コンテンツにスキップ

「日朗」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎略歴: CO要出典記述
→‎略歴: 内容修正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
18行目: 18行目:


== 略歴 ==
== 略歴 ==
1261年(文応2年)[[日蓮]]を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に[[押込]]となる。1274年(文永11年)[[佐渡国|佐渡]]に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る{{Refnest|group="注釈"|赦免状を携えて渡佐したことに対し、日蓮正宗は、これを伝説と位置付け幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはありえない、としている{{Sfn | 阿部 | 1981 | p = 258 }}。}}。<!--また、日蓮滅後に日蓮の遺言として「佛は釈迦立像 墓所の傍らに立て置くべし云々」{{Sfn |『宗祖御遷化記録』御所持佛教の事(国指定重要文化財指定) | 弘安5年(1282年)10月16日 | 西山本門寺蔵 }}と定められ、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、遺言に背き勝手に持ち去っている{{要出典|date=201973(水) 06:36 (UTC)}}。-->
1261年(文応2年)[[日蓮]]を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に[[押込]]となる。1274年(文永11年)[[佐渡国|佐渡]]に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る{{Refnest|group="注釈"|赦免状を携えて渡佐したことに対し、日蓮正宗は、これを伝説と位置付け幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはありえない、やはり幕府の役人が届けたであろうとしている{{Sfn | 日蓮大聖人正伝(改訂版) | 2012年 | p = 256 }}。}}。
また、日蓮滅後に日蓮の遺言として「佛は釈迦立像
墓所の傍らに立て置くべし云々」{{Sfn |『宗祖御遷化記録』御所持佛教の事(国指定重要文化財指定) | 弘安5年(1282年)10月16日 | 西山本門寺蔵 }}と定められ、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、遺言に背き勝手に持ち(奪い)去っている{{Sfn |『原殿御返事』 | 正応元(1288年)1216|『日蓮正宗聖典』p = 557 }。
1282年(弘安5年)[[池上宗仲]]の協力のもと、[[池上本門寺]]の基礎を築いた。1309年(延慶2年)[[千葉胤貞]]の妻より、土地の寄進を受け、[[本土寺]]を建立する。1320年(元応2年)[[安国論寺]]にて荼毘に付され、[[法性寺 (逗子市)|法性寺]]に葬られた。
1282年(弘安5年)[[池上宗仲]]の協力のもと、[[池上本門寺]]の基礎を築いた。1309年(延慶2年)[[千葉胤貞]]の妻より、土地の寄進を受け、[[本土寺]]を建立する。1320年(元応2年)[[安国論寺]]にて荼毘に付され、[[法性寺 (逗子市)|法性寺]]に葬られた。



2019年8月28日 (水) 15:50時点における版

日朗
1245年 - 1320年
筑後房
諡号 日朗菩薩(後光厳天皇より)
生地 下総国
没地 武蔵国
宗派 日蓮宗
寺院 池上本門寺
日蓮
弟子 日輪日印日像
安国論寺法性寺
テンプレートを表示

日朗(にちろう、寛元3年4月8日1245年5月5日(ユリウス暦)) - 元応2年1月21日1320年3月1日(ユリウス暦))は、鎌倉時代日蓮宗法華宗。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国

略歴

1261年(文応2年)日蓮を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に押込となる。1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る[注釈 1]。 また、日蓮滅後に日蓮の遺言として「佛は釈迦立像

墓所の傍らに立て置くべし云々」[2]と定められ、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、遺言に背き勝手に持ち(奪い)去っている{{Sfn |『原殿御返事』 | 正応元年(1288年)12月16日 |『日蓮正宗聖典』p = 557 }。

1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立する。1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた。

日朗ゆかりの寺

四長四本(本山)

弟子・日印の開山で山吉氏が建立した青蓮華寺に、初祖となることを承諾し、長久山本成寺という名を与えている。

日朗の弟子

脚注

注釈

  1. ^ 赦免状を携えて渡佐したことに対し、日蓮正宗は、これを伝説と位置付け幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはありえない、やはり幕府の役人が届けたであろうとしている[1]

出典

参考文献

  • 『日蓮大聖人正伝』阿部日顕(監修)(初版)、日蓮正宗総本山大石寺、静岡県富士宮市上条2057、1981年10月13日。ASIN B000J7P05ONCID BA39623027