水谷一生
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水谷 一生 みずたに かずお | |
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生誕 |
1899年(明治32年)4月22日 日本、三重県 |
死没 | 1949年(昭和24年)11月25日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1921年(大正10年) - 1945年(昭和20年) |
最終階級 | 陸軍大佐 |
水谷 一生(みずたに かずお、1899年(明治32年)4月22日 - 1949年(昭和24年)11月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。
経歴
[編集]三重県出身。農業・水谷専松の長男として生まれる。富田中学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。陸士付などを経て、1934年(昭和9年)8月から1937年(昭和12年)1月まで秩父宮雍仁親王付武官を務める。その後、陸士教官となり、1937年8月、歩兵少佐に昇進し、1938年(昭和13年)5月まで陸軍大学校で専科学生(3期)として学ぶ[1]。同年5月、第16師団参謀に就任し、参謀本部員(大本営研究班)を経て、1940年(昭和15年)8月、歩兵中佐に進級。
1943年(昭和18年)3月、東部軍参謀に発令され、1944年(昭和19年)8月、陸軍大佐に昇進した。1945年(昭和20年)1月、第12方面軍参謀(防衛)となり、同年6月、近衛第1師団参謀長に転じた。同年8月15日、宮城事件で上官の森赳中将が殺害され、その報告のため井田正孝中佐とともに東部軍管区司令部へ赴いた。井田は東部軍管区の決起参加を求めたが、田中静壱軍司令官は既に事件鎮圧を決定していた。同日、水谷は東部軍管区司令部付となり、同年12月、予備役に編入された。長男は音楽家の水谷公生。