コンテンツにスキップ

「フェデリコ・テシオ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
どうせ、世界の名馬列伝集http://lunameiba.blog.enjoy.jp/jp/でリボーは無名じゃないとか書かれてたから消してるだけでしょ。リボーの名で検索してもほとんど画家としての業績も出来ないし、現在では忘れれてる存在であることは確か。
ノートでの合意に基づき、差分74722322の加筆に由来する記述を除去、同時にTemplate:告知を除去
(同じ利用者による、間の14版が非表示)
1行目: 1行目:
'''フェデリコ・テシオ'''(Federico Tesio、[[1869年]][[1月17日]] - [[1954年]][[5月1日]])は[[イタリア]]の馬産家、[[馬主]]、[[調教師]]、[[元老院 (イタリア)|上院議員]]である。当時[[競馬]]が始まったばかりのイタリアで、しかも年間僅か10数頭程度の生産馬から[[リボー]]、[[ネアルコ]]等の世界的名馬を生産した。異名は「ドルメロの魔術師」(Il mago di dormello、イル・マーゴ・ディ・ドルメッロ)。
'''フェデリコ・テシオ'''(Federico Tesio、[[1869年]][[1月17日]]{{Sfn|Morris|2019}} - [[1954年]][[5月1日]]{{Sfn|Morris|2019}})は[[イタリア]]の馬産家{{Sfn|Morris|2019}}{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=499-518}}、[[馬主]]{{Sfn|Morris|2019}}、[[調教師]]{{Sfn|Morris|2019}}{{Sfn|インチーサ|1983|p=81}}、[[元老院 (イタリア)|上院議員]]{{Sfn|テシオ|1970|p=1|loc=ジョン・ヒスロップによるまえがき}}{{Sfn|山野|1993|p=104}}である。当時[[競馬]]が始まったばかりのイタリアで、年間僅か10数頭<ref name="テシオp7">{{Harvnb|テシオ|1970|p=7|loc=エドワード・スピノーラによるはしがき}}</ref>の生産馬から[[リボー]]、[[ネアルコ]]等の世界的名馬を生産した。異名は「ドルメロの魔術師」{{Sfn|Morris|2019}}{{Sfn|テシオ|1970|pp=3, 9|loc=エドワード・スピノーラによるはしがき}}(Il mago di dormello、イル・マーゴ・ディ・ドルメッロ)。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
幼少の頃に両親を亡くし、モンカリエリで13年間学んだ後、騎兵隊の少尉として軍役を終えている。その後両親の遺産を受け継ぐと、[[ギャンブル]]におぼれたり、絵を描いてみたり、アマチュア[[騎手]]をしてみたりと放蕩生活を送っていた。
[[トリノ]]の裕福な家庭に生まれた<ref name="インチーサあとがき">{{Harvnb|インチーサ|1983|pp=149-152|loc=訳者の原田によるあとがきで紹介されているテシオの略歴。}}</ref>。幼少の頃に両親を亡くし{{Sfn|インチーサ|1983|pp=17-18}}[[モンカリエ|モンカリエリ]]の[[寄宿学校]]で13年間学んだ後{{Sfn|インチーサ|1983|pp=17-18}}軍隊に入り騎兵隊の[[少尉]]として軍役を終えた{{Sfn|インチーサ|1983|p=21}}。その後両親の遺産を受け継ぐと世界旅行に出掛け<ref name="インチーサあとがき" />、[[フィレンツェ]]の大学の外交官課程で学び{{Sfn|インチーサ|1983|p=21}}、[[ギャンブル]]におぼれたり、アマチュア[[騎手]]をしてみたりと気ままな生活を送っていた<ref name="インチーサあとがき" />


遊びほうけていたテシオの転機は、妻リディア・テシオ(Lydia Flori di Serramezzana、リディア・フィオーリ・ディ・セッラメッツァーナ)との結婚である。[[1898年]][[ミラノ]]北部マッジョーレ湖の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開いた<ref name="吉沢p57">{{Cite book|和書|author=[[吉沢譲治]]|title=競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|date=2001-10-15|isbn=9784140841419|pages=57}}</ref>。このときテシオ29歳であった<ref name="吉沢p57" />
テシオの転機は、妻リディア・テシオ(Lydia Flori di Serramezzana、リディア・フィオーリ・ディ・セッラメッツァーナ)との結婚である{{Sfn|山野|1993|p=103}}。[[1898年]][[ミラノ]]北部マッジョーレ湖の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開いた<ref name="インチーサあとがき" />{{Sfn|山野|1993|p=103}}{{Sfn|吉沢|2001|p=57}}。このときテシオ29歳であった{{Sfn|吉沢|2001|p=57}}


1930年頃、テシオはオルジアタ牧場を所有するマリオ・インチーサ・デッラ・ロケッタ(Mario Incisa della Rocchetta)侯爵を共同経営者に迎えて「ドルメロ・オルジアタ牧場会社」{{Sfn|インチーサ|1983|p=14}}<ref name="インチーサあとがき" />(Razza Dormello-Olgiata{{Sfn|Morris|2019}})を設立し、生産規模を拡大した{{Sfn|Morris|2019}}<ref name="インチーサあとがき" />{{Sfn|ヒューイット|1985|p=505}}。これによりインチーサの経済的援助を得ることができ{{Sfn|Morris|2019}}<ref name="インチーサあとがき" />、また冬の間は温暖なオルジアタ牧場に馬を移す{{Sfn|テシオ|1970|p=5|loc=エドワード・スピノーラによるはしがき}}{{Sfn|インチーサ|1983|p=85}}{{Sfn|ヒューイット|1985|p=514}}など柔軟な経営が可能となった。その後は[[ネアルコ]]、[[リボー]]など数々の名馬を生産し、[[ヨーロッパ]]の競馬界で一時代を築く。
その後数々の名馬を生産し[[ヨーロッパ]]の競馬界で一時代を築く。イタリア国内ではほぼ無敵だったが、唯一のライバルにジュゼッペ・デ・モンテル(Giuseppe De Montel)がいた。モンテルは豊富な資金力を背景に各国から良血馬を次々に導入し、獲得賞金ベースではテシオを上回っていた。また、[[1929年]]にテシオに先んじて[[オルテッロ]]で[[凱旋門賞]]を制覇している。これに触発されたのかマリオ・インチーサ・デッラ・ロケッタ(Mario Incisa della Rocchetta)侯爵のオルジアタ牧場と提携し規模を拡大。冬の間は温暖なオルジアタ牧場に本拠地を移すなど柔軟な経営を可能とし、その後は[[ドナテッロ (競走馬)|ドナテッロ]]、[[ネアルコ]]等を生産した。
{{Main|#主な生産馬}}


テシオは1954年5月に死去した<ref name="インチーサあとがき" />。その後のドルメロ・オルジアタ牧場会社(Razza Dormello-Olgiata)は妻リディア・テシオとインチーサ家に引き継がれ<ref name="インチーサあとがき" />、マルゲリートヴェルノー、ホガース等の名馬を輩出した。リディアが1968年に死去してから同社はインチーサ家の単独経営となった<ref name="インチーサあとがき" />。その後もドルメロ・オルジアタ牧場会社は馬産を続けており、例えば2019年に{{仮リンク|イタリアオークス|en|Oaks d'Italia}}を制したLamaire(父Casamento、母の父[[カラニシ]])は、同社の生産馬である<ref>{{Cite web|author=Tom Peacock |url=https://www.racingpost.com/bloodstock/italian-oaks-glory-for-sunnyhill-studs-new-stallion-casamento/387190 |title=Italian Oaks glory for Sunnyhill Stud's new stallion Casamento |website=[[レーシング・ポスト|racingpost.com]] |date=2019-06-23 |accessdate=2020-01-17}}</ref>。
テシオは美術愛好家であり、生産馬には[[美術家]]にちなんだ馬名を与えていた<ref name="原田p205">{{Cite book|和書|title=世界の名馬―サイトサイモンからケルソまで |author=原田俊治 |publisher=[[白井透|サラブレッド血統センター]] |date=1970年8月 |page=205}}</ref><ref name="吉沢p71-72">{{Cite book|和書|author=吉沢譲治|title=競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界|pages=71-72}}</ref>。馬名の元となった美術家には、[[ドナテッロ]]、[[ジョヴァンニ・ベッリーニ|ベッリーニ]]、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]のような[[ルネサンス]]期の巨匠に加えて、{{仮リンク|ピエトロ・テネラニ|label=テネラニ|en|Pietro Tenerani}}、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|トゥールーズ=ロートレック]]など、テシオと近い年代の人物も含まれている。代表生産馬の[[リボー]]と[[ネアルコ]]は、それぞれフランスの{{仮リンク|テオデュール=オーギュスタン・リボー|en|Théodule Ribot}}と[[古代ギリシャ]]の{{仮リンク|ネアルコス (画家)|label=ネアルコス|en|Nearchos (painter)}}(イタリア語名:[[:it:Nearco (ceramista)|ネアルコ]])<ref name="原田p205" /><ref name="吉沢p71-72" />から名付けたとされる。珍しいところでは"Nakamuro"<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000335598/|title=Nakamuro (ITY)|work=JBIS (Japan Bloodstock Information System)|publisher=[[日本軽種馬協会|公益社団法人日本軽種馬協会]]|accessdate=2017-10-27}}</ref>(ナカムロ、[[中村不折]]から<ref name="吉沢p71-72" />)、"Tokamura"<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000388931/|title=Tokamura (ITY)|work=JBIS|publisher=日本軽種馬協会|accessdate=2017-10-27}}</ref>(トカムラ、[[高村光太郎]]から<ref name="原田p205" />)といった生産馬もいた。晩年になるとさすがにネタが尽きたのかリボーはかなり無名の画家である。またテシオ自身が[[画家]]でもあり、自身の生産馬の絵画を何点か残している。


== 馬産 ==
テシオの配合方針はかなり複雑で、著書「サラブレッドの生産」にまとめられている。配合する種牡馬の選択にあたっては、スピードと早熟性を重視していた<ref name="吉沢p60">{{Cite book|和書|author=吉沢譲治|title=競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界|page=60}}</ref>。他の大馬産家とは違い自身が生産した名馬をあまり自分では使わず、常に新しい血を求めていた。このため長期にわたって成功を収めることができたという意見もある。ただし例外もおり、[[リボー]]などは[[カヴァリエーレ・ダルピーノ]]からリボーまで一貫してテシオが生産、母もテシオの生産である。
=== 生産方針 ===
生産する馬の[[距離 (競馬)|距離適性]]は[[クラシック_(競馬)#「クラシック距離」|クラシックディスタンス]]重視であった{{Sfn|インチーサ|1983|p=75}}。マイラーや[[距離 (競馬)#競走馬の呼称|スプリンター]]は好まず{{Sfn|インチーサ|1983|p=90}}、こうした「純粋なスピード馬」{{Sfn|インチーサ|1983|p=75}}のことは失敗作だと見なしていた{{Sfn|インチーサ|1983|p=75}}。


自身の最高傑作は生前[[カヴァリエーレ・ダルピーノ]]と周囲に語っていた。ネアルコは真のステイヤーではないとテシオ自身の評価は低く、また悲願であった凱旋門賞を覇したリボーの競走は、自身[[1954年]]にしたため見ることはなかった。
生前、自身の最高傑作は[[カヴァリエーレ・ダルピーノ]]と周囲に語っていた{{Sfn|インチーサ|1983|p=93}}{{Sfn|ヒューイット|1985|p=502}}[[ネアルコ]]は真のステイヤーではないとしてテシオ自身の評価は低く{{Sfn|原田|1970|p=204}}{{Sfn|ヒューイット|1985|p=502}}、また凱旋門賞を覇した[[リボー]]は、テシオが死した時点でまだ未出走であり{{Sfn|Morris|2019}}{{Sfn|インチーサ|1983|p=93}}{{Sfn|ヒューイット|1985|p=502}}、そのレース姿を見る機会はなかった。


=== 配合の傾向 ===
テシオの死後もドルメロ牧場は継続され、マルゲリートヴェルノー、ホガース等の名馬を輩出したが、[[1985年]]のティスランを最後の名馬として[[1992年]]に閉鎖された。
テシオの配合方針はかなり複雑で、著書『[[#CITEREFテシオ1970|サラブレッドの生産]]』にまとめられている。配合理論としては[[ニックス (競馬)|ニックス]]を重視していた{{Sfn|インチーサ|1983|pp=76-78}}{{Sfn|吉沢|2001|p=62}}。また配合する[[種牡馬]]の選択にあたっては、スピードと早熟性を重視していた{{Sfn|ヒューイット|1985|p=507}}{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=526-527}}{{Sfn|吉沢|2001|p=60}}。ただし[[テトラテマ]]のような生粋のスプリンターの種牡馬は起用せず{{Sfn|ヒューイット|1985|p=507}}、3歳時に優れた成績を残して4歳時は[[クラシック (競馬)|クラシック競走]]で活躍できるような、ある程度のスタミナと優れたスピードとを併せ持った種牡馬を理想と考えていた{{Sfn|ヒューイット|1985|p=507}}。テシオの馬産において重要な役割を果たした種牡馬に、[[アヴルサック]]と[[ファロス (競走馬)|ファロス]]がいる{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=526-527}}。


馬産家には、自分の生産した種牡馬を手元に置いて繁殖に多用するタイプ(「ホーム・ブリーダー」{{Sfn|ヒューイット|1985|p=530}})と、自分の生産した種牡馬は外に出して自牧場の繁殖にあまり使わないタイプ(「アウトサイド・ブリーダー」{{Sfn|ヒューイット|1985|p=530}})がいる。テシオは明らかに後者のタイプであり{{Sfn|ヒューイット|1985|p=530}}、第二次世界大戦中はやむを得ず自分の牧場に種牡馬を置いた<ref name="テシオp7" />{{Sfn|インチーサ|1983|p=74}}ものの、それ以外の時期は牧場に種牡馬を置かなかった<ref name="テシオp7" />{{Sfn|インチーサ|1983|p=74}}{{Sfn|ヒューイット|1985|p=501}}。これは所有馬全体の血統的多様性を維持するため<ref name="テシオp7" />と、繁殖牝馬の配合相手を選ぶときに欲や身贔屓によって判断が狂わないようにするため{{Sfn|インチーサ|1983|p=74}}{{Sfn|ヒューイット|1985|p=501}}であった。自分の生産した種牡馬は次代の生産にあまり使わなかった{{Sfn|ヒューイット|1985|p=501}}{{Sfn|ヒューイット|1985|p=530}}が、例外もあり、[[リボー]]は父系曾祖父の[[カヴァリエーレ・ダルピーノ]]、祖父[[ベッリーニ (競走馬)|ベッリーニ]]、父[[テネラニ]]、そしてリボー自身と4代続けてテシオの生産である。
== 主な生産馬 ==

安価な[[繁殖牝馬]]を導入し、世代を重ねて改良することで成果を挙げた{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=510-512}}。リボー、ネアルコ、[[ドナテッロ (競走馬)|ドナテッロ]]は、いずれもテシオが安く買ってきた繁殖牝馬の孫世代である{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=510-512}}。ただし特定の牝系の存続にこだわり過ぎるのは得策ではないとも考えており{{Sfn|ヒューイット|1985|p=514}}、毎年イギリスの[[ニューマーケット (サフォーク州)|ニューマーケット]]に赴いて新しい牝馬を何頭か購入し{{Sfn|インチーサ|1983|pp=10, 73-74}}{{Sfn|山野|1993|p=103}}、牧場の繁殖牝馬の顔ぶれが固定しないように少しずつ入れ替えていた{{Sfn|インチーサ|1983|pp=10, 73-74}}。

=== 同時代の馬産家 ===
エイブラム・S・ヒューイットは、著書『[[#CITEREFヒューイット1985|名馬の生産]]』でテシオを同時代の著名な馬産家の[[アーガー・ハーン3世]]や[[マルセル・ブサック]]と比較し、以下のことを指摘している。
*ブサックはホーム・ブリーダー、テシオはアウトサイド・ブリーダー{{Sfn|ヒューイット|1985|p=530}}。
*アーガー・ハーン3世はスピードを基礎として持久力を作り出せると考えていたが、逆にテシオは持久力を基礎としてスピードを作り出せると信じていたようだ{{Sfn|ヒューイット|1985|p=507}}。

なおテシオの共同経営者であったインチーサによると、1939年頃にアーガー・ハーン3世が、イギリスおよびアイルランドに置いている彼の持ち馬を丸ごと買い取らないかとテシオに持ち掛けたことがあったという{{Sfn|インチーサ|pp=65-67}}。金銭的な条件は折り合いが付きそうだったが、付帯条件(全ての馬を即刻引き取ることや馬だけでなく厩務員の面倒も見ることなど)の点で合意に至らず、実現しなかった{{Sfn|インチーサ|pp=65-67}}。

イタリア国内での数少ないライバルにジュゼッペ・デ・モンテル(Giuseppe De Montel){{Sfn|ヒューイット|1985|pp=505-506}}がいた。デ・モンテルは豊富な資金力を背景に各国から良血馬を次々に導入し、[[1929年]]にはテシオに先んじて[[オルテッロ]]で[[凱旋門賞]]を制覇している{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=505-506}}。当時のイタリアで、自分の繁殖牝馬を国外の種牡馬の元へ積極的に送り込む馬産家は、テシオとデ・モンテルくらいしかいなかった{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=505-506}}。

== 趣味 ==
テシオは美術愛好家であり{{Sfn|インチーサ|1983|pp=35-41}}{{Sfn|吉沢|2001|pp=71-72}}、生産馬には[[美術家]]にちなんだ馬名を与えていた{{Sfn|原田|1970|p=205}}{{Sfn|吉沢|2001|pp=71-72}}。馬名の元となった美術家には、例えば[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]{{Sfn|原田|1970|p=205}}{{Sfn|吉沢|2001|pp=71-72}}、[[ドナテッロ]]{{Sfn|吉沢|2001|pp=71-72}}、[[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]{{Sfn|吉沢|2001|pp=71-72}}などがいる。[[中村不折]]から取ったとされるナカムロ{{Sfn|吉沢|2001|pp=71-72}}(Nakamuro<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000335598/|title=Nakamuro (ITY)|work=JBIS (Japan Bloodstock Information System)|publisher=[[日本軽種馬協会|公益社団法人日本軽種馬協会]]|accessdate=2017-10-27}}</ref>)、[[高村光太郎]]から取ったとされるトカムラ{{Sfn|原田|1970|p=205}}(Tokamura<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000388931/|title=Tokamura (ITY)|work=JBIS|publisher=日本軽種馬協会|accessdate=2017-10-27}}</ref>)といった生産馬もいた。代表生産馬の[[リボー]]と[[ネアルコ]]は、それぞれフランスの{{仮リンク|テオデュール=オーギュスタン・リボー|en|Théodule Ribot}}<ref>{{Cite journal|url=https://www.spiegel.de/spiegel/print/d-41120361.html |title= PFERDE / RIBOT - Hengst mit fünf Gängen |journal=[[デア・シュピーゲル|Der Spiegel]] |date=1957-01-27 |language=ドイツ語 |accessdate=2020-01-05}} [https://magazin.spiegel.de/EpubDelivery/spiegel/pdf/41120361 当時の誌面(PDF)]</ref>{{Sfn|山野|1993|p=105}}と[[古代ギリシャ]]の{{仮リンク|ネアルコス (画家)|label=ネアルコス|en|Nearchos (painter)}}(イタリア語名:[[:it:Nearco (ceramista)|ネアルコ]]){{Sfn|原田|1970|p=205}}{{Sfn|吉沢|2001|pp=71-72}}から名付けたとされる。

テシオ自身が画家でもあり{{Sfn|インチーサ|1983|pp=35-41}}{{Sfn|山野|1993|p=105}}、妻のリディアや自身の生産馬(トルビド、テネラニ)の肖像画などを何点か残している{{Sfn|インチーサ|1983|pp=35-41}}{{Sfn|インチーサ|1983|loc=74ページと75ページの間の図版ページ}}。また家具作りも趣味としていた{{Sfn|インチーサ|1983|pp=35-41}}{{Sfn|インチーサ|1983|loc=74ページと75ページの間の図版ページ}}。一時期は自前の家具工房を持つほど熱中しており{{Sfn|インチーサ|1983|pp=35-41}}、ドルメロ牧場の家具類のほぼ全ては自分でデザイン・製造したものであった{{Sfn|インチーサ|1983|pp=35-41}}。

== 生産者としての記録 ==
*[[デルビーイタリアーノ|イタリアダービー(デルビーイタリアーノ)]] - 通算22勝{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=508-509}}
*{{仮リンク|イタリアオークス|en|Oaks d'Italia}} - 通算11勝{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=508-509}}
*{{仮リンク|セントレジャーイタリアーノ|label=イタリアセントレジャー|en|St. Leger Italiano}} - 通算18勝{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=508-509}}
*[[ミラノ大賞典]] - 通算22勝{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=508-509}}
*[[凱旋門賞]] - 通算2勝{{Sfn|ヒューイット|1985|pp=508-509}}

など

== 主な生産馬 ==
* [[リボー]](Ribot、1952) 16戦16勝、凱旋門賞連覇、[[キングジョージ6世&amp;クイーンエリザベスステークス]]、[[ミラノ大賞典]]、[[ジョッキークラブ大賞 (イタリア)|ジョッキークラブ大賞]]、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、英[[リーディングサイアー]]3回
* [[リボー]](Ribot、1952) 16戦16勝、凱旋門賞連覇、[[キングジョージ6世&amp;クイーンエリザベスステークス]]、[[ミラノ大賞典]]、[[ジョッキークラブ大賞 (イタリア)|ジョッキークラブ大賞]]、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、英[[リーディングサイアー]]3回
* [[ネアルコ]](Nearco、1935) 14戦14勝、[[パリ大賞典]]、[[デルビーイタリアーノ]]、イタリア大賞、[[ミラノ大賞典]]、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、キウスラ賞、パリオリ賞(伊[[2000ギニー]]に相当)、英リーディングサイアー3回
* [[ネアルコ]](Nearco、1935) 14戦14勝、[[パリ大賞典]]、[[デルビーイタリアーノ]]、イタリア大賞、[[ミラノ大賞典]]、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、キウスラ賞、パリオリ賞(伊[[2000ギニー]]に相当)、英リーディングサイアー3回
33行目: 64行目:
* アストルフィーナ(Astolfina、1945) 19戦14勝、エレナ王妃賞、パリオリ賞、伊オークス、ジョッキークラブ大賞、ミラノ大賞典
* アストルフィーナ(Astolfina、1945) 19戦14勝、エレナ王妃賞、パリオリ賞、伊オークス、ジョッキークラブ大賞、ミラノ大賞典
* ドーミエ(Daumier、1948) 15戦13勝、デルビーイタリアーノ、セントレジャーイタリアーノ、ジョッキークラブ大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム
* ドーミエ(Daumier、1948) 15戦13勝、デルビーイタリアーノ、セントレジャーイタリアーノ、ジョッキークラブ大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム

他イタリアクラシックホース数十頭。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author1=フェデリコ・テシオ(著) |author2=エドワード・スピノーラ(編・英訳) |author3=佐藤正人(和訳) |title=サラブレッドの研究 |publisher=[[日本中央競馬会]] |date=1970年12月 |ref={{SfnRef|テシオ|1970}}}}
*{{Cite book|和書|title=世界の名馬―サイトサイモンからケルソまで |author=原田俊治 |publisher=[[白井透|サラブレッド血統センター]] |date=1970年8月 |ref={{SfnRef|原田|1970}}}}
*{{Cite book|和書|author1=マリオ・インチーサ(著) |author2=原田俊治(訳) |title=天才テシオの横顔 |publisher=日本中央競馬会馬事部馬事課 |date=1983年7月|ref={{SfnRef|インチーサ|1983}}}}
*{{Cite book|和書|author1=エイブラム・S・ヒューイット(著) |author2=佐藤正人(訳) |title=名馬の生産: 世界の名生産者とその方式 |publisher=サラブレッド血統センター |date=1985年1月 |ref={{SfnRef|ヒューイット|1985}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[山野浩一]]|title=伝説の名馬 Part I |publisher=[[中央競馬ピーアール・センター]] |date=1993年10月 |isbn=4924426377 |ref={{SfnRef|山野|1993}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[吉沢譲治]]|title=競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|date=2001-10-15|isbn=9784140841419|ref={{SfnRef|吉沢|2001}}}}
*{{Cite web|author=Tony Morris |title=150 years after his birth, Tesio still ranks as racing's greatest all-rounder |url=https://www.racingpost.com/bloodstock/150-years-after-his-birth-tesio-still-ranks-as-racings-greatest-all-rounder/361576 |website=[[レーシング・ポスト|racingpost.com]] |date=2019-01-16 |accessdate=2020-01-07 |ref={{SfnRef|Morris|2019}}}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2020年2月5日 (水) 12:45時点における版

フェデリコ・テシオ(Federico Tesio、1869年1月17日[1] - 1954年5月1日[1])はイタリアの馬産家[1][2]馬主[1]調教師[1][3]上院議員[4][5]である。当時競馬が始まったばかりのイタリアで、年間僅か10数頭[6]の生産馬からリボーネアルコ等の世界的名馬を生産した。異名は「ドルメロの魔術師」[1][7](Il mago di dormello、イル・マーゴ・ディ・ドルメッロ)。

生涯

トリノの裕福な家庭に生まれた[8]。幼少の頃に両親を亡くし[9]モンカリエリ寄宿学校で13年間学んだ後[9]、軍隊に入り騎兵隊の少尉として軍役を終えた[10]。その後両親の遺産を受け継ぐと世界旅行に出掛け[8]フィレンツェの大学の外交官課程で学び[10]ギャンブルにおぼれたり、アマチュア騎手をしてみたりと気ままな生活を送っていた[8]

テシオの転機は、妻リディア・テシオ(Lydia Flori di Serramezzana、リディア・フィオーリ・ディ・セッラメッツァーナ)との結婚である[11]1898年ミラノ北部マッジョーレ湖の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開いた[8][11][12]。このときテシオ29歳であった[12]

1930年頃、テシオはオルジアタ牧場を所有するマリオ・インチーサ・デッラ・ロケッタ(Mario Incisa della Rocchetta)侯爵を共同経営者に迎えて「ドルメロ・オルジアタ牧場会社」[13][8](Razza Dormello-Olgiata[1])を設立し、生産規模を拡大した[1][8][14]。これによりインチーサの経済的援助を得ることができ[1][8]、また冬の間は温暖なオルジアタ牧場に馬を移す[15][16][17]など柔軟な経営が可能となった。その後はネアルコリボーなど数々の名馬を生産し、ヨーロッパの競馬界で一時代を築く。

テシオは1954年5月に死去した[8]。その後のドルメロ・オルジアタ牧場会社(Razza Dormello-Olgiata)は妻リディア・テシオとインチーサ家に引き継がれ[8]、マルゲリートヴェルノー、ホガース等の名馬を輩出した。リディアが1968年に死去してから同社はインチーサ家の単独経営となった[8]。その後もドルメロ・オルジアタ牧場会社は馬産を続けており、例えば2019年にイタリアオークスを制したLamaire(父Casamento、母の父カラニシ)は、同社の生産馬である[18]

馬産

生産方針

生産する馬の距離適性クラシックディスタンス重視であった[19]。マイラーやスプリンターは好まず[20]、こうした「純粋なスピード馬」[19]のことは失敗作だと見なしていた[19]

生前、自身の最高傑作はカヴァリエーレ・ダルピーノだと周囲に語っていた[21][22]ネアルコは真のステイヤーではないとしてテシオ自身の評価は低く[23][22]、また凱旋門賞を連覇したリボーは、テシオが死去した時点でまだ未出走であり[1][21][22]、そのレース姿を見る機会はなかった。

配合の傾向

テシオの配合方針はかなり複雑で、著書『サラブレッドの生産』にまとめられている。配合理論としてはニックスを重視していた[24][25]。また配合する種牡馬の選択にあたっては、スピードと早熟性を重視していた[26][27][28]。ただしテトラテマのような生粋のスプリンターの種牡馬は起用せず[26]、3歳時に優れた成績を残して4歳時はクラシック競走で活躍できるような、ある程度のスタミナと優れたスピードとを併せ持った種牡馬を理想と考えていた[26]。テシオの馬産において重要な役割を果たした種牡馬に、アヴルサックファロスがいる[27]

馬産家には、自分の生産した種牡馬を手元に置いて繁殖に多用するタイプ(「ホーム・ブリーダー」[29])と、自分の生産した種牡馬は外に出して自牧場の繁殖にあまり使わないタイプ(「アウトサイド・ブリーダー」[29])がいる。テシオは明らかに後者のタイプであり[29]、第二次世界大戦中はやむを得ず自分の牧場に種牡馬を置いた[6][30]ものの、それ以外の時期は牧場に種牡馬を置かなかった[6][30][31]。これは所有馬全体の血統的多様性を維持するため[6]と、繁殖牝馬の配合相手を選ぶときに欲や身贔屓によって判断が狂わないようにするため[30][31]であった。自分の生産した種牡馬は次代の生産にあまり使わなかった[31][29]が、例外もあり、リボーは父系曾祖父のカヴァリエーレ・ダルピーノ、祖父ベッリーニ、父テネラニ、そしてリボー自身と4代続けてテシオの生産である。

安価な繁殖牝馬を導入し、世代を重ねて改良することで成果を挙げた[32]。リボー、ネアルコ、ドナテッロは、いずれもテシオが安く買ってきた繁殖牝馬の孫世代である[32]。ただし特定の牝系の存続にこだわり過ぎるのは得策ではないとも考えており[17]、毎年イギリスのニューマーケットに赴いて新しい牝馬を何頭か購入し[33][11]、牧場の繁殖牝馬の顔ぶれが固定しないように少しずつ入れ替えていた[33]

同時代の馬産家

エイブラム・S・ヒューイットは、著書『名馬の生産』でテシオを同時代の著名な馬産家のアーガー・ハーン3世マルセル・ブサックと比較し、以下のことを指摘している。

  • ブサックはホーム・ブリーダー、テシオはアウトサイド・ブリーダー[29]
  • アーガー・ハーン3世はスピードを基礎として持久力を作り出せると考えていたが、逆にテシオは持久力を基礎としてスピードを作り出せると信じていたようだ[26]

なおテシオの共同経営者であったインチーサによると、1939年頃にアーガー・ハーン3世が、イギリスおよびアイルランドに置いている彼の持ち馬を丸ごと買い取らないかとテシオに持ち掛けたことがあったという[34]。金銭的な条件は折り合いが付きそうだったが、付帯条件(全ての馬を即刻引き取ることや馬だけでなく厩務員の面倒も見ることなど)の点で合意に至らず、実現しなかった[34]

イタリア国内での数少ないライバルにジュゼッペ・デ・モンテル(Giuseppe De Montel)[35]がいた。デ・モンテルは豊富な資金力を背景に各国から良血馬を次々に導入し、1929年にはテシオに先んじてオルテッロ凱旋門賞を制覇している[35]。当時のイタリアで、自分の繁殖牝馬を国外の種牡馬の元へ積極的に送り込む馬産家は、テシオとデ・モンテルくらいしかいなかった[35]

趣味

テシオは美術愛好家であり[36][37]、生産馬には美術家にちなんだ馬名を与えていた[38][37]。馬名の元となった美術家には、例えばボッティチェッリ[38][37]ドナテッロ[37]ドーミエ[37]などがいる。中村不折から取ったとされるナカムロ[37](Nakamuro[39])、高村光太郎から取ったとされるトカムラ[38](Tokamura[40])といった生産馬もいた。代表生産馬のリボーネアルコは、それぞれフランスのテオデュール=オーギュスタン・リボー[41][42]古代ギリシャネアルコス英語版(イタリア語名:ネアルコ[38][37]から名付けたとされる。

テシオ自身が画家でもあり[36][42]、妻のリディアや自身の生産馬(トルビド、テネラニ)の肖像画などを何点か残している[36][43]。また家具作りも趣味としていた[36][43]。一時期は自前の家具工房を持つほど熱中しており[36]、ドルメロ牧場の家具類のほぼ全ては自分でデザイン・製造したものであった[36]

生産者としての記録

など

主な生産馬

  • リボー(Ribot、1952) 16戦16勝、凱旋門賞連覇、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスミラノ大賞典ジョッキークラブ大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、英リーディングサイアー3回
  • ネアルコ(Nearco、1935) 14戦14勝、パリ大賞典デルビーイタリアーノ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、キウスラ賞、パリオリ賞(伊2000ギニーに相当)、英リーディングサイアー3回
  • ドナテッロ(Donatello、1934 ) 9戦8勝、デルビーイタリアーノ、ミラノ大賞、イタリア大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム
  • ボッティチェッリ(Botticelli、1951) 18戦14勝、アスコットゴールドカップ、イタリアクラシック三冠、イタリア大賞、ミラノ大賞典、クリテリウムナツィオナーレ
  • テネラニ(Tenerani、1944) 24戦17勝、デルビーイタリアーノ、クイーンエリザベスステークス(現キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス)、グッドウッドカップ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、セントレジャーイタリアーノ、伊ジョッキークラブ大賞、リボーの父
  • ベッリーニ(Bellini、1937) 23戦15勝、デルビーイタリアーノ、ファッショ賞(セントレジャーイタリアーノ)、ジョッキークラブ大賞、テネラニの父
  • カヴァリエーレ・ダルピーノ(Cavaliere d'Arpino、1926) 5戦5勝、ミラノ大賞典、イタリアリーディングサイアー、ベッリーニの父
  • ロマネッラ(Romanella、1943) 7戦5勝、クリテリウムナツィオナーレ、リボーの母
  • ノガラ(Nogara、1928) 18戦14勝、エレナ王妃賞(伊1000ギニーに相当)、パリオリ賞、クリテリウムナツィオナーレ、ネアルコの母
  • ブラック(Braque、1954) 12戦全勝、デルビーイタリアーノ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、セントレジャーイタリアーノ
  • スコパス(Scopas、1919) 6勝、バーデン大賞、伊ジョッキークラブ大賞
  • アペレ(Apelle、1923) 23戦14勝、デルビーレアーレ、ミラノ大賞典、コロネーションカップフランスリーディングサイアー
  • ニコロデラルカ(Niccolo dell'Arca、1938) 15戦12勝、イタリアクラシック三冠、イタリア大賞、ミラノ大賞典、伊グランクリテリウム、ネアルコの半弟
  • トレヴィサーナ(Trevisana、1945) 22戦17勝、イタリア大賞、セントレジャーイタリアーノ、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム
  • アストルフィーナ(Astolfina、1945) 19戦14勝、エレナ王妃賞、パリオリ賞、伊オークス、ジョッキークラブ大賞、ミラノ大賞典
  • ドーミエ(Daumier、1948) 15戦13勝、デルビーイタリアーノ、セントレジャーイタリアーノ、ジョッキークラブ大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j Morris 2019.
  2. ^ ヒューイット 1985, pp. 499–518.
  3. ^ インチーサ 1983, p. 81.
  4. ^ テシオ 1970, p. 1, ジョン・ヒスロップによるまえがき.
  5. ^ 山野 1993, p. 104.
  6. ^ a b c d テシオ 1970, p. 7, エドワード・スピノーラによるはしがき
  7. ^ テシオ 1970, pp. 3, 9, エドワード・スピノーラによるはしがき.
  8. ^ a b c d e f g h i j インチーサ 1983, pp. 149–152, 訳者の原田によるあとがきで紹介されているテシオの略歴。
  9. ^ a b インチーサ 1983, pp. 17–18.
  10. ^ a b インチーサ 1983, p. 21.
  11. ^ a b c 山野 1993, p. 103.
  12. ^ a b 吉沢 2001, p. 57.
  13. ^ インチーサ 1983, p. 14.
  14. ^ ヒューイット 1985, p. 505.
  15. ^ テシオ 1970, p. 5, エドワード・スピノーラによるはしがき.
  16. ^ インチーサ 1983, p. 85.
  17. ^ a b ヒューイット 1985, p. 514.
  18. ^ Tom Peacock (2019年6月23日). “Italian Oaks glory for Sunnyhill Stud's new stallion Casamento”. racingpost.com. 2020年1月17日閲覧。
  19. ^ a b c インチーサ 1983, p. 75.
  20. ^ インチーサ 1983, p. 90.
  21. ^ a b インチーサ 1983, p. 93.
  22. ^ a b c ヒューイット 1985, p. 502.
  23. ^ 原田 1970, p. 204.
  24. ^ インチーサ 1983, pp. 76–78.
  25. ^ 吉沢 2001, p. 62.
  26. ^ a b c d ヒューイット 1985, p. 507.
  27. ^ a b ヒューイット 1985, pp. 526–527.
  28. ^ 吉沢 2001, p. 60.
  29. ^ a b c d e ヒューイット 1985, p. 530.
  30. ^ a b c インチーサ 1983, p. 74.
  31. ^ a b c ヒューイット 1985, p. 501.
  32. ^ a b ヒューイット 1985, pp. 510–512.
  33. ^ a b インチーサ 1983, pp. 10, 73–74.
  34. ^ a b インチーサ, pp. 65–67.
  35. ^ a b c ヒューイット 1985, pp. 505–506.
  36. ^ a b c d e f インチーサ 1983, pp. 35–41.
  37. ^ a b c d e f g 吉沢 2001, pp. 71–72.
  38. ^ a b c d 原田 1970, p. 205.
  39. ^ Nakamuro (ITY)”. JBIS (Japan Bloodstock Information System). 公益社団法人日本軽種馬協会. 2017年10月27日閲覧。
  40. ^ Tokamura (ITY)”. JBIS. 日本軽種馬協会. 2017年10月27日閲覧。
  41. ^ “PFERDE / RIBOT - Hengst mit fünf Gängen” (ドイツ語). Der Spiegel. (1957-01-27). https://www.spiegel.de/spiegel/print/d-41120361.html 2020年1月5日閲覧。.  当時の誌面(PDF)
  42. ^ a b 山野 1993, p. 105.
  43. ^ a b インチーサ 1983, 74ページと75ページの間の図版ページ.
  44. ^ a b c d e ヒューイット 1985, pp. 508–509.

参考文献

  • フェデリコ・テシオ(著)、エドワード・スピノーラ(編・英訳)、佐藤正人(和訳)『サラブレッドの研究』日本中央競馬会、1970年12月。 
  • 原田俊治『世界の名馬―サイトサイモンからケルソまで』サラブレッド血統センター、1970年8月。 
  • マリオ・インチーサ(著)、原田俊治(訳)『天才テシオの横顔』日本中央競馬会馬事部馬事課、1983年7月。 
  • エイブラム・S・ヒューイット(著)、佐藤正人(訳)『名馬の生産: 世界の名生産者とその方式』サラブレッド血統センター、1985年1月。 
  • 山野浩一『伝説の名馬 Part I』中央競馬ピーアール・センター、1993年10月。ISBN 4924426377 
  • 吉沢譲治『競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界』日本放送出版協会、2001年10月15日。ISBN 9784140841419 
  • Tony Morris (2019年1月16日). “150 years after his birth, Tesio still ranks as racing's greatest all-rounder”. racingpost.com. 2020年1月7日閲覧。

外部リンク