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「アフォンソ1世 (ポルトガル王)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[ファイル:AfonsoI-P.jpg|thumb|right|240px|アフォンソ1世]]
| 人名 = アフォンソ1世
'''アフォンソ1世'''('''Afonso I''', [[1109年]][[7月25日]] - [[1185年]][[12月6日]])は、[[ポルトガル王国]]を建国した[[ブルゴーニュ王朝]]の初代[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[ポルトガル君主一覧|王]](在位:[[1139年]] - 1185年)。父は[[ブルゴーニュ家]]出身の[[ポルトゥカーレ伯領|ポルトゥカーレ伯]][[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|エンリケ]](フランス語名アンリ、公位を継いだ[[ユーグ1世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ1世]]、[[ウード1世 (ブルゴーニュ公)|ウード1世]]の弟)。母は[[カスティーリャ王国|カスティーリャ=レオン]]王[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]の庶子[[テレサ・デ・レオン|テレサ]]。'''アフォンソ・エンリケス'''とも呼ばれる([[エンリケス]]は「[[エンリケ]]の子」を意味する)。
| 各国語表記 = Afonso I
| 君主号 =
| 画像 = Afonso I Henriques de Portugal.jpg
| 画像サイズ = 160px
| 画像説明 = アフォンソ1世
| 在位 = [[1139年]] - [[1185年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1109年]]?
| 生地 = [[ギマランイス]]
| 死亡日 = [[1185年]][[12月6日]]
| 没地 = [[コインブラ]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
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| 配偶者1 = [[マファルダ・デ・サボイア (ポルトガル王妃)|マファルダ・デ・サボイア]]
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| 子女 = [[#家族|後述]]
| 王家 = ブルゴーニュ家(ボルゴーニャ家)
| 王朝 = [[ブルゴーニュ王朝]](ボルゴーニャ王朝)
| 父親 = [[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|エンリケ]]
| 母親 = [[テレサ・デ・レオン]]
| 宗教 =
| サイン =
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'''アフォンソ1世'''('''Afonso I''', [[1109年]]? - [[1185年]][[12月6日]])は、[[ポルトガル王国]]を建国した[[ブルゴーニュ王朝]](ボルゴーニャ王朝)の初代[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[ポルトガル君主一覧|王]](在位:[[1139年]] - 1185年)。「エンリケの子」を意味する'''アフォンソ・エンリケス'''('''Afonso Henriques''')の名前でも呼ばれる。
[[1112年]]に父の後を継いでポルトゥカーレ伯になるが、母の摂政下にあった。しかし、[[1120年]]に母と対立し、追放される。[[1122年]]、アフォンソは14歳で自立し、[[1128年]]に母とその愛人ガリシア伯と対戦し、彼らを追放した。さらに、宗主国である[[カスティーリャ王国|カスティーリャ=レオン王国]]と戦い、[[1129年]]にポルトゥカーレ公として独立した。


後、南部のイスラム勢力と戦って土を広げ、1139年7月26日に[[ーリの戦い]]で大勝収めるとトガル王を称した。カスティーリャ=レオン王[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]]は独立を認めず、アフォンソ1世は[[アラゴ王国]]と同盟し、これと戦った。[[1143年]]に和平が成立し、ポルトガル王国が承認された
父は[[ブルゴーニュ家]]出身[[ポルトゥカーレ伯|ポルトゥカーレ伯]][[エンリケ (ポルトゥカレ伯)|エンリケ]](フランス語名アンリ、公位継いだ[[ユーグ1世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ1世]][[ウード1世 (ブゴーニュ公)|ウード1世]]の弟)母は[[カスティーリャ王国|カスティーリャ=レオン]]王[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]の娘[[テレサ・デ・レオ|テレサ]]。


主君筋にあたるカスティーリャ=レオン王国の混乱を利用して独立を達成し、ポルトガル王国の基礎を築いた<ref name="horupu">グリック「アフォンソ・エンリケス」『世界伝記大事典 世界編』1巻、145-146頁</ref>。
[[1145年]]、サモラ会議に参加した[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス2世 (ローマ教皇)|インノケンティウス2世]]の特使を通じ、教皇にポルトガル領土を寄進する「封建申請書」を提出し、毎年金4[[オンス]]の奉納を約束した。[[1147年]]にイングランド方面からの[[第2回十字軍]]の分派の助けを得て、[[リスボン]]を獲得した([[リスボン攻防戦]])。[[1179年]]に教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]から正式な承認を得て、ポルトガル王国は国際的に認められた。


== 生涯 ==
1185年に亡くなり、[[コインブラ]]のサンタ・クルース教会に葬られた。王位は最初の王妃[[マファルダ・デ・サボイア (ポルトガル王妃)|マファルダ・デ・サボイア]]との間の息子[[サンシュ1世 (ポルトガル王)|サンシュ1世]]が継承した。
=== 即位前 ===
1109年ごろに[[ギマランイス]]で誕生する<ref name="horupu"/>。<!-- [[コインブラ]]で生まれる(金七「アフォンソ1世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』、11頁) -->


父エンリケは[[ミーニョ川]]と[[タホ川|テージョ川]]の間の地域をアルフォンソ6世から封土として与えられていた。[[1112年]]にエンリケが没すると、アフォンソは父の跡を継いでポルトゥカーレ伯になり、テレサが摂政として伯領を統治した<ref name="horupu"/>。テレサの支配下でポルトゥカーレ伯領の支配領域は維持されたが、テレサはカスティーリャ=レオン王国の女王である姉の[[ウラカ (カスティーリャ女王)|ウラカ]]に服属しなければならなかった<ref name="mar45">マルケス『ポルトガル1』、45頁</ref>。
{{Commons|Afonso I of Portugal}}

同時期のカスティーリャ=レオン王国では[[ガリシア王国]]の再興を図るトラヴァス家、ブラガ大司教区に勢力を広げようとするサンティアゴ大司教らが、ポルトゥカーレ伯領への進出を企てていた<ref name="kin45">金七『ポルトガル史』、45頁</ref>。[[1121年]]、トラヴァス家の当主ペドロ・フロイラスは息子のフェルナン・ロペスを寡婦となったテレサと結婚させる<ref name="kin45"/>。こうした状況下でポルトゥカーレの貴族はトラヴァス家への従属を拒み、領内の司教たちはサンティアゴ大司教の進出を苦々しく思い、彼らは協力してガリシア派に抵抗していた<ref name="kin46">金七『ポルトガル史』、46頁</ref>。

ウラカの跡を継いでカスティーリャ=レオン王に即位したアフォンソの従兄[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]]は、[[1127年]]にテレサに封建的義務の履行を承諾させる。ギマランイスのアフォンソはカスティーリャ=レオンから包囲を受けて降伏し、アルフォンソ7世に臣従を誓った<ref name="mar45"/><ref name="abe26">安部『波乱万丈のポルトガル史』、26頁</ref>。

[[1128年]]、この年アフォンソが歴史の表舞台に初めて現れる<ref name="kin46"/>。アフォンソはガリシア貴族と結託するテレサに不満を抱くポルトガル貴族から支持を集め<ref name="spji">金七「アフォンソ1世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』、11頁</ref>、同年6月24日にギマランイス近郊の{{仮リンク|サン・マメデの戦い|en|Battle of São Mamede}}で母とフェルナン・ロペスらガリシア派を破り、彼らをガリシアに追放した。

以降、アフォンソはポルトガルの独立、教会自治権の獲得、イスラム教徒からの国土回復運動([[レコンキスタ]])を目標に定めて活動する<ref name="spji"/>。アフォンソは権力の基盤をより強固にするために聖職者に働きかけ、アルコバッサ修道院やコインブラの[[サンタ・クルース修道院]]を保護し、ブラガ大司教を支援してトレド大司教に対抗させた<ref name="kin47"/>。また、[[ナバラ王国]]と同盟を結んでカスティーリャ=レオンに対抗した<ref name="abe26"/>。

=== ポルトガル王国の成立 ===
[[Image:BatalhaOurique.jpg|thumb|200px|left|1793年にセケイラ([[:pt:Domingos Sequeira|pt]])によって描かれたオーリッケの戦い]]
[[1131年]]にアフォンソは首都を生地のギマランイスからコインブラに移し<ref name="kin-z19">金七『図説 ポルトガルの歴史』、19頁</ref>、コインブラを拠点としてレコンキスタを指導した<ref name="goda"/><ref name="kin47">金七『ポルトガル史』、47頁</ref>。首都の移転により、ミーニョ地方の貴族の影響下から脱することができた<ref name="kin-z19"/>。

[[1135年]]にアルフォンソ7世は「全ヒスパニアの皇帝」を自称したが、アフォンソは皇帝の即位の式典に姿を現さなかった<ref name="kin-z20">金七『図説 ポルトガルの歴史』、20頁</ref>。[[1137年]]に[[トゥイ (スペイン)|トゥイ]]でアフォンソはアルフォンソ7世と条約を結び、臣従を誓うが、両者の関係は間も無く悪化する<ref>マルケス『ポルトガル1』、46頁</ref>。

アフォンソはカスティーリャ=レオンのほかに南部のイスラム勢力とも戦い、領土を広げた。[[1139年]]7月25日に[[オーリッケの戦い]]で[[ムラービト朝]]に大勝を収めた後、アフォンソはポルトガル王を称した<ref name="horupu"/><ref name="spji"/><ref name="goda">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、360-362頁</ref>。オーリッケの勝利後、アフォンソは[[ゲルマン人]]の習慣にのっとって楯の上に立ち、喜びに沸く戦場の全ての騎士から王に選出されたと伝えられている<ref name="kin-z20"/>。後世、オーリッケの戦いにおいて、アフォンソが十字架上の[[イエス・キリスト]]から勝利の予言を受けた建国神話が作られる<ref>村上義和、池俊介編著『ポルトガルを知るための55章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2011年10月)、33-34頁</ref>。国王を称したアフォンソは独立を勝ち取るため、主君であるカスティーリャ=レオン王国と争った<ref name="goda"/>。

[[1143年]]、[[カトリック教会]]の仲介によってサモラ条約でポルトガルとカスティーリャ=レオンとの和平が成立する。この条約によってカスティーリャ=レオンへの軍事援助が条件として課せられ<ref name="mar47">マルケス『ポルトガル1』、47頁</ref>、ポルトガル王国の独立が承認された<ref name="horupu"/>。皇帝を名乗るアルフォンソ7世にとって、王の称号を持つアフォンソを臣下に置くことは自身の権威を高めることにつながるため、アフォンソの称号の使用は容認できるものだった<ref name="kin-z20"/>。そして、アルフォンソ7世はポルトガル王国もナバラ王国や[[アラゴン王国]]と同じようにカスティーリャ=レオンの宗主権をある程度認めていると考えたが、アフォンソはカスティーリャ=レオンから独立した君主として振る舞った<ref>ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、125頁</ref>。

アフォンソはカスティーリャ=レオンと対等の地位に立つために[[教皇|ローマ教皇]]に封臣的な従属を誓い<ref name="goda"/>、[[1145年]]にサモラ条約に同席した教皇の特使を通じてポルトガル領土を寄進する「封建申請書」を提出した<ref>安部『波乱万丈のポルトガル史』、45頁</ref>。教皇に自身と子孫の臣従のほか、毎年4オンス(約120g)の金の寄進を約束した<ref name="mar47"/>。しかし、この行動はアフォンソの主君にあたるアルフォンソ7世への裏切りにあたり、イベリア半島のキリスト教徒の団結を望む教皇にとって望ましいものではなかった<ref name="mar47"/>。アルフォンソ7世は教皇[[ルキウス2世 (ローマ教皇)|ルキウス2世]]の寵愛を受けており、ルキウス2世はアフォンソの行動を褒めて寄進を受け取ったものの、王の称号と王国は認めなかった<ref name="mar47"/>。

=== レコンキスタの進行 ===
[[Image:Siege of Lisbon - Muslim surrender.jpg|thumb|200px|right|リスボンの包囲]]
[[1147年]]3月、イスラム勢力から[[サンタレン]]を奪回したことでアフォンソの名声はより高まる<ref name="horupu"/>。同年5月に[[イギリス]]方面から[[第2回十字軍]]に参加するため出航していた分派がポルトガルに寄港した時、アフォンソは彼らと協定を結んだ。ポルトガル軍と十字軍の分派は17週間にわたってイスラム勢力の支配下にある[[リスボン]]を包囲し、同年10月25日にリスボンを占領する([[リスボン攻防戦]])<ref name="horupu"/>。リスボン攻略後も十字軍の艦隊はしばしばポルトガルを訪れ、レコンキスタに協力した<ref name="goda"/>。

リスボン攻略後、イスラム勢力に対抗する防衛拠点を強化するためにテージョ川流域への植民を試み、[[シトー会]]にリスボンとレリアの間の無人地帯への植民を委任した<ref name="horupu"/>。しかし、テージョ川流域の殖民は進まず、人口の不足を補うために[[テンプル騎士団]]に防衛を依頼した<ref name="horupu"/>。テンプル騎士団のほかに[[聖ヨハネ騎士団]]、[[カラトラバ騎士団]]、[[サンティアゴ騎士団]]がポルトガルに入り、[[アレンテージョ]]地方のレコンキスタが進展する<ref name="goda"/>。

=== レオン王国との戦争 ===
[[1150年]]から[[1169年]]にかけてアフォンソは王国南部に進出し、領土を拡大する<ref name="horupu"/>。[[1157年]]にアルフォンソ7世が没した後、カスティーリャ=レオン王国が2つに分裂すると皇帝の称号は用いられなくなり、アフォンソに課せられていた臣従の義務は消滅した<ref name="mar47"/>。[[1158年]]、ポルトガルは[[アルカセル・ド・サル]]を攻略し、アレンテージョ攻略の基地を確保した。こうして[[1168年]]までに、[[アルガルヴェ]]を除いたアレンテージョ全土がポルトガルによって奪還される<ref name="goda"/>。

レオン王[[フェルナンド2世 (レオン王)|フェルナンド2世]]と婚姻関係を結び、[[1165年]]にアフォンソの娘ウラカとフェルナンド2世は結婚するが、2年後にポルトガルとレオンは対立する。アフォンソは南半分の帰属が未確定であったガリシアに軍を進めた<ref name="horupu"/>。

[[1169年]]にポルトガル人冒険者「豪胆」ジェラルドが[[エストレマドゥーラ州|エストレマドゥーラ]]に侵入した時<ref name="goda"/>、アフォンソはジェラルドの要請に応じて[[バダホス]]に向かった<ref name="lo156">ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、156頁</ref>。だが、バダホスはイスラム勢力の援軍として現れたレオン軍に包囲され、アフォンソは城からの脱出の際に片足を城門に挟まれて(あるいは落馬によって<ref>マルケス『ポルトガル1』、61頁</ref>)負傷し、フェルナンドに捕らえられた<ref name="horupu"/><ref name="lo156"/>。アフォンソは釈放と引き換えにガリシアにおける全ての権限を放棄し<ref name="horupu"/>、トゥイとポンテペドラをレオンに割譲した<ref name="lo156"/>。事故によってアフォンソは従軍が困難になり、軍隊の指揮権は王子[[サンシュ1世 (ポルトガル王)|サンシュ]]に移った<ref name="horupu"/>。

=== 晩年 ===
[[Image:AfonsoHenriques-Tomb.jpg|thumb|180px|サンタ・クルース修道院内のアフォンソ1世の墓]]
[[1172年]]にアフォンソは[[ムワッヒド朝]]の[[アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世]]と5年間の休戦協定を結ぶ<ref name="horupu"/>。

教会に大幅に特権を譲渡し、教皇への寄進の金を4オンスから2マルク(約460g)に引き上げた<ref name="mar47"/>。[[1179年]]にポルトガルは教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]から征服地の支配権を認められ、アフォンソと子孫は正式な王位を認められる。

1185年12月6日にアフォンソはコインブラで亡くなり<ref name="horupu"/>、遺体はコインブラのサンタ・クルース修道院に葬られた。死後、サンシュが王位を継承した。

== 家族 ==
アフォンソ1世には1146年に結婚した妻[[マファルダ・デ・サボイア (ポルトガル王妃)|マファルダ・デ・サボイア]]との間にもうけた7人の子のほか、数人の婚外子がいる。

* [[マファルダ・デ・サボイア (ポルトガル王妃)|マファルダ・デ・サボイア]] - [[サヴォイア家|サヴォイア伯]][[アメデーオ3世・ディ・サヴォイア|アメデーオ3世]]の娘。
** エンリケ(1147年)
** マファルダ(1148年/49年)
** ウラカ(1151年 - 1188年) - レオン王[[フェルナンド2世 (レオン王)|フェルナンド2世]]の妃
** サンシャ(1153年 - 1159年)
** [[サンシュ1世 (ポルトガル王)|サンシュ]](1154年 - 1211年3月26日) - ポルトガル王(在位:1185年 - 1211年)
** ジョアン(1156年)
** テレサ(1157年 - 1218年) - [[フランドル伯]][[フィリップ (フランドル伯)|フィリップ]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ウード3世 (ブルゴーニュ公)|ウード3世]]の妻
* エルビラ
** ウラカ(1130年 - ?) - 婚外子。ペドロ・アフォンソ・ヴィエガスの妻
* 母親不明の婚外子
** フェルナンド(? - 1172年) - ポルトガル王国総司令官
** ペドロ(1130年 - 1169年) - エヴォラ修道会([[アヴィシュ騎士団]])初代総長
** アフォンソ(1135年 - 1207年) - [[聖ヨハネ騎士団]]第12代総長
** テレサ(1135年 - ?)

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 安部真穏『波乱万丈のポルトガル史』(泰流選書, 泰流社, 1994年7月)
* 金七紀男『ポルトガル史』(彩流社, 1996年4月)
* 金七紀男「アフォンソ1世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 2001年10月, 新訂増補)
* 金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年5月)
* 合田昌史「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)
* トマス.F.グリック「アフォンソ・エンリケス」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)
* D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』(林邦夫訳, 刀水書房, 1996年4月)
* A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル1』(金七紀男訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)

== 関連項目 ==
* [[ポルトガル君主一覧]]
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2013年7月14日 (日) 12:58時点における版

アフォンソ1世
Afonso I
アフォンソ1世
在位 1139年 - 1185年

出生 1109年?
ギマランイス
死去 1185年12月6日
コインブラ
配偶者 マファルダ・デ・サボイア
子女 後述
家名 ブルゴーニュ家(ボルゴーニャ家)
王朝 ブルゴーニュ王朝(ボルゴーニャ王朝)
父親 エンリケ
母親 テレサ・デ・レオン
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アフォンソ1世Afonso I, 1109年? - 1185年12月6日)は、ポルトガル王国を建国したブルゴーニュ王朝(ボルゴーニャ王朝)の初代ポルトガル(在位:1139年 - 1185年)。「エンリケの子」を意味するアフォンソ・エンリケスAfonso Henriques)の名前でも呼ばれる。

父はブルゴーニュ家出身のポルトゥカーレ伯エンリケ(フランス語名アンリ、公位を継いだユーグ1世ウード1世の弟)。母はカスティーリャ=レオンアルフォンソ6世の娘テレサ

主君筋にあたるカスティーリャ=レオン王国の混乱を利用して独立を達成し、ポルトガル王国の基礎を築いた[1]

生涯

即位前

1109年ごろにギマランイスで誕生する[1]

父エンリケはミーニョ川テージョ川の間の地域をアルフォンソ6世から封土として与えられていた。1112年にエンリケが没すると、アフォンソは父の跡を継いでポルトゥカーレ伯になり、テレサが摂政として伯領を統治した[1]。テレサの支配下でポルトゥカーレ伯領の支配領域は維持されたが、テレサはカスティーリャ=レオン王国の女王である姉のウラカに服属しなければならなかった[2]

同時期のカスティーリャ=レオン王国ではガリシア王国の再興を図るトラヴァス家、ブラガ大司教区に勢力を広げようとするサンティアゴ大司教らが、ポルトゥカーレ伯領への進出を企てていた[3]1121年、トラヴァス家の当主ペドロ・フロイラスは息子のフェルナン・ロペスを寡婦となったテレサと結婚させる[3]。こうした状況下でポルトゥカーレの貴族はトラヴァス家への従属を拒み、領内の司教たちはサンティアゴ大司教の進出を苦々しく思い、彼らは協力してガリシア派に抵抗していた[4]

ウラカの跡を継いでカスティーリャ=レオン王に即位したアフォンソの従兄アルフォンソ7世は、1127年にテレサに封建的義務の履行を承諾させる。ギマランイスのアフォンソはカスティーリャ=レオンから包囲を受けて降伏し、アルフォンソ7世に臣従を誓った[2][5]

1128年、この年アフォンソが歴史の表舞台に初めて現れる[4]。アフォンソはガリシア貴族と結託するテレサに不満を抱くポルトガル貴族から支持を集め[6]、同年6月24日にギマランイス近郊のサン・マメデの戦い英語版で母とフェルナン・ロペスらガリシア派を破り、彼らをガリシアに追放した。

以降、アフォンソはポルトガルの独立、教会自治権の獲得、イスラム教徒からの国土回復運動(レコンキスタ)を目標に定めて活動する[6]。アフォンソは権力の基盤をより強固にするために聖職者に働きかけ、アルコバッサ修道院やコインブラのサンタ・クルース修道院を保護し、ブラガ大司教を支援してトレド大司教に対抗させた[7]。また、ナバラ王国と同盟を結んでカスティーリャ=レオンに対抗した[5]

ポルトガル王国の成立

1793年にセケイラ(pt)によって描かれたオーリッケの戦い

1131年にアフォンソは首都を生地のギマランイスからコインブラに移し[8]、コインブラを拠点としてレコンキスタを指導した[9][7]。首都の移転により、ミーニョ地方の貴族の影響下から脱することができた[8]

1135年にアルフォンソ7世は「全ヒスパニアの皇帝」を自称したが、アフォンソは皇帝の即位の式典に姿を現さなかった[10]1137年トゥイでアフォンソはアルフォンソ7世と条約を結び、臣従を誓うが、両者の関係は間も無く悪化する[11]

アフォンソはカスティーリャ=レオンのほかに南部のイスラム勢力とも戦い、領土を広げた。1139年7月25日にオーリッケの戦いムラービト朝に大勝を収めた後、アフォンソはポルトガル王を称した[1][6][9]。オーリッケの勝利後、アフォンソはゲルマン人の習慣にのっとって楯の上に立ち、喜びに沸く戦場の全ての騎士から王に選出されたと伝えられている[10]。後世、オーリッケの戦いにおいて、アフォンソが十字架上のイエス・キリストから勝利の予言を受けた建国神話が作られる[12]。国王を称したアフォンソは独立を勝ち取るため、主君であるカスティーリャ=レオン王国と争った[9]

1143年カトリック教会の仲介によってサモラ条約でポルトガルとカスティーリャ=レオンとの和平が成立する。この条約によってカスティーリャ=レオンへの軍事援助が条件として課せられ[13]、ポルトガル王国の独立が承認された[1]。皇帝を名乗るアルフォンソ7世にとって、王の称号を持つアフォンソを臣下に置くことは自身の権威を高めることにつながるため、アフォンソの称号の使用は容認できるものだった[10]。そして、アルフォンソ7世はポルトガル王国もナバラ王国やアラゴン王国と同じようにカスティーリャ=レオンの宗主権をある程度認めていると考えたが、アフォンソはカスティーリャ=レオンから独立した君主として振る舞った[14]

アフォンソはカスティーリャ=レオンと対等の地位に立つためにローマ教皇に封臣的な従属を誓い[9]1145年にサモラ条約に同席した教皇の特使を通じてポルトガル領土を寄進する「封建申請書」を提出した[15]。教皇に自身と子孫の臣従のほか、毎年4オンス(約120g)の金の寄進を約束した[13]。しかし、この行動はアフォンソの主君にあたるアルフォンソ7世への裏切りにあたり、イベリア半島のキリスト教徒の団結を望む教皇にとって望ましいものではなかった[13]。アルフォンソ7世は教皇ルキウス2世の寵愛を受けており、ルキウス2世はアフォンソの行動を褒めて寄進を受け取ったものの、王の称号と王国は認めなかった[13]

レコンキスタの進行

リスボンの包囲

1147年3月、イスラム勢力からサンタレンを奪回したことでアフォンソの名声はより高まる[1]。同年5月にイギリス方面から第2回十字軍に参加するため出航していた分派がポルトガルに寄港した時、アフォンソは彼らと協定を結んだ。ポルトガル軍と十字軍の分派は17週間にわたってイスラム勢力の支配下にあるリスボンを包囲し、同年10月25日にリスボンを占領する(リスボン攻防戦[1]。リスボン攻略後も十字軍の艦隊はしばしばポルトガルを訪れ、レコンキスタに協力した[9]

リスボン攻略後、イスラム勢力に対抗する防衛拠点を強化するためにテージョ川流域への植民を試み、シトー会にリスボンとレリアの間の無人地帯への植民を委任した[1]。しかし、テージョ川流域の殖民は進まず、人口の不足を補うためにテンプル騎士団に防衛を依頼した[1]。テンプル騎士団のほかに聖ヨハネ騎士団カラトラバ騎士団サンティアゴ騎士団がポルトガルに入り、アレンテージョ地方のレコンキスタが進展する[9]

レオン王国との戦争

1150年から1169年にかけてアフォンソは王国南部に進出し、領土を拡大する[1]1157年にアルフォンソ7世が没した後、カスティーリャ=レオン王国が2つに分裂すると皇帝の称号は用いられなくなり、アフォンソに課せられていた臣従の義務は消滅した[13]1158年、ポルトガルはアルカセル・ド・サルを攻略し、アレンテージョ攻略の基地を確保した。こうして1168年までに、アルガルヴェを除いたアレンテージョ全土がポルトガルによって奪還される[9]

レオン王フェルナンド2世と婚姻関係を結び、1165年にアフォンソの娘ウラカとフェルナンド2世は結婚するが、2年後にポルトガルとレオンは対立する。アフォンソは南半分の帰属が未確定であったガリシアに軍を進めた[1]

1169年にポルトガル人冒険者「豪胆」ジェラルドがエストレマドゥーラに侵入した時[9]、アフォンソはジェラルドの要請に応じてバダホスに向かった[16]。だが、バダホスはイスラム勢力の援軍として現れたレオン軍に包囲され、アフォンソは城からの脱出の際に片足を城門に挟まれて(あるいは落馬によって[17])負傷し、フェルナンドに捕らえられた[1][16]。アフォンソは釈放と引き換えにガリシアにおける全ての権限を放棄し[1]、トゥイとポンテペドラをレオンに割譲した[16]。事故によってアフォンソは従軍が困難になり、軍隊の指揮権は王子サンシュに移った[1]

晩年

サンタ・クルース修道院内のアフォンソ1世の墓

1172年にアフォンソはムワッヒド朝アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世と5年間の休戦協定を結ぶ[1]

教会に大幅に特権を譲渡し、教皇への寄進の金を4オンスから2マルク(約460g)に引き上げた[13]1179年にポルトガルは教皇アレクサンデル3世から征服地の支配権を認められ、アフォンソと子孫は正式な王位を認められる。

1185年12月6日にアフォンソはコインブラで亡くなり[1]、遺体はコインブラのサンタ・クルース修道院に葬られた。死後、サンシュが王位を継承した。

家族

アフォンソ1世には1146年に結婚した妻マファルダ・デ・サボイアとの間にもうけた7人の子のほか、数人の婚外子がいる。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p グリック「アフォンソ・エンリケス」『世界伝記大事典 世界編』1巻、145-146頁
  2. ^ a b マルケス『ポルトガル1』、45頁
  3. ^ a b 金七『ポルトガル史』、45頁
  4. ^ a b 金七『ポルトガル史』、46頁
  5. ^ a b 安部『波乱万丈のポルトガル史』、26頁
  6. ^ a b c 金七「アフォンソ1世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』、11頁
  7. ^ a b 金七『ポルトガル史』、47頁
  8. ^ a b 金七『図説 ポルトガルの歴史』、19頁
  9. ^ a b c d e f g h 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、360-362頁
  10. ^ a b c 金七『図説 ポルトガルの歴史』、20頁
  11. ^ マルケス『ポルトガル1』、46頁
  12. ^ 村上義和、池俊介編著『ポルトガルを知るための55章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2011年10月)、33-34頁
  13. ^ a b c d e f マルケス『ポルトガル1』、47頁
  14. ^ ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、125頁
  15. ^ 安部『波乱万丈のポルトガル史』、45頁
  16. ^ a b c ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、156頁
  17. ^ マルケス『ポルトガル1』、61頁

参考文献

  • 安部真穏『波乱万丈のポルトガル史』(泰流選書, 泰流社, 1994年7月)
  • 金七紀男『ポルトガル史』(彩流社, 1996年4月)
  • 金七紀男「アフォンソ1世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 2001年10月, 新訂増補)
  • 金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年5月)
  • 合田昌史「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)
  • トマス.F.グリック「アフォンソ・エンリケス」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)
  • D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』(林邦夫訳, 刀水書房, 1996年4月)
  • A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル1』(金七紀男訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、アフォンソ1世 (ポルトガル王)に関するメディアがあります。