滋野貞主

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滋野貞主 /『前賢故実』より

滋野 貞主(しげの の さだぬし、延暦4年(785年) - 仁寿2年2月8日852年3月2日))は、平安時代初期の公卿宿禰のち朝臣尾張守滋野家訳の子。官位正四位下参議

経歴[編集]

平城朝大同2年(807年)に文章生に及第する。弘仁2年(811年)少内記、弘仁6年(815年)大内記と嵯峨朝にて内記を務め、弘仁11年(820年従五位下・兼因幡介、翌弘仁12年(821年)従五位下・図書頭に叙任される。

淳和朝に入ると、弘仁14年(823年皇太子・正良親王の東宮学士に任ぜられ、また同年には父・家訳とともに宿禰姓から朝臣姓に改姓している。天長6年(829年)には従五位上に昇叙。また淳和朝では、漢詩集『経国集』20巻の編纂に参画し、古今の文書を分類した日本最古の百科事典秘府略』1000巻(現存2巻)を撰集している。

天長10年(833年)正良親王の即位仁明天皇)に伴い正五位上と二階の加叙を受けると、翌承和元年(834年従四位下、承和6年(839年)従四位上と順調に昇進する。またこの間、内蔵頭宮内大輔兵部大輔弾正大弼大蔵卿を務める傍ら、下総守相模守大和守讃岐守と地方官を兼ねるなど、内外の多数の官職を歴任している。承和9年(842年)には参議式部大輔に任ぜられて公卿に列した。承和11年(844年)には私邸(城南宅)を寺として慈恩寺を建立した。貞主は座禅の合間に方々を巡り歩き、人々に慕われたという。承和12年(845年)『便宜十四事』を陳述。嘉祥2年(849年宮内卿を兼ねる。

嘉祥3年(850年文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられ、同年相模守を兼ねる。仁寿2年(852年口吻に毒瘡を病み、詔により医薬を賜与されるが、葬儀は質素に行うようにとの遺戒を残して、まもなく慈恩寺西書院で没する。その死が伝わると哀惜しない者はなかったと伝えられる。仁寿2年(852年)2月8日卒去享年68。最終官位は参議正四位下行宮内卿兼相摸守。

人物[編集]

身長が6尺2寸(約188cm)の長身。元来度量があった。生まれつき思いやりがあり情け深い性格で、話をする際に人を傷つけることのないよう気遣いがあった。また、人々を推挙してその能力に応じて引き上げたという。

長女の縄子は非常に穏やかな性格で立ち居振る舞いも整っていたことから、仁明天皇女御として殊に寵愛を受けて、本康親王時子内親王柔子内親王の3皇子女を産む。また、下の娘の奥子は容姿に優れて、文徳天皇の寵愛を受けるところとなり、これも惟彦親王濃子内親王勝子内親王の3皇子女を産んだ。こうして貞主の家は外孫として多数の皇子女を得て繁昌したが、これも貞主の思いやりがあり情け深い性格のおかげであると、世間の人々から評判になったという。[1]

官歴[編集]

注記のないものは『六国史』による。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『日本文徳天皇実録』仁寿2年2月8日条
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『公卿補任』

参考文献[編集]

関連項目[編集]