海山太郎 (友綱)

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基礎情報
四股名 海山 太郎
本名 河野 貞太郎(旧姓:松田)
生年月日 1854年7月8日(旧暦6月14日
没年月日 (1926-12-30) 1926年12月30日(72歳没)
出身 高知県香南市香我美町岸本
身長 173cm
体重 86kg
所属部屋 ?(大坂)→玉垣部屋(東京)
得意技 右四つ、寄り、掬い投げ
成績
現在の番付 引退
最高位前頭筆頭
幕内戦歴 36勝36敗17分2預69休(16場所)
データ
初土俵 不明(大坂)
入幕 1879年9月場所(大坂)
1884年1月場所(東京)
引退 1891年5月場所(東京)
備考
2019年6月23日現在

海山 太郎(かいざん たろう、1854年(嘉永7年)7月8日(旧暦6月14日) - 1926年(昭和元年)12月30日)は、高知県香南市香我美町岸本出身の元大相撲力士。本名は河野 貞太郎(こうの(かわの) さだたろう)[1]

来歴[編集]

1854年(嘉永7年)7月8日(旧暦6月14日)に高知県香南市香我美町岸本の武士の家に生まれる。地元・高知の土地相撲で活躍の後、弟子を引き連れて大坂相撲へ加入、1879年9月場所に「海山貞吉」の四股名新入幕を果たした。1882年8月場所で小結、その一年後には関脇に昇進したが、ここで大坂相撲を脱退し、同じ大坂出身で東京で活躍する梅ヶ谷藤太郎(初代)を慕って上京、梅ヶ谷がいる玉垣部屋へ入門した。東京相撲では1884年1月場所において西幕尻格番付外で初土俵を踏み、右四つからの寄り、掬い投げを武器とした堅実な取り口で、西ノ海嘉治郎(初代)から2勝を挙げるなどしたが、前頭筆頭まで進むものの三役昇進は果たせなかった。

1891年5月場所を最後に現役を引退、年寄・友綱を襲名したが、海山の活躍はここから始まる。弟子の育成に関しては、後に「四十五日の鉄砲」と呼ばれる突き押しで相手を圧倒して大正時代を代表する名横綱・太刀山峯右エ門や、八幡山定吉國見山悦吉の両大関、関脇・海山太郎ら多くの幕内力士を輩出し、角界の一大勢力を築き上げた。弟子の海山は引退後、5代・二所ノ関として玉錦三右エ門を育てるなど、現在の二所ノ関一門の源流を創り上げた[1]。また、協会運営においても東京大角力協会の首脳である取締に就き、旧・両国国技館の建設に尽力した。こうした海山の活躍には同郷の政治家・板垣退助が後援者にいたことが大きかったとされる[1]

しかし、弟子の太刀山が現役引退、年寄・東関を襲名してから行われた1919年5月場所後の検査役選挙において落選すると自らも取締辞任を表明、周囲が一度は引き留めたものの1921年5月に協会を去った。

主な成績[編集]

  • 幕内在位:16場所
  • 幕内成績:36勝36敗17分269休 勝率.500

脚注[編集]

  1. ^ a b c ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p39-40

関連項目[編集]