浅田宗伯
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浅田 宗伯(あさだ そうはく、文化12年5月22日(1815年6月29日) - 明治27年(1894年)3月16日)は日本の漢方医[1]、儒学者。諱は惟常[1]、号は栗園[1]。
略歴[編集]
- 文久元年(1861年)徳川家茂の御目見を許される[1]。
- 慶応2年(1866年)徳川将軍家の典医となる。
- 明治8年(1876年)宮内省侍医を拝命。
- 明治27年(1894年)漢方儒医として80年の生涯を終える。
生涯[編集]
信濃国筑摩郡北栗林村(現在の長野県松本市島立)に、代々医業と手習師匠を業とする家に生まれる。祖父東斎、父儕斎ともに医師[1]。
地元で初めて民衆に種痘を実施した熊谷珪碩(江馬蘭斎の門弟で、熊谷岱蔵の祖先)や、高遠藩儒臣中村元起(中村弥六の父)に医学の薫陶を受けた後、志を立て京都、江戸において漢方医学と共に頼山陽[1]や猪飼敬所らから経書・儒学・歴史学[1]等を修めた。その後大坂で大塩平八郎の門をたたいて陽明学を学ぶ。はじめ江戸の諸名医の門を叩いたが相手にされず、幕医・本康宗円の理解を得るに及んで、多紀元堅・小島尚質・喜多村直寛ら医学館考証派の諸名家に紹介されたという[1]。宗伯の名乗りは宗円より一字を承けたものである。
徳川将軍家の典医及び宮内省侍医となり、天璋院による徳川慶喜の助命を求める書状を西郷隆盛に届けた[1]。医師としてはフランス公使・ロッシュや嘉仁親王(後の大正天皇)の生命の危機を救った事で知られている[1]。医療や著述のかたわら、明治政府の漢方廃止政策に対抗し、漢方六賢人(宗伯のほか、岡田昌春・清川玄道・桐淵道斎・河内全節・高島祐啓)の筆頭として、漢方保存に尽力した。維新後には宮内省侍医。
漢方が衰退していくなか病床に倒れ、見舞いにもらった紅梅を題材に以下の狂歌二首を辞世として長逝[2]。
- 此の花の大和ごころを失はず 咲き返りても貫かんとぞ思ふ
- 春と云へばいづこの花も時めくに しほれて返る人のあはれさ
著書[編集]
- 皇国名医伝
- 傷寒弁要
- 雑病弁要
- 脈法私言
- 原医警医記事
- 杏林風月
- 先哲医話
浅田飴[編集]
信濃国伊那郡出身の書生、堀内伊三郎が宗伯の元で薬飴を製造し、その子伊太郎が浅田飴と命名し販路を開いたことに始まる。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 油井富雄『浅田宗伯』 医療タイムス社、2010年
- 『大日本人名辞書』講談社、1987年
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 馬場辰二、「淺田宗伯翁の苦荊丸の運用に関する小経験」 『日本東洋醫學會誌』 1955年 6巻 2号 p.18-19, doi:10.14868/kampomed1950.6.2_18, 日本東洋医学会