武蔵家刀自

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武蔵 家刀自(むさし の いえとじ、生年不詳 - 延暦6年4月11日787年5月3日))は、奈良時代後期の采女女官宿禰足立郡(現在の東京都足立区埼玉県南東部)出身。

経歴[編集]

姓・出身地から、武蔵不破麻呂の縁者と思われる。「西角井家系図」では、不破麻呂の娘となっているが、その系図の信憑性は問題があり信用はできない[1]森田悌は『古代東国と大和政権』の中で「女というよりは姉妹ないし姑の方がふさわしいようである。」と記している。

称徳天皇崩御後の光仁天皇の朝廷で勢力を伸ばし宝亀元年(770年)、賀陽小玉女桑原島主和気広虫とともに位階を授与され、従五位下から従五位下に昇叙した[2]

それからしばらく記録が途絶えるが、次代の桓武朝で順調に出世しており、延暦5年(786年)の従四位下を最高位として、翌6年(787年)、

武蔵国足立郡采女(うねめ)掌侍(ないしのまつりごとひと)兼典掃(かにもりのすけ)従四位武蔵宿祢家刀自卒(しゅつ)しぬ。[3]

とあり、現役の女官として生涯を終えている。死因ははっきりしていない。最終的には武蔵不破麻呂の従五位上を越えている。

「掌侍」は「ないしのじょう」とも読み、後宮の礼式などをつかさどった官職、内侍司(ないしのつかさ)に所属する三等官、「典掃」は宮中の掃除や設営のことをつかさどる官職、掃部司(かにもりのつかさ)に所属する二等官で、20年ほどの間に家刀自が宮中において影響力を及ぼす地位に出世している。地方豪族出身で郷土の衆望を担って後宮にはいり、天皇の寵愛を受けて一族の政界進出を影から支え、在地での地位向上に貢献した女性の一人であったものと思われる[4]

官歴[編集]

続日本紀』による

脚注[編集]

  1. ^ 北本市教育委員会『北本市史 通史編』「古代・中世 第3章 武士団の成立 第2節 平将門の乱と武蔵武芝[1]」(北本市教育委員会、1994年)
  2. ^ 『続日本紀』巻三十一、光仁天皇 宝亀元年10月25日条
  3. ^ 『続日本紀』桓武天皇 延暦6年4月11日条
  4. ^ 吉川弘文館『日本古代氏族人名辞典』

参考文献[編集]

関連項目[編集]