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'''景公'''(けいこう)は、[[春秋時代]]の[[斉 (春秋)|斉]]の第26代君主。母の[[穆孟姫]]は[[魯]]の宰相[[叔孫僑如]]の娘。[[霊公 (斉)|霊公]]の子で[[荘公光]]の異母弟。
'''景公'''(けいこう)は、[[春秋時代]]の[[斉 (春秋)|斉]]の第26代君主。母の[[穆孟姫]]は[[魯]]の宰相[[叔孫僑如]]の娘。[[霊公 (斉)|霊公]]の子で[[荘公光]]の異母弟。娘は[[呉 (春秋)|呉]]の[[闔閭]]の子の太子波(太子終纍)に嫁いだ<ref>[[杜預]]の『春秋経伝集解』および『[[史記索隠]]』が引く『[[竹書紀年]]』より。</ref>


== 生涯 ==
兄の荘公が[[横死]]したあと、[[崔杼]]に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は[[晏嬰]]を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により[[司馬穰苴]]を抜擢した。斉は景公のもとで覇者[[桓公 (斉)|桓公]]の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、[[孔子]]も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。
兄の荘公が[[横死]]したあと、[[崔杼]]に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は[[晏嬰]]を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により[[司馬穰苴]]を抜擢した。斉は景公のもとで覇者[[桓公 (斉)|桓公]]の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、[[孔子]]も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。

== 脚注 ==
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{{姜斉の君主|第26代|前547年 - 前490年}}
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2017年5月31日 (水) 07:21時点における版

景公 姜杵臼
第26代公
王朝
在位期間 前547年 - 前490年
姓・諱 姜杵臼
生年 不詳
没年 前490年
霊公
穆孟姫

景公(けいこう)は、春秋時代の第26代君主。母の穆孟姫の宰相叔孫僑如の娘。霊公の子で荘公光の異母弟。娘は闔閭の子の太子波(太子終纍)に嫁いだ[1]

生涯

兄の荘公が横死したあと、崔杼に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は晏嬰を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により司馬穰苴を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。

脚注

  1. ^ 杜預の『春秋経伝集解』および『史記索隠』が引く『竹書紀年』より。