橋本公亘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

橋本 公亘(はしもと きみのぶ、1919年7月9日 - 1998年2月6日)は、日本法学者。1990年まで中央大学法学部教授(法学部長等を歴任)。専攻は憲法行政法。中央大出身者としての初の日本学士院会員(1992年12月14日から)。1962年から1964年まで第一次臨時行政調査会の臨時委員を務めた。

略歴[編集]

  • 1919年(大正8年) 生
  • 1942年(昭和17年)中央大学法学部卒業。高文合格後、内務省入省。
  • 1957年(昭和32年)中央大学法学部教授
  • 1960年 (昭和35年) 法学博士(中央大学)
  • 1993年(平成5年) 叙勲二等瑞宝章
  • 1998年(平成10年)没。叙正五位

橋本は、高等文官試験、司法科、行政科を、それぞれ4番の成績で合格した秀才である。 大学卒業後、内務省に入ったが、第二次大戦中、海軍に応召し、海軍主計中尉として、ベトナム・サイゴン(現在のホーチミン)で終戦を迎えた。橋本は、戦争中、この戦争はどこかおかしい、と感じていた。帰国したあと、中央大学から研究者になることを強く勧められ、橋本もこれを快諾した。橋本は、のちに日本を代表する憲法学者の一人に数えられるようになった。大学教員になったあとは、アメリカ・ハーバード大学、旧西ドイツ・ハイデルベルク大学にそれぞれ2年留学している。ハイデルベルク大学に留学していたとき、ハンガリー動乱(1956年)が起こり、橋本はこれに注目し、毎日、ハンガリーの国際放送を聴いており、旧ソ連軍が侵攻してきたときは、「今、我々は、ソ連軍の攻撃を受けている。わが軍は、それに対し、全力をあげて戦っている。それを多くの人に知らせてほしい」と、数各語で繰り返し、放送は途絶えた。橋本は、これを録音していて、テープを手元で保管していた。橋本は、ドイツの公法学者、ラートブルッフを特に敬愛していた。ラートブルッフが主として活躍したのは、第二次大戦前のワイマール憲法時代で、当時のドイツで、民主主義的な手続きで民主主義を否定することができるか、という問題が争われたとき、ラートブルッフは、「できる」という考えを述べた。その後、ヒトラーが、まさにそのとおり、民主主義的な手続きで民主主義を否定した。その結果は、誰でも知っていることである。ユダヤ系であったラートブルッフは、ナチスの迫害を逃れて、スイスに亡命したが、そのあと、説を改め、民主主義的な手続きによっても、民主主義を否定することはできない、という短い論文を発表して亡くなった。橋本は、ラートブルッフが残した記録をもとに、スイスに逃れた道を旅したこともある。ハーバード大学に留学したとき、留学生仲間に、今度のボストンマラソンに日本人選手が出る、応援に行こうじゃないか、と誘われ、その一人が日の丸を作って持ってきた。橋本は戦争に懲りており、日の丸は見るのも嫌だったが、大男に混じって小柄な日本人が走ってきたのを見たとき、感激して友だちが持っていた日の丸を奪い取って、夢中で振り回した、と語っている。ハーバード大学では、ゲルホーン教授の薫陶を受け、ゲルホーン教授が来日したときは、案内役を務めた。そのとき、橋本が、「日本には人種差別というものがありません」と話したところ、ゲルホーン教授は、「日本には人種差別はないかもしれないが、部落差別というものあるのではないか」と指摘して、橋本を驚かせた。橋本は、青林書院と有斐閣から憲法の著作を出版しているが、それぞれ判例を重視し、最高裁判所の憲法判例をすべて網羅しているのが特長である。ただ、青林書院の著作では、自衛隊を憲法9条に違反する、と書いたが、有斐閣の著作では説を改め、憲法の変遷があったとして、自衛隊を憲法に違反しないと述べたので、青林書院には、自分の著作を絶版とするように求めた。憲法学者では、東京大学の芦部信喜教授、慶応大学の田口精一教授、明治大学の和田英夫教授と親しくしてその業績を評価していた。一方、東京大学の小林直樹教授とは、あまり仲が良くなかった。また、東北大学の清宮四郎教授には、論文の中で、「天皇のおことば」についての憲法問題で、橋本の説を歪曲して批判されたので、私の考えはそういうことではない、もっとよく読んでほしい、という手紙を出したところ、清宮から、「よく考えてみます」という簡単な手紙がきたあと、音沙汰がなかった。中央大学では、商法の高窪利一教授、刑事訴訟法の渥美東洋教授、刑法の下村康正教授と親しい関係にあった。商法の戸田修三教授とは、もともと馬が合わず、中央大学の多摩移転をめぐって移転に反対する立場をとっていた橋本は、これを学長として推し進めていた戸田と対立した。中央大学は、最近、都心に回帰する傾向が著しいので、橋本には先見の明があったといえる。なお、橋本の趣味は、囲碁であった。橋本は、妻とのあいだに二人の男子をもうけ、一人は弁護士になり、もう一人は、チェースマンハッタン銀行に勤務した。 、

行政手続法[編集]

1993年(平成5年)に公布(1994年(平成6年)施行)された行政手続法の原案となった橋本草案を1964年(昭和39年)に第一次臨時行政調査会に提示した。行政手続法第1条第1項は、行政運営における透明性とは、行政上の意思決定について、その内容及び過程が国民にとって明らかであることをいうと定めている。行政運営が公平であるというだけではなく、透明性が必要だと主張した。 第一次臨調で、行政手続法草案を任せられたのは、橋本だけではなかったが、実際は、橋本が一人で書きあげたものである。橋本は、憲法全般に精通していたが、とくに憲法31条の、「法の正当な手続き(due process of law)」という問題に、熱心に取り組んでいた。憲法31条は、「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と、規定している。しかし、これは、単に法律を定めればいい、というものではなく、その法律は正しいものでなければならないし、刑罰を科す場合だけでなく、行政手続全般も広く含める、というのが判例通説である。ただし、性質上、その手続きになじまない場合があることには留意されたい。そこで、橋本は蓄わえた知識を存分に発揮し、「法の正当な手続き」を踏まえた草案を書いた。橋本案はしばらく日の目を見なかったが、平成6年に施行された行政手続法は、告知聴聞の原則を重視したもので、ほぼ、橋本案に沿ったものである。ここに、橋本の努力が結実した、といえる。

憲法第9条[編集]

従来の自説には拘泥せず、現在の時点で憲法の意味を考えることにつとめた。この結果として、憲法九条について、説を改めた。憲法の変遷があったと考えるに至ったからである[1]

九条の意味の変遷[2]

  • 憲法学者の従来の通説は、憲法制定当時における九条の規範的意味を正しくとらえていた。
  • しかし、その後の国際情勢およびわが国の国際的地位は著しく変化し、いまでは九条の解釈の変更を必要とするにいたった。自国領土の防衛をすべて他国まかせにすることは、わが国の国際的地位の向上の点から見て、国際社会の同意を得られないであろう。
  • 国民の規範意識も、現在では自衛のための戦力の保持を認めているように思われる。
  • 憲法規範もまた人類の社会生活の規範の一であるから、事実の世界を無視して文字のみを解釈すべきではない。
  • かくして、右の限りにおいて、九条の意味の変遷を認めざるを得ない。

主著[編集]

  • 『行政手続法草案』(有斐閣、1974年)
  • 「憲法」青林書院新社(1972年6月)
  • 『日本国憲法』(有斐閣、1980年)

「憲法の話」(NHK市民大学双書)

論文[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 橋本公亘『日本国憲法』(有斐閣、1980年)はしがき1頁
  2. ^ 前掲書430-431頁
先代:
朝川伸夫
中央大学法学部
1963年 - 1965年
次代:
戸田修三