橋本公亘

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橋本 公亘(はしもと きみのぶ、1919年大正8年〉7月9日 - 1998年平成10年〉2月6日)は、日本法学者。専攻は、憲法行政法。 1990年まで中央大学法学部教授(法学部長等を歴任)。中央大出身者としての初の日本学士院会員(1992年12月14日から)。1962年から1964年まで第一次臨時行政調査会の臨時委員を務めた。正五位勲二等瑞宝章

略歴[編集]

橋本は、高等文官試験司法科・行政科をそれぞれ4番の成績で合格した秀才である。 大学卒業後内務省に入ったが、第二次大戦中、海軍に応召し海軍主計中尉としてベトナム・サイゴン(現在のホーチミン)で終戦を迎えた。橋本は戦争中、この戦争はどこかおかしいと感じていた。帰国後、中央大学から研究者になることを強く勧められ、橋本もこれを快諾した。橋本は後に日本を代表する憲法学者の一人に数えられるようになった。大学教員になった後、アメリカ・ハーバード大学、旧西ドイツ・ハイデルベルク大学にそれぞれ2年間留学している。

ハイデルベルク大学に留学中の1956年ハンガリー動乱が起こる。橋本はこれに注目し、ハンガリーの国際放送を毎日聴いていた。旧ソ連軍が侵攻してきたとき「今、我々はソ連軍の攻撃を受けている。わが軍はそれに対し全力をあげて戦っている。それを多くの人に知らせてほしい」と数ヶ国語で繰り返し、放送が途絶えた。橋本はこれを録音し、テープを手元で保管していたほどの熱の入れようだった。

橋本は、かなり早い頃から「共産主義国家は、やがて崩壊するだろう」と予言している(憲法の話・NHK市民大学叢書)。

ドイツの公法学者・ラートブルッフを特に敬愛していた。ラートブルッフが主として活躍したのは第二次大戦前のヴァイマル憲法時代であり、当時のドイツで民主主義的な手続きによって民主主義を否定することは可能か、という問題が争われたとき、ラートブルッフは「可能である」という考えを述べた。その後、ヒトラーは民主主義的な手続きで民主主義を否定した。ユダヤ系であったラートブルッフはナチスの迫害から逃れてスイスに亡命したが、そのあと自説を改め、民主主義的な手続きによっても民主主義を否定することはできない、という短い論文を発表して亡くなった。橋本はラートブルッフが残した記録をもとに、スイスに逃れた道を旅したこともある。

ハーバード大学に留学したとき、留学生仲間に「今度のボストンマラソンに日本人選手が出るから応援に行こう」と誘われ、その一人が日の丸を作って持ってきた。橋本は戦争に懲りており、日の丸は見るのも嫌だったが、大男に混じって小柄な日本人選手が走ってきたのを見たとき、感激して友人が持っていた日の丸を奪い取り夢中で振り回した、と語っている。コロンビア大学のゲルホーン教授が来日した際には案内役を務めた。そのとき橋本が「日本には人種差別というものがありません」と話したところ、ゲルホーン教授は「日本には人種差別はないかもしれないが、部落差別というものがあるではないか」と指摘して橋本を驚かせた(憲法の話68頁)。

橋本の学風の特長は、条文と判例を精緻に検討し、そのバランスの上に自説を打ち立てようとしたところにある。そして、憲法研究者がとかく陥りやすい政治論、立法論に走ることを厳しく戒めた。条文解釈では、文字を大切にすることはもちろんだが、単なる文字解釈に終わってはならず、解釈する時点で「立法者ならばどう考えただろうか」ということをどこまでも追考すべきであって、それは「意欲と創造」であると主張した。このような考え方が、学界でタブーとされた自衛隊を合憲と認める説に繋がった。

橋本は青林書院有斐閣から憲法の著作を出版しているが、それぞれ判例を重視し、最高裁判所の憲法判例をすべて網羅しているのが特長である。青林書院の著作で自衛隊は憲法9条に違反すると書いたが、有斐閣の著作では自説を改め、憲法の変遷があったとして、自衛隊は憲法に違反しないと述べたので、青林書院に自分の著作を絶版とするよう求めた。

憲法学者では、東京大学の芦部信喜教授、慶應義塾大学の田口精一教授、明治大学の和田英夫教授と親しくしてその業績を評価していた。一方、東京大学の小林直樹教授とはあまり仲が良くなかった。芦部は橋本に「小林先生は、こちらから挨拶しても、ロクに挨拶も返してくれないんですよ」とぼやいていた。また東北大学の清宮四郎教授から、論文の中で「天皇のおことば」についての憲法問題について橋本の説を歪曲して批判されたので「私の考えはそういうことではない、もっとよく読んでほしい」という手紙を出したところ、清宮から「よく考えてみます」という簡単な手紙が来たあと、音沙汰がなかった。

また、橋本は戦前を代表する憲法学者、上杉慎吉の人物像に言及したことがある。橋本の旧知の最高裁判所判事が高等文官試験を受けたとき、口頭試験の担当が上杉だった。その判事が試験に臨むと、上杉から開口一番「君は、「親を殺せ」という法律ができたらどうするか」と聞かれた。その判事が「私はそういう法律ができても親を殺しません」と答えたところ、上杉から「馬鹿者!そんなことで国の秩序が守れるか!」と怒鳴りつけられたという。その判事は、「はい、親を殺します」と答えたら、それはそれで怒鳴りつけられたのでしょうね、と語っていた。

中央大学では、商法の高窪利一教授、刑事訴訟法の渥美東洋教授、刑法の下村康正教授と親しかった。商法の戸田修三教授とはもともと馬が合わず、大学の多摩移転に反対だった橋本は、学長として移転を推し進めようとしていた戸田と対立した。

趣味は囲碁。妻との間に2人の男子をもうけ、1人は弁護士となり、もう1人はチェースマンハッタン銀行に勤務した。

行政手続法[編集]

1993年(平成5年)に公布、1994年(平成6年)に施行された行政手続法の原案となった橋本草案を1964年(昭和39年)に第一次臨時行政調査会に提示した。行政手続法第1条第1項は、行政運営における透明性とは、行政上の意思決定について、その内容及び過程が国民にとって明らかであることをいうと定めている。行政運営が公平であるというだけではなく、透明性が必要だと主張した。

第一次臨調で行政手続法草案を任せられたのは橋本だけではなかったが、実際は橋本が一人で書き上げた。橋本は憲法全般に精通していたが、特に憲法31条の「法の正当な手続き(due process of law)」という問題に熱心に取り組んでいた。憲法31条は「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定している。しかし、これは単に法律を制定すればよいというものではなく、その法律は正しいものでなければならないし、刑罰を科す場合だけでなく行政手続全般も広く含めるというのが判例通説である。ただし、性質上その手続きになじまない場合があることに留意する必要がある。そこで、橋本は「法の正当な手続き」を踏まえた草案を書いた。橋本案はしばらく日の目を見なかったが、平成6年に施行された行政手続法は告知聴聞の原則を重視したもので、ほぼ橋本案に沿ったものである。

憲法第9条[編集]

従来の自説には拘泥せず、現在の時点での憲法の意味を考えることにつとめた。この結果、憲法9条について自説を改めた。憲法の変遷があったと考えるに至ったからである[1]

橋本は、憲法の変遷が認められるためには、単なる慣習ではなく慣習法の成立、すなわち国民の規範意識に支えられていることが必要であると説く。

9条の規範内容の変遷については、以下のように考えた[2]

  • 憲法学者の従来の通説は、憲法制定当時における九条の規範的意味を正しくとらえていた。
  • しかし、その後の国際情勢およびわが国の国際的地位は著しく変化し、いまでは9条の解釈の変更を必要とするにいたった。自国領土の防衛をすべて他国まかせにすることは、わが国の国際的地位の向上の点から見て、国際社会の同意を得られないであろう。
  • 国民の規範意識も、現在では自衛のための戦力の保持を認めているように思われる。
  • 憲法規範もまた人類の社会生活の規範の一であるから、事実の世界を無視して文字のみを解釈すべきではない。
  • かくして、右の限りにおいて、9条の意味の変遷を認めざるを得ない。

結論として、憲法9条は自衛のための戦力の保持を認めている。自衛隊が、自衛のための戦力の範囲内であれば憲法違反ではない。自衛のための交戦権は認められる。

主著[編集]

  • 『行政手続法草案』(有斐閣、1974年)
  • 「憲法」青林書院新社(1972年6月)
  • 『日本国憲法』(有斐閣、1980年)

「憲法の話」(NHK市民大学双書)

論文[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 橋本公亘『日本国憲法』(有斐閣、1980年)はしがき1頁
  2. ^ 前掲書430-431頁


先代
朝川伸夫
中央大学法学部
1963年 - 1965年
次代
戸田修三