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 メーヌ・ド・ビランの活動期は[[1789年]][[フランス革命]]、[[ナポレオン]]の登場、失脚、王政復古と完全に重なり、政治家としてそれらの時代を生き抜いた(メーヌ・ド・ビランはナポレオンより3歳年下でナポレオン死後3年後に死去、とナポレオンの同世代人)。生前のビランは著名な政治家としての名が高く、哲学は彼の別の面に過ぎなかった。彼の哲学にはその経歴から期待されるような社会的・政治的な匂いはなく、また同時代盛んだった啓蒙主義的な高揚とも無縁で、身体や知覚や感情などに関する内省的な思索で貫かれており、「私たちの生きる通常の世界に降りていく哲学者が必要なのだ」と晩年に記している。<ref>『哲学の歴史 6』中央公論新社、2007年。項目≪メーヌ・ド・ビラン≫(執筆者:村松正隆).600-601頁。 (以下、『哲学の歴史6』と略す)</ref> その哲学に対する姿勢から生まれた思索は後生の哲学者の一部に影響を与え、現代に至る[[フランス・スピリチュアリスム]]や[[フランス現代思想#フランス反省哲学|フランス反省哲学]]の源流として高い評価を受けている。<ref>(1).杉村靖彦『フランス反省哲学における神の問題』哲學研究575号、京都哲學会(2003年)。51頁. <br />(2).関連外部リンク{{Cite web |url=http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/study/cogito.html |title=フランス反省哲学の分岐点(2.反省哲学とは何か) |accessdate=2015-07-29}}</ref>



== 生涯==
== 生涯==
1766年11月29日、フランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビランは[[フランス]]南部、[[ボルドー]]に近い小都市[[ベルジュラック]]で生誕。家庭は祖父も曾祖父も市長を務めたベルジュラックの名家で父親は医師だった。<ref name=f>[[:fr:Maine_de_Biran]]</ref> 家庭で15才まで教育を受け、その後同じフランス南部の[[ペリグー]]にある[[コレージュ]]で古典を学んだ。<ref name=a>『哲学の歴史6』602-604頁.</ref>
[[フランス]]南部の[[ベルジュラック]]出身。1784年に[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の近衛兵となり、[[フランス革命]]初期の1789年10月には[[ヴェルサイユ宮殿]]で国王を護衛した。1797年以降、[[五百人会]]議員、[[立法院 (フランス)|立法院]]議員、[[フランス学士院|学士院]]会員等を歴任した。
[[File:Jacques Bertaux - Prise du palais des Tuileries - 1793.jpg|thumb|左|フランス革命([[8月10日事件]]1792年)]]
1784年(18才)、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の近衛兵となり、[[フランス革命]]初期の1789年10月には[[ヴェルサイユ宮殿]]で国王を護衛し負傷した。近衛兵が解散され、フランス革命後の[[ジャコバン派]]による恐怖政治が始まると故郷へ戻り、自然科学や哲学の勉強に沈潜した。この時期ビランはヨーロッパ各地を旅行して見聞を広めている<ref name=f />。
[[File:Bouchot - Le general Bonaparte au Conseil des Cinq-Cents.jpg|thumb|230px|ブリュメール18日のクーデタ(1799.11.09). 議員たちの抵抗をうけるナポレオン]]
1794年[[テルミドールのクーデター]]により恐怖政治が終わると、地方行政と関わるようになったビランは行政官になり、1797年には[[五百人会]]議員に選ばれたが、同年、ナポレオン・ボナパルト配下の[[擲弾兵]]団がパリに呼び寄せられ(ナポレオン自身は行かなかった)[[総裁政府#フリュクティドール18日のクーデター|フリュクティドール18日のクーデター]]が起きるとビランは王党派として(ビランは一貫して穏健な立憲王政の支持者だった)当選を取り消された。<ref name=a />

1799年11月ナポレオンによる[[ブリュメールのクーデター]]、1804年ナポレオンの[[フランス皇帝]]戴冠による帝政への移行など激動が続くなか、ビランは地方で議会議員、県議会議員、ベルジュラック群長を務めながら地方行政に力を尽くした(橋・川のインフラ整備、文化財保護、産業・人口調査、初等教育の改善など<ref name=a />)。

1810年、[[元老院 (フランス)|元老院]]から[[立法院 (フランス)|立法院]]議員に指名され、1812年から議員として国政に参加。1813年、前年にロシア遠征で大敗したナポレオンが兵力増強を議会に要請したが、ビランは同僚議員と共に戦争継続を求める皇帝ナポレオンに反対する建白書の印刷を可決させた。<ref name=a />ナポレオンは激怒したがその威光はもはや薄れており、[[1814年]]3月パリが陥落し、翌月ナポレオンは[[エルバ島]]へ追放された<ref><sub>「[[ナポレオン・ボナパルト#帝国崩壊へ]]」</sub></ref>。同年、ルイ18世即位による[[フランス復古王政|王政復古]]後、下院の財務官、騎士(シュバリエ)として貴族となり<ref>「メーヌ・ド・ビラン」という呼称はこの時から使い始めている。(『哲学の歴史6』.604頁)</ref>、途中ナポレオンの[[百日天下]](1815年)、極右王党派の急速な勢力拡大による落選(1816年)を除いて、議員の地位を保ち続けた。1824年、ナポレオンの死(1821年)から3年後の7月20日、メーヌ・ド・ビランはパリで死去した。


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== 哲学==
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[[観念論]]の立場から認識に対する研究をはじめたが、[[唯心論]]者となる。晩年は[[神秘主義]]にも接近している。
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内省的方法による感覚知覚を考察し、意識の本質を探究。「精神の生」なる概念を提示している。
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== 参考図書==
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*{{Cite book |和書 |author= |editor=[[松永澄夫]](編集) |title=哲学の歴史〈第6巻〉知識・経験・啓蒙―18世紀 人間の科学に向かって |translator= |date=2007-6|publisher=中央公論新社 |page=599-660頁。(執筆:村松正隆) |NCID= |isbn=978-4124035230 }}
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== 脚注==
== 脚注==
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== 関連項目==
*[[ナポレオン・ボナパルト]]
*[[フランス革命]] 
*[[フランス・スピリチュアリスム]]
*[[フランス反省哲学]]
*[[マールブランシュ]]
*[[ベルクソン]]
*[[モーリス・メルロー=ポンティ]]
*[[ジュール・ラシュリエ]]


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2015年7月29日 (水) 22:00時点における版

メーヌ・ド・ビラン
Maine de Biran
生誕 (1766-11-29) 1766年11月29日
フランス王国ベルジュラック
死没 (1824-07-20) 1824年7月20日(57歳没)
フランスの旗 フランス王国パリ
時代 18-19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 唯心論
研究分野 倫理学精神
認識論形而上学
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フランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビランFrançois Pierre Gontier Maine de Biran1766年11月29日 - 1824年7月20日)は、フランス哲学者政治家。一般に「メーヌ・ド・ビラン」として知られる。

 メーヌ・ド・ビランの活動期は1789年フランス革命ナポレオンの登場、失脚、王政復古と完全に重なり、政治家としてそれらの時代を生き抜いた(メーヌ・ド・ビランはナポレオンより3歳年下でナポレオン死後3年後に死去、とナポレオンの同世代人)。生前のビランは著名な政治家としての名が高く、哲学は彼の別の面に過ぎなかった。彼の哲学にはその経歴から期待されるような社会的・政治的な匂いはなく、また同時代盛んだった啓蒙主義的な高揚とも無縁で、身体や知覚や感情などに関する内省的な思索で貫かれており、「私たちの生きる通常の世界に降りていく哲学者が必要なのだ」と晩年に記している。[1] その哲学に対する姿勢から生まれた思索は後生の哲学者の一部に影響を与え、現代に至るフランス・スピリチュアリスムフランス反省哲学の源流として高い評価を受けている。[2]


生涯

1766年11月29日、フランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビランはフランス南部、ボルドーに近い小都市ベルジュラックで生誕。家庭は祖父も曾祖父も市長を務めたベルジュラックの名家で父親は医師だった。[3] 家庭で15才まで教育を受け、その後同じフランス南部のペリグーにあるコレージュで古典を学んだ。[4]

フランス革命(8月10日事件1792年)

1784年(18才)、ルイ16世の近衛兵となり、フランス革命初期の1789年10月にはヴェルサイユ宮殿で国王を護衛し負傷した。近衛兵が解散され、フランス革命後のジャコバン派による恐怖政治が始まると故郷へ戻り、自然科学や哲学の勉強に沈潜した。この時期ビランはヨーロッパ各地を旅行して見聞を広めている[3]

ブリュメール18日のクーデタ(1799.11.09). 議員たちの抵抗をうけるナポレオン

1794年テルミドールのクーデターにより恐怖政治が終わると、地方行政と関わるようになったビランは行政官になり、1797年には五百人会議員に選ばれたが、同年、ナポレオン・ボナパルト配下の擲弾兵団がパリに呼び寄せられ(ナポレオン自身は行かなかった)フリュクティドール18日のクーデターが起きるとビランは王党派として(ビランは一貫して穏健な立憲王政の支持者だった)当選を取り消された。[4]

1799年11月ナポレオンによるブリュメールのクーデター、1804年ナポレオンのフランス皇帝戴冠による帝政への移行など激動が続くなか、ビランは地方で議会議員、県議会議員、ベルジュラック群長を務めながら地方行政に力を尽くした(橋・川のインフラ整備、文化財保護、産業・人口調査、初等教育の改善など[4])。

1810年、元老院から立法院議員に指名され、1812年から議員として国政に参加。1813年、前年にロシア遠征で大敗したナポレオンが兵力増強を議会に要請したが、ビランは同僚議員と共に戦争継続を求める皇帝ナポレオンに反対する建白書の印刷を可決させた。[4]ナポレオンは激怒したがその威光はもはや薄れており、1814年3月パリが陥落し、翌月ナポレオンはエルバ島へ追放された[5]。同年、ルイ18世即位による王政復古後、下院の財務官、騎士(シュバリエ)として貴族となり[6]、途中ナポレオンの百日天下(1815年)、極右王党派の急速な勢力拡大による落選(1816年)を除いて、議員の地位を保ち続けた。1824年、ナポレオンの死(1821年)から3年後の7月20日、メーヌ・ド・ビランはパリで死去した。

François Pierre Gontier Maine De Biran(1766-1824)

哲学

観念論の立場から認識に対する研究をはじめたが、唯心論者となる。晩年は神秘主義にも接近している。 内省的方法による感覚知覚を考察し、意識の本質を探究。「精神の生」なる概念を提示している。


著作(邦訳)

  • メーヌ・ド・ビラン 著、掛下栄一郎,益邑斉,大崎博,北村晋,阿部文 訳、F.C.T.ムーア(編) 編『人間の身体と精神の関係―コペンハーゲン論考 1811年』早稲田大学出版部、1997年。ISBN 978-4657975195 
    • 『人間の身体と精神の関係―コペンハーゲン論考 1811年』(新装版)、2001年。ISBN 978-4657011022 
  • メーヌ・ド・ビラン 著、増永洋三 訳『人間学新論』晃洋書房、2001年。ISBN 978-4771012950 

関係図書

単独研究・評伝・評論

澤瀉久敬『メーヌ・ド・ビラン』((西哲叢書 21))弘文堂書房、1936年12月。 NCID BN08277240 

  • 北明子『メーヌ・ド・ビランの世界―経験する「私」の哲学 』勁草書房、1997年3月。ISBN 978-4326101160 
  • アンリ・グイエ 著、大崎博,益邑斉 訳『メーヌ・ド・ビラン―生涯と思想』サイエンティスト社、1999年7月。ISBN 978-4914903640 
  • ミシェル・アンリ 著、中敬夫 訳『身体の哲学と現象学―ビラン存在論についての試論』((叢書・ウニベルシタス))法政大学出版局、2000年3月。ISBN 978-4588006685 
  • 中敬夫『メーヌ・ド・ビラン―受動性の経験の現象学』世界思想社、2001年3月。ISBN 978-4790708599 
  • 佐藤国郎『メーヌ・ド・ビラン研究―自我の哲学と形而上学』悠書館、2007年3月31日。ISBN 978-4903487052 
  • 村松正隆『<現われ>とその秩序―メーヌ・ド・ビラン研究』東信堂、2007年4月。ISBN 978-4887137486 

関連研究・評論

  • モーリス・メルロー=ポンティ 著、滝浦静雄ほか 訳『心身の合一―マールブランシュとビランとベルグソンにおける (1981年)』朝日出版社、1981年11月。 
    • モーリス・メルロー=ポンティ 著、滝浦静雄,中村文郎,砂原陽一 訳『心身の合一―マールブランシュとビランとベルクソンにおける』((ちくま学芸文庫))筑摩書房、2007年12月10日。ISBN 978-4480091147 

参考図書

  • 松永澄夫(編集) 編『哲学の歴史〈第6巻〉知識・経験・啓蒙―18世紀 人間の科学に向かって』中央公論新社、2007年6月、599-660頁。(執筆:村松正隆)頁。ISBN 978-4124035230 

脚注

  1. ^ 『哲学の歴史 6』中央公論新社、2007年。項目≪メーヌ・ド・ビラン≫(執筆者:村松正隆).600-601頁。 (以下、『哲学の歴史6』と略す)
  2. ^ (1).杉村靖彦『フランス反省哲学における神の問題』哲學研究575号、京都哲學会(2003年)。51頁.
    (2).関連外部リンクフランス反省哲学の分岐点(2.反省哲学とは何か)”. 2015年7月29日閲覧。
  3. ^ a b fr:Maine_de_Biran
  4. ^ a b c d 『哲学の歴史6』602-604頁.
  5. ^ ナポレオン・ボナパルト#帝国崩壊へ
  6. ^ 「メーヌ・ド・ビラン」という呼称はこの時から使い始めている。(『哲学の歴史6』.604頁)

関連項目