ポルトゥカーレ伯領

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現在のノルテ地方

ポルトゥカーレ伯領ポルトガル語: Condado Portucalense, Condado de Portucale)は、今日のポルトガルノルテ地方の沿岸部に一致するポルトおよびブラガ周辺に存在した諸侯領。9世紀から12世紀までの間はレオン王国封土であった。

概要[編集]

13世紀の記録文書 (cartularyに描かれたポルトゥカーレ伯エンリケ

ポルトゥカーレ伯領の誕生は、伝統的に866年ヴィマラ・ペレスポルトガル語版伯によるポルトへの国土回復運動(レコンキスタ)の目的で設置したことに求められ、レオン国王アルフォンソ3世によって成立したとされている。伯領はレオン王国内において、その自治の度合いを変えながら存続したが、ガリシア王国が短期間分裂していたさなかの1071年ヌノ2世・メンデスポルトガル語版がガリシア国王ガルシア2世ポルトガル語版により敗死させられた。これにより伯領の独立は廃されてガリシア王領内に留まることとなり、続いてサンチョ2世アルフォンソ6世が統治するレオン王国に再統合された。

ポルトガルを含むガリシア伯領は、アルフォンソ6世から婿のライムンドに継承されたが、1096年にアルフォンソ6世はポルトゥカーレ伯領を分離させ、別の婿のエンリケに与えた。エンリケは、アルフォンソの娘(庶子)テレサの夫であった[1][2]

後を継いだエンリケの息子アフォンソ・エンリケスは領土を拡大し、自身の王号は当然のことと考えるまでになった。アフォンソは1128年に権力を掌握し、のちには侵入した母テレサの軍勢をギマランイス付近のサン・マメーデの戦いポルトガル語版で撃破した。この戦いの後には十字と「ポルトガル」の文字を刻んだ印章を作成している。アフォンソはエントレ・ドウロ・イ・ミーニョポルトガル語版ドウロ川ミーニョ川間の地域)の貴族の支援を受けながら勝利しつづけ、1139年オーリッケの戦いで勝利したことで「ポルトガル王」としての即位を宣言した。

最終的には、カスティーリャ国王アルフォンソ8世1143年サモラ条約ポルトガル語版で、ポルトガルの事実上の独立を認めた。ポルトガル王国の成立である。

歴代の伯[編集]

初期ポルトゥカーレ伯の系図
初期
第2期(ブルゴーニュ王朝

脚注[編集]

注釈
  1. ^ Simon Barton (1997), p.14
  2. ^ João Ferreira (2010), p.23
参考文献
  • Barton, Simon (1997), The Aristocracy in Twelfth-Century León and Castile, Cambridge, England: Cambridge University Press 
  • Ferreira, João (2010), Histórias Rocambolescas da História de Portugal [Fantastic Stories of the History of Portugal] (6 ed.), Lisbon, Portugal: A Esfera dos Livros 
  • 金七紀男 『ポルトガル史』 (増補版第1刷版) 彩流社、1996年 

関連項目[編集]