「樺太」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Faso (会話 | 投稿記録)
Faso (会話 | 投稿記録)
4行目: 4行目:
その後数度の変遷を経て、ポーツマス条約締結以降北緯50度以南は日本領となり、[[樺太庁]]を置いて本土に編入していた。
その後数度の変遷を経て、ポーツマス条約締結以降北緯50度以南は日本領となり、[[樺太庁]]を置いて本土に編入していた。


[[世界]] > [[アジア]] > [[東アジア]] > [[日本]] > '''樺太'''
== 地理 ==
[[画像:Sakhalin.png|thumb|212px|樺太島白地図]]


'''樺太'''('''からふと''')は、日本の行政区分の一つを示す名称であり、[[北海道]]の北に位置する'''樺太島'''([[ロシア語|露]]名[[サハリン]])を指す名称でもある。江戸時代は'''北蝦夷(地)'''と呼ばれていた。
その後数度の変遷を経て、ポーツマス条約締結以降北緯50度以南は日本領となり、[[樺太庁]]を置いて本土に編入していた。

== 地理 ==
*[[島]]としての樺太は、面積76400km²、[[北海道]]よりやや小さい。
*[[島]]としての樺太は、面積76400km²、[[北海道]]よりやや小さい。
南の北海道とは[[宗谷海峡]]で隔てられている。北は[[間宮海峡]]を隔てて[[ユーラシア大陸]]と向かい合い、西の[[日本海]]、東の[[オホーツク海]]に囲まれている。
南の北海道とは[[宗谷海峡]]で隔てられている。北は[[間宮海峡]]を隔てて[[ユーラシア大陸]]と向かい合い、西の[[日本海]]、東の[[オホーツク海]]に囲まれている。
13行目: 16行目:


現在、樺太の周囲には[[天然ガス]]田が存在すると見られ、開発に向けて日本はじめ各国が動いている。[[国際石油資本|石油メジャー]]、日本の大手[[商社]]が開発に参加。2004年、採掘された最初の石油が日本に輸出された。
現在、樺太の周囲には[[天然ガス]]田が存在すると見られ、開発に向けて日本はじめ各国が動いている。[[国際石油資本|石油メジャー]]、日本の大手[[商社]]が開発に参加。2004年、採掘された最初の石油が日本に輸出された。

== 語源 ==
[[アイヌ語]]では、[[アムール川]]の[[河口]]から見て「'''カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ''' kamuy kar put ya mosir」(「神が河口に造った島」の意)と呼ぶ。

== 歴史 ==
[[氷河期]]には大陸と陸続だった。日本([[間宮林蔵]]など)やロシア(帝国)の到達以前は南部に[[アイヌ]]、中部に[[ウィルタ]](アイヌは[[オロッコ]]と呼んだ)、北部に[[ニヴヒ]]([[ニヴフ]]とも)などの北方少数民族が[[先住民|先住]]していた。

==北樺太 ==
ここでは、北緯50度以北の樺太島を北樺太とする。
[[樺太・千島交換条約]]以来のロシア領であり、サハリン州に属する。

[[ソビエト連邦]]建国の父・[[レーニン]]は、[[ポーツマス条約]]における樺太割譲は[[帝政ロシア]]による武力を背景にした
領土奪取であると認識していたようで日本に返還を考えていたが、実際には行われなかった。

[[1905年]]の[[日本海海戦]]や[[1920年]][[尼港事件]]に対応した出兵の際は、日本軍の占領下に置かれた事もある。

南樺太が、日本領であったころに北樺太の石油利権を取得し開発を行った事もある。

代表都市は[[オハ]]や[[アレクサンドロフスク・サハリンスキー]]などである。

==南樺太及び樺太島全域==

=== 領土競争時代 ===
[[日露修好通商条約]]及び[[日露間樺太島仮規約]]を[[江戸幕府]]が締結し、日露両国の共同管理となり、明治政府の[[北海道]][[開拓使]]の設置に伴い、北蝦夷地を[[樺太]]と改称した。
*[[1593年]]、[[豊臣秀吉]]が[[松前慶広]]に[[蝦夷地]]全域の支配権を与えた。
*[[1807年]]、北蝦夷(樺太)南部が幕府の直轄地となる。
*[[1809年]]、[[間宮林蔵]]が樺太が[[島]]であることを発見した。
*[[1821年]]、樺太が[[松前藩]]領になる。
*[[1855年]]、[[日露和親条約 | 日魯和親条約]]により、[[1852年]]までに[[日本人]]([[大和民族]])とアイヌが居住した土地は日本領、その他の土地は当面国境を定めないことが決定した。
*[[1867年]]、[[樺太仮規則]]により、正式に日露両国の共同管理地となり、両国民が雑居したが、紛争が絶えなかった。
*[[1870年]]2月13日、[[樺太開拓使]]が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
*[[1871年]]8月7日、樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。

===ロシア領時代===
*[[1875年]][[5月7日]]、[[樺太千島交換条約]]締結により日本は放棄し、ロシア領となる。

===日本領時代===
*[[1905年]][[9月5日]]、[[日露戦争]]後の[[ポーツマス条約]]締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲されて領土となり、[[樺太民政署]]を置く。
*[[1907年]][[3月15日]]、樺太民生署が格上げされ、[[樺太庁]]発足。
*[[1908年]][[3月31日]]、内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。
*[[1915年]][[6月26日]]、勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
*[[1918年]]からの[[シベリア出兵]]の際に日本は北部も占領したが、[[1925年]]に撤兵する。
*[[1929年]]、[[拓務省]]の指示下に[[樺太庁]]が編入される。
*1929年[[3月26日]]、樺太町村制が公示され、町村に[[自治制]]が敷かれる。
*[[1942年]][[11月1日]]、拓務省が他省庁とともに一元化され、[[大東亜省]]になり、樺太庁は[[内務省]]下に変更される。
*[[1945年]][[8月9日]]、[[ソビエト連邦]]が[[日ソ中立条約]]を一方的に破棄して侵攻、8月28日全制圧される。

===ロシア統治下時代===
*[[1951年]][[9月8日]] - [[サンフランシスコ講和条約]]締結により、全樺太の[[領有権]]を放棄し現在にいたる。
南樺太を自国領として主張するソ連が同条約に参加していなかったことから、日本政府は南樺太については帰属が未定であるとの立場を取っているが、実質的にはソ連、およびそれを継承したロシアの施策下にある。

この現状を日本側も黙認する状態であり、在ユジノサハリンスク日本総[[領事館]]を設けている。

===領土問題===
日本国民には、一方的な南樺太の占領を[[侵略]]であるとして憤慨し、ソ連の国際法違反(日ソ中立条約違反)、サンフランシスコ講和条約への未署名、[[ヤルタ協定]]の不当性、日本の[[少数民族]][[アイヌ|アイヌ民族]]が古来から(南樺太あたりまでで、島の北部には到達していないというのが定説)生活していたことなどを根拠に南樺太は日本固有の領土であるとして返還要求をしている人々もいる。

ポーツマス条約を、両国の平和裏の話し合いによって決定されたと判断するか、[[カイロ宣言]]が規定する暴力によって奪取した地域・つまり日露戦争によって奪った地域と解釈するかにより、主張が異なる。

(ただし、カイロ宣言そのものは[[アメリカ合衆国|米]]・[[イギリス|英]]・[[中華民国|華]]の3国によって話し合われたが合意には至っていなかったので本来拘束される必要はないとも考えられる)

'''日本の返還要求の根拠'''
*日本固有の少数民族・アイヌ民族の古来からの南樺太居住
*ポーツマス条約が樺太に関する最後の友好条約との定義
*ソビエト連邦の日ソ中立条約違反
*ヤルタ協定の無効性
*日本降伏後の明白な侵略意図による侵攻
*日露最古の条約・[[日露和親条約 | 日魯和親条約]]の雑居地の概念を現在の観念に是正または日本国民<アイヌ・大和両民族>居住地の概念の是正
(ただし、これの場合は得撫島以北の千島列島の領有主張ができない)

'''ロシアの主張'''
*サンフランシスコ平和条約による日本の樺太放棄(この場合は国際法上未帰属となる)
*ヤルタ協定の有効性
*現在の既成事実
*日本の対ソ無条件降伏
*[[日露戦争]]で奪われた領地の奪還
*戦争での領土略奪の正当性
*日魯和親条約においての雑居地記述をロシア領と解釈

[[Category:サハリン・樺太|からふと]]
[[Category:日本の植民活動|からふと]]
[[Category:日本の領有権問題|からふと]]
[[Category:北東アジアの民族|からふと]]
[[Category:アイヌ|からふと]]
{{stub}}

[[de:Sachalin]]
[[en:Sakhalin]]
[[et:Sahhalin]]
[[fr:Sakhaline]]
[[pl:Sachalin]]
[[zh:库页岛]]


== 語源 ==
== 語源 ==

2004年10月21日 (木) 10:49時点における版

世界 > アジア > 東アジア > 日本 > 樺太

樺太からふと)は、日本の行政区分の一つを示す名称であり、北海道の北に位置する樺太島サハリン)を指す名称でもある。江戸時代は北蝦夷(地)と呼ばれていた。 その後数度の変遷を経て、ポーツマス条約締結以降北緯50度以南は日本領となり、樺太庁を置いて本土に編入していた。

世界 > アジア > 東アジア > 日本 > 樺太

樺太からふと)は、日本の行政区分の一つを示す名称であり、北海道の北に位置する樺太島サハリン)を指す名称でもある。江戸時代は北蝦夷(地)と呼ばれていた。 その後数度の変遷を経て、ポーツマス条約締結以降北緯50度以南は日本領となり、樺太庁を置いて本土に編入していた。

地理

  • としての樺太は、面積76400km²、北海道よりやや小さい。

南の北海道とは宗谷海峡で隔てられている。北は間宮海峡を隔ててユーラシア大陸と向かい合い、西の日本海、東のオホーツク海に囲まれている。

現在、樺太の周囲には天然ガス田が存在すると見られ、開発に向けて日本はじめ各国が動いている。石油メジャー、日本の大手商社が開発に参加。2004年、採掘された最初の石油が日本に輸出された。

語源

アイヌ語では、アムール川河口から見て「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」(「神が河口に造った島」の意)と呼ぶ。

歴史

氷河期には大陸と陸続だった。日本(間宮林蔵など)やロシア(帝国)の到達以前は南部にアイヌ、中部にウィルタ(アイヌはオロッコと呼んだ)、北部にニヴヒニヴフとも)などの北方少数民族が先住していた。

北樺太

ここでは、北緯50度以北の樺太島を北樺太とする。 樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、サハリン州に属する。

ソビエト連邦建国の父・レーニンは、ポーツマス条約における樺太割譲は帝政ロシアによる武力を背景にした 領土奪取であると認識していたようで日本に返還を考えていたが、実際には行われなかった。

1905年日本海海戦1920年尼港事件に対応した出兵の際は、日本軍の占領下に置かれた事もある。

南樺太が、日本領であったころに北樺太の石油利権を取得し開発を行った事もある。

代表都市はオハアレクサンドロフスク・サハリンスキーなどである。

南樺太及び樺太島全域

領土競争時代

日露修好通商条約及び日露間樺太島仮規約江戸幕府が締結し、日露両国の共同管理となり、明治政府の北海道開拓使の設置に伴い、北蝦夷地を樺太と改称した。

ロシア領時代

日本領時代

ロシア統治下時代

南樺太を自国領として主張するソ連が同条約に参加していなかったことから、日本政府は南樺太については帰属が未定であるとの立場を取っているが、実質的にはソ連、およびそれを継承したロシアの施策下にある。

この現状を日本側も黙認する状態であり、在ユジノサハリンスク日本総領事館を設けている。

領土問題

日本国民には、一方的な南樺太の占領を侵略であるとして憤慨し、ソ連の国際法違反(日ソ中立条約違反)、サンフランシスコ講和条約への未署名、ヤルタ協定の不当性、日本の少数民族アイヌ民族が古来から(南樺太あたりまでで、島の北部には到達していないというのが定説)生活していたことなどを根拠に南樺太は日本固有の領土であるとして返還要求をしている人々もいる。

ポーツマス条約を、両国の平和裏の話し合いによって決定されたと判断するか、カイロ宣言が規定する暴力によって奪取した地域・つまり日露戦争によって奪った地域と解釈するかにより、主張が異なる。

(ただし、カイロ宣言そのものはの3国によって話し合われたが合意には至っていなかったので本来拘束される必要はないとも考えられる)

日本の返還要求の根拠

  • 日本固有の少数民族・アイヌ民族の古来からの南樺太居住
  • ポーツマス条約が樺太に関する最後の友好条約との定義
  • ソビエト連邦の日ソ中立条約違反
  • ヤルタ協定の無効性
  • 日本降伏後の明白な侵略意図による侵攻
  • 日露最古の条約・ 日魯和親条約の雑居地の概念を現在の観念に是正または日本国民<アイヌ・大和両民族>居住地の概念の是正

(ただし、これの場合は得撫島以北の千島列島の領有主張ができない)

ロシアの主張

  • サンフランシスコ平和条約による日本の樺太放棄(この場合は国際法上未帰属となる)
  • ヤルタ協定の有効性
  • 現在の既成事実
  • 日本の対ソ無条件降伏
  • 日露戦争で奪われた領地の奪還
  • 戦争での領土略奪の正当性
  • 日魯和親条約においての雑居地記述をロシア領と解釈

語源

アイヌ語では、アムール川河口から見て「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」(「神が河口に造った島」の意)と呼ぶ。

歴史

氷河期には大陸と陸続だった。日本(間宮林蔵など)やロシア(帝国)の到達以前は南部にアイヌ、中部にウィルタ(アイヌはオロッコと呼んだ)、北部にニヴヒニヴフとも)などの北方少数民族が先住していた。

北樺太

ここでは、北緯50度以北の樺太島を北樺太とする。 樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、サハリン州に属する。

ソビエト連邦建国の父・レーニンは、ポーツマス条約における樺太割譲は帝政ロシアによる武力を背景にした 領土奪取であると認識していたようで日本に返還を考えていたが、実際には行われなかった。

1905年日本海海戦1920年尼港事件に対応した出兵の際は、日本軍の占領下に置かれた事もある。

南樺太が、日本領であったころに北樺太の石油利権を取得し開発を行った事もある。

代表都市はオハアレクサンドロフスク・サハリンスキーなどである。

南樺太及び樺太島全域

領土競争時代

日露修好通商条約及び日露間樺太島仮規約江戸幕府が締結し、日露両国の共同管理となり、明治政府の北海道開拓使の設置に伴い、北蝦夷地を樺太と改称した。

ロシア領時代

日本領時代

ロシア統治下時代

南樺太を自国領として主張するソ連が同条約に参加していなかったことから、日本政府は南樺太については帰属が未定であるとの立場を取っているが、実質的にはソ連、およびそれを継承したロシアの施策下にある。

この現状を日本側も黙認する状態であり、在ユジノサハリンスク日本総領事館を設けている。

領土問題

日本国民には、一方的な南樺太の占領を侵略であるとして憤慨し、ソ連の国際法違反(日ソ中立条約違反)、サンフランシスコ講和条約への未署名、ヤルタ協定の不当性、日本の少数民族アイヌ民族が古来から(南樺太あたりまでで、島の北部には到達していないというのが定説)生活していたことなどを根拠に南樺太は日本固有の領土であるとして返還要求をしている人々もいる。

ポーツマス条約を、両国の平和裏の話し合いによって決定されたと判断するか、カイロ宣言が規定する暴力によって奪取した地域・つまり日露戦争によって奪った地域と解釈するかにより、主張が異なる。

(ただし、カイロ宣言そのものはの3国によって話し合われたが合意には至っていなかったので本来拘束される必要はないとも考えられる)

日本の返還要求の根拠

  • 日本固有の少数民族・アイヌ民族の古来からの南樺太居住
  • ポーツマス条約が樺太に関する最後の友好条約との定義
  • ソビエト連邦の日ソ中立条約違反
  • ヤルタ協定の無効性
  • 日本降伏後の明白な侵略意図による侵攻
  • 日露最古の条約・ 日魯和親条約の雑居地の概念を現在の観念に是正または日本国民<アイヌ・大和両民族>居住地の概念の是正

(ただし、これの場合は得撫島以北の千島列島の領有主張ができない)

ロシアの主張

  • サンフランシスコ平和条約による日本の樺太放棄(この場合は国際法上未帰属となる)
  • ヤルタ協定の有効性
  • 現在の既成事実
  • 日本の対ソ無条件降伏
  • 日露戦争で奪われた領地の奪還
  • 戦争での領土略奪の正当性
  • 日魯和親条約においての雑居地記述をロシア領と解釈