楊愛源

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楊愛源
Who's Who in China 5th ed. (1936)
プロフィール
出生: 1887年1月
死去: 1959年民国48年)1月2日
中華民国の旗 台湾台北市
出身地: 山西省代州五台県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 楊愛源
簡体字 杨爱源
拼音 Yáng Àiyuán
ラテン字 Yang Ai-yüan
和名表記: よう あいげん
発音転記: ヤン・アイユエン
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楊 愛源(よう あいげん、1887年1月 - 1959年1月2日)は、中華民国の軍人。北京政府国民政府国民革命軍)、山西派に属した。星如。別号は革非

事績[編集]

晋軍での台頭[編集]

農民の家庭に生まれる。1910年宣統2年)、保定陸軍軍官学校に入学した。1914年民国3年)冬に第1期歩兵科を卒業している。

卒業後は直ちに山西に戻り、閻錫山率いる晋軍(山西軍)に加入した。1917年(民国6年)8月、第1混成旅第1団団長に、1924年(民国13年)には、第6旅旅長に昇進している。その後も、馮玉祥率いる国民軍との戦いを経て、1926年(民国15年)、晋綏軍第6師師長に任命される。1927年(民国16年)春には第2軍軍長となった。

同年6月、閻錫山が北方国民革命軍総司令に任じられた際にも、楊愛源は引き続き第2軍軍長をつとめた。そして張作霖率いる奉天派の軍と戦って軍功をあげている。1928年(民国17年)、国民政府軍事委員会委員、第3集団軍第3軍団総指揮に任じられ、石家荘北京天津の攻略に貢献している。同年11月、この功績もあって、察哈爾省政府主席に任命された。

1930年(民国19年)4月、閻錫山らが蔣介石打倒を目指して中原大戦を起こすと、楊愛源は副指揮として4箇軍を統率した。しかし、反蔣介石軍は敗北に終わる。これにより一時日本への亡命を強いられた閻錫山は、楊愛源と徐永昌に晋綏軍の後事を託し、楊愛源と徐永昌はこれを縮小・再編する事務にあたった。

1931年(民国20年)1月、楊愛源は第34軍軍長に転じている。8月、閻錫山が山西省に復帰すると、楊愛源は晋綏軍事整理委員会主任委員に任じられ、晋綏軍の再建・強化に取り組んでいる。9月、楊愛源は山西清郷督弁も兼任した。1935年(民国24年)からは、省内の全ての公務員、中学校教師・学生に軍事訓練を実施している。

閻錫山の忠臣[編集]

1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発後、楊愛源は第2戦区第6集団軍総司令に任じられ、晋北(山西省北部)を守備した。10月、第2戦区前敵総指揮衛立煌の指揮下で忻口戦役に参戦し、板垣征四郎率いる第5師団に大きな打撃を与えた。1939年(民国28年)、第2戦区副司令長官兼第6集団軍総司令に昇格した。

閻錫山は、山西省に侵攻してくる日本軍との間で時に和し、時に戦いながら自己の権力を保持した。楊愛源も、終始一貫して閻錫山の路線・命令に忠実であった。1945年(民国34年)5月、楊愛源は中国国民党第6期中央執行委員に選出されている。

日中戦争勝利後の1946年(民国35年)、楊愛源は太原綏靖公署副主任に任じられ、閻錫山に次ぐ省内第2位の地位に就いた。その後も楊愛源は閻錫山の腹心として堅固な忠誠を示したが、国共内戦における中国共産党人民解放軍)を相手の戦いでは、次第に劣勢に追い込まれていく。

1949年(民国38年)3月、人民解放軍により閻錫山が籠る太原の陥落が目前となる。楊愛源は徐永昌とともに中華民国総統代理李宗仁に働きかけ、閻錫山を南京に召喚させた。これにより、閻錫山は太原脱出の口実を得ることとなり、専用飛行機により南京へ向かうことができた。4月、楊愛源は閻錫山に随従して台湾へ逃れている。台湾では、総統府顧問委員会顧問に任じられている。1952年(民国41年)10月、引退した。

1959年1月2日、台北にて病没。享年73。

参考文献[編集]

国共内戦期の楊愛源
  • 汪仁沢「楊愛源」中国社会科学院近代史研究所 編『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01328-7 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
公職
先代
趙戴文
察哈爾省政府主席
1928年11月 - 1931年1月
次代
劉翼飛