゾート]]地がある。また、紅海は美しいダイビングスポットとして知られる。北シナイ県は西に[[スエズ運河]]、東には[[イスラエル]]に面し、北東端で[[パレスチナ国]]([[パレスチナ自治区]])[[ガザ地区]]と接する。 |
行政上は[[エジプト|エジプト・アラブ共和国]]の[[北シナイ県]]と[[南シナイ県]]にあたる。2013年の人口は59万2222人<ref name="kanaya">金谷美紗「揺れるシナイ半島 イスラーム過激派の台頭と民主化への影響」、『中東研究』519号(2014年2月)。</ref>。住民の多くは[[ベドウィン]]である。南シナイ県は紅海とアカバ湾にはさまれた三角形で、沿岸地方で[[観光]]開発が行われ、外国人観光客が訪れる高級[[リゾート]]地がある。また、紅海は美しいダイビングスポットとして知られる。北シナイ県は西に[[スエズ運河]]、東には[[イスラエル]]に面し、北東端で[[パレスチナ国]]([[パレスチナ自治区]])[[ガザ地区]]と接する。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[古代エジプト]]は、シナイ半島を経由して[[パレスチナ]]や[[シリア]]方面に進出したり、逆に侵入を受けたりした。 |
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[[出エジプト記|出エジプト]]後[[ヘブライ人]]らはシナイ半島へ渡り、[[モーセ]]が[[シナイ山]]で[[モーセの十戒|十戒]]を授かったとされる。シナイ山(ガバル・ムーサ)の麓には、337年に[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]帝の母ヘレナによって創建された[[聖カタリナ修道院|聖カトリーナ修道院]]がある。 |
[[出エジプト記|出エジプト]]後[[ヘブライ人]]らはシナイ半島へ渡り、[[モーセ]]が[[シナイ山]]で[[モーセの十戒|十戒]]を授かったとされる。シナイ山(ガバル・ムーサ)の麓には、337年に[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]帝の母ヘレナによって創建された[[聖カタリナ修道院|聖カトリーナ修道院]]がある。 |
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古代における[[ローマ帝国]] |
古代における[[ローマ帝国]]、[[東ローマ帝国]]の領土を経て、中世から近世にかけて[[ウマイヤ朝]]、[[アッバース朝]]、[[ファーティマ朝]]、[[アイユーブ朝]]、[[マムルーク朝]]、[[オスマン帝国]]と興亡する[[イスラム王朝]]の領域へと次々と移り変わっていった。 |
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[[第二次世界大戦]]後は繰り返し[[中東戦争]]の戦場となった。[[第一次中東戦争]](1948~49年)では、[[イスラエル]]を攻撃するエジプト軍が策源地として利用した。[[1952年]]に[[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]]が起きると、そのままエジプト・アラブ共和国の領土となった。[[第二次中東戦争]](1956~57年)ではイスラエルがほぼ全域を制圧したが、米ソの介入で撤退。[[第三次中東戦争]](1967年)で再びイスラエルに占領され、[[第四次中東戦争]](1973年)でも戦場となった。1978年の[[キャンプ・デービッド合意]]によりエジプトへ返還されることとなり、その後、順次返還された。 |
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⚫ | 軍事的な要地ではあるが、南部の一部リゾート地を除いて経済開発は進んでおらず、住民のための水道・医療・教育などの公共サービスは不十分なままである。1990年代に[[イスラーム過激派]]組織が結成され、2004年に[[タバ]]、2005年に[[シャルム・エル・シェイク]]、2006年に[[ダハブ]]で外国人観光客を狙った爆破事件が起きた。[[エジプト革命 (2011年)|2011年の革命]]の後はさらに治安が悪化し、様々な過激派組織が、天然ガスのパイプラインの破壊、イスラエルに対する越境攻撃、エジプト軍と警察に対する襲撃といった武装闘争を展開している<ref name="kanaya"></ref>。 |
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2015年には[[コガリムアビア航空9268便|ロシアの旅客機が墜落する事件]]が起き、[[ISIL]]系列の[[:en:Islamic State of Iraq and the Levant – Sinai Province|イスラム国(ISIL)シナイ州]]が犯行声明を出した。2018年には、シナイ半島の過激派をイスラエルが秘密裏に空爆し、エジプト政府もこれを容認していると報じられた<ref> |
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エジプト・イスラエル 対IS呉越同舟 シナイ半島でテロ掃討/米紙報道([https://mainichi.jp/articles/20180206/ddm/007/030/126000c 記事])『毎日新聞』朝刊2018年2月6日</ref><ref>Secret Alliance:Israel Carries Out Airstrikes in Egypt, With Cairo’s O.K.([https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/middleeast/israel-airstrikes-sinai-egypt.html 記事])The New York Times、2018年2月3日</ref>。 |
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== 主な都市 == |
== 主な都市 == |
2018年2月7日 (水) 05:02時点における版
ナイル川河口(写真左半分)とシナイ半島(右半分) | |
シナイ半島の位置 |
左がスエズ湾、右がアカバ湾 |
シナイ半島(シナイはんとう、ヘブライ語: חצי האי סיני Chetzi HaYi Sinai アラビア語: شبه جزيرة سيناء Shibh Jazīrat Sīnā')は、西アジアのアラビア半島とアフリカ大陸北東部の間にある半島。スエズ運河が開鑿前は、アフリカ大陸とユーラシア大陸を繋ぐ地峡であった。北は地中海、南は紅海、東はアカバ湾、西はスエズ湾にそれぞれ面している。南へ向けた三角形の形状をしており、南端にはムハンマド岬。南部にはシナイ山がある。
行政上はエジプト・アラブ共和国の北シナイ県と南シナイ県にあたる。2013年の人口は59万2222人[1]。住民の多くはベドウィンである。南シナイ県は紅海とアカバ湾にはさまれた三角形で、沿岸地方で観光開発が行われ、外国人観光客が訪れる高級リゾート地がある。また、紅海は美しいダイビングスポットとして知られる。北シナイ県は西にスエズ運河、東にはイスラエルに面し、北東端でパレスチナ国(パレスチナ自治区)ガザ地区と接する。
歴史
古代エジプトは、シナイ半島を経由してパレスチナやシリア方面に進出したり、逆に侵入を受けたりした。
出エジプト後ヘブライ人らはシナイ半島へ渡り、モーセがシナイ山で十戒を授かったとされる。シナイ山(ガバル・ムーサ)の麓には、337年にコンスタンティヌス帝の母ヘレナによって創建された聖カトリーナ修道院がある。
古代におけるローマ帝国、東ローマ帝国の領土を経て、中世から近世にかけてウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝、オスマン帝国と興亡するイスラム王朝の領域へと次々と移り変わっていった。
17世紀に入りオスマン帝国に陰りが見え始めると、オスマン帝国から独立したムハンマド・アリーによるムハンマド・アリー朝の支配下に置かれた。19世紀から20世紀半ばにかけてはエジプト全土とともにイギリスの勢力圏となり、1869年には西側にスエズ運河が建設された。
第二次世界大戦後は繰り返し中東戦争の戦場となった。第一次中東戦争(1948~49年)では、イスラエルを攻撃するエジプト軍が策源地として利用した。1952年にエジプト革命が起きると、そのままエジプト・アラブ共和国の領土となった。第二次中東戦争(1956~57年)ではイスラエルがほぼ全域を制圧したが、米ソの介入で撤退。第三次中東戦争(1967年)で再びイスラエルに占領され、第四次中東戦争(1973年)でも戦場となった。1978年のキャンプ・デービッド合意によりエジプトへ返還されることとなり、その後、順次返還された。
軍事的な要地ではあるが、南部の一部リゾート地を除いて経済開発は進んでおらず、住民のための水道・医療・教育などの公共サービスは不十分なままである。1990年代にイスラーム過激派組織が結成され、2004年にタバ、2005年にシャルム・エル・シェイク、2006年にダハブで外国人観光客を狙った爆破事件が起きた。2011年の革命の後はさらに治安が悪化し、様々な過激派組織が、天然ガスのパイプラインの破壊、イスラエルに対する越境攻撃、エジプト軍と警察に対する襲撃といった武装闘争を展開している[1]。
2015年にはロシアの旅客機が墜落する事件が起き、ISIL系列のイスラム国(ISIL)シナイ州が犯行声明を出した。2018年には、シナイ半島の過激派をイスラエルが秘密裏に空爆し、エジプト政府もこれを容認していると報じられた[2][3]。